桑田佳祐論

              木下詳一郎

あなたは(2003.8.8〜)人目の訪問者です。

 【冒頭歌】

 桑田佳祐の歌には、〈無情〉がそもそもの始まりで、〈慕情〉を以て乞い、〈色情〉を以て抗い、そして終には、絶対的に無常に帰依する仕組みがある。桑田にとって「情」は、語りの地点から彼岸へと母胎回帰していくための装置なのだ。

 

『月』

 

遠く遠く海へと下る 忍ぶ川のほとりを歩き

     果ての街にたどり着くころ 空の色が悲しく見える

     振り返る故郷は遥か遠くなる

     柔らかな胸に抱かれてみたい

君を見ました 月見る花に 泣けてきました

嗚呼・・・・・・

     蒼い月が旅路を照らし 長い影に孤独を悟る

     人の夢は浮かんで墜ちて されど赤い陽はまた昇る

     啼きながら鳥は何処へ帰るだろう

     翔び慣れた夜もひとりじゃ辛い

君と寝ました 他人のままで 惚れていました

嗚呼・・・・・・

     夏の空に流れる星は さわぐ胸をかすめて消えた

     波の音に哀しみを知り 白い砂に涙がにじむ

罪深き風が肌を萌やす季節

     酔いながら人は抱かれてみたい

君と寝ました 月夜の蚊帳で 濡れていました

嗚呼・・・・・・

揺れて見えます 今宵の月は 泣けてきました

嗚呼・・・・・・

 

 この書で叙述される言葉の全てが、この歌へと集束されていく。

 

 

 

 【はじめに】

 

 この書は、まぎれもなく歌論であることを、まず第一に断っておきたいのである。

 私は入学してからというもの、卒業論文には是非とも【太宰治】をやろうと決めていた。それも普通に取り扱ってはあまりに藝がないので、「噴飯ものの諧謔」のみをテーマとして、太宰治を喜劇の作家と呼ばれるまでに昇華してみせると、内心、意気込んでさえいた。しかし、大学通いも四年目に至る折り、私は桑田佳祐を題材にして卒業論文を書こうと思い当たることになる。それには二つの経緯があった。一つは、おこがましくも、自分の文学における力量を過信し、四年という時をかけ学んだ「文学」というものを、これからも携わっていく、その前に、皆無の領域で、その威力をまた自らの手で証明したかったからである。この世に起こりうる万物の事象、あらゆる文化を、文学なら、どんな時でも看破できる、そういった信条を誇示しておきたかったためである。つまりこの論文は、桑田佳祐云々と云うよりも、まずは己の学を発揮し、そして己の才を見極めるためのものと云っても過言ではないかも知れない。然るに、あまり謙虚な内容にはならないような気がするので、悪しからず御了承下さい。

 もう一つは、昨今の「文学」の低迷と、それをもたらす文学に携わるすべての人間の怠慢に対する憤りである。それは著す方も被る方も、または評する方も究める方も、メディアそのものに対しても、である。現代は文学にとって、決して干からびた土壌ではないと私などは思う。むしろ肥料満点の、今の世にあって、「文学」の進化する速度は、それこそ日進月歩であっても良いはずなのに、この緩慢さ、これに堪忍がならなくなった。何がどうこの論文と関係しているのかと、些か自分でも分からなくなってきたので、直言させてもらうと、文学対象の多様性において、例えば歌、そう歌である。現在、ヒットチャートに名を連ねる歌手、あ、そう、今は名実ともなわずして無差別に「アーチスト」と云うのだった、を研究している文学者が果たしているのだろうか。歌人よりは詩人が台頭するそのアーチストの、もちろん歌詞のみを抽出してみて、うーん、この表現は萩原朔太郎に相通ずるものがある、とか、この達観した素朴な心象スケッチは宮沢賢治の再来だ、とか、歌人らしきには、これは『源氏物語』を現代的に引用しているとか、縁語だとか掛詞だとか本歌取りだとか、そのように研究している人間がいるのか。言語道断、居るわけがない。当たり前だ。仮にいたとしても、それは例えば学校の教室なので教科書をひろげながら伝達されることは、まずないだろう。笑止千万、書いているこちらの見識まで疑われかねないのでこのぐらいにしておくが、それは何故なのか。対象が、そもそも存在しない。これが最大の原因である。それは否めない。桑田佳祐流に云うなら、「コギャルが一生懸命おもちゃを買っている」とまで酷評をうける現在の日本のJ-popと呼ばれる歌群が、文学的評価を受けるはずがそもそもないことなのである。しかし、それは端から取るに足りないと匙を投げる文学者がいるためではないのか。何故、日本の歌、または詩の歴史に、これらの歌が新時代の歌人として系譜とならないのか。歌の概念が流動してきたにも拘わらず、文学における歌の歴史はもうすでに終了してしまっているのは、何故か。昭和から平成に渡る名曲と呼ばれるものが、どうして音楽の時間に行われて国語の時間に朗読せられないのか。最も普及する言語範疇で、例えそれが文学と呼ぶに至らずとも、言葉や言語のジャンルを文学世界で確立しないから、言語レベルは低下し、言葉を大切に見抜かない活字離れが進行し、表現者の質も著しく落ちるのである。果てに、私などは、「言葉を観る」習慣が消え失せ、もしかすると本屋さんが無くなっちゃうのではないかと、本当に気が気でないのだ。これでは何も良いことがない。

 少なくとも、桑田佳祐は「文学」するには、十分なキャパシティーを秘めていると私は断言できる。がらくたのような歌にまぎれ、捨ててしまうにはあまりに惜しい。

 それから、私はこの書で、やはり、桑田佳祐の創作を「歌」と定義しなければならないが、実は、この点が甚だ微妙なのである。歌と云えども、短歌や和歌のように定型を持っているわけでもなく、詩のような抽象性は見当たらないので、詩とも云えない。よって、私は、「歌詞」という言葉の連なりで成り立つ、新しい時代の、定型詩ではない、さりとて散文とも違う、なかなかどうして、新しい形の「歌」と私がここで決めた。

 もう一つ、私は、いちいち、すべてを述べはしない。当然、肝心要の部分は逃さずに、桑田佳祐を知らずしても、普遍的に通ずる内容の範囲に留めておく。何せ、桑田佳祐に関する、文学的な論文や資料が皆無なため、ほぼ全部を己で紡ぎながら、文学の範疇により密着させて話を展開していかなければならないのだ。資料文献等を頻繁に使用しないから、場合によっては、斬新に画期的でもあるし、また取るに足りないと一笑に付されてしまう事もあるかもしれない。最善の限りを尽くしますので、愛嬌などを以て、何卒、読んでやって下さい。

 

 桑田佳祐の歌は、大衆で囁かれるところの、歌謡曲である。歌謡、それは遡れば、言霊信仰と深いつながりがあったはず。男と女が集い、歌舞に身を委ね、愛を語らう歌垣の世界、またそれに呼応するかのように表出する闇の歌垣、そんな歌の世界の話は、追々に、では。                                                                                 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Θものの哀れ

 

 私は、さしあたって、桑田佳祐に関する人生の系譜をここに記さない。著名人の特権みたいに公開される、あの年表というやつを、どうにも好きになれないからである。表現者である以上、例え彼が波乱に満ちた生涯を送ってきたのだとしても、伝達される一瞬においては何ら無意味でなくてはならないと私は思う。作品と人生は全く別個の次元で考えなければならない。その二つの蓋然性に因果関係を見出すのが何も意味を成さないと云っているのではなく、この書においてはそのような手段を好まないと云うことである。桑田も「人間である前に歌手だって思えば、何でもできるだなって感じがする」と云っているのであるし、個人よりもやはり作家として彼を捉えていきたい。

 と云いつつも、桑田佳祐だって人間であるからして、その人となりを把握せずして話を進めるような無謀なことは、さすがにできないだろう。よって、それは彼の歌から、彼がどのような創作の生き様を呈しているのかを探っていくことにする。さすれば、追々、桑田佳祐という人間の正体が、おぼろげながらも判明してくることと思う。

 さて、以下に挙げる、上下に配置された二つの歌は、その時を六年隔てて、成立した歌である。

『哀しみのプリズナー』 『真夜中のダンディー』

  さぁ部屋中を暗くしてくれ   暗い女の部屋でマヌケな肌をさらし

  待ちわびた情念のSilence   おぼえ始めの味でうなじを真っ赤に染めて

  Just one night we could be the same   世慣れたウソもつけない頃は

  Oh oh oh You & Me │  色気の中で我を忘れてた

  その容姿を照らすかのように

  街並みは永遠のViolence │  中途半端な義理で親父のために学び

  Just one night we could play the game│   他人の顔色だけを窺い拍手をあびて

  Oh oh oh Oh oh oh   泣かない事を誓った日々は

  無邪気に笑う事も忘れてた

  翔べないこの手に

  Do me a favor? Give me the power 真夜中のダンディー ダンディー

  夢のような 夜を抱いて   俺は生きている

  Hold on!! woo │   悲しみのダンディー ダンディー

  汚れた瞳のBrother・・・・・

I've been running I've been hot

  I've been burning oh oh oh・・・ │   このホホを濡らすのは

  I've been waiting for ya │   嗚呼 雨だった

Let's live on together

  I've been trying hang on my love!!   友は政治と酒におぼれて声を枯らし

  俺はしがらみ抱いてあこぎな搾取の中に

  失われた航海に   生まれたことを口惜んだ時にゃ

  淋しげなBrothers & Sisters   背広の中に金銭があふれてた

How could it come to be just fine

  Oh oh oh Wait & See │   真夜中のダンディー ダンディー

  このホホを濡らすたびに   風が吹いている

  かげる太陽のAnswer   悲しみのダンディー ダンディー

  How could we try to make it shine 同じ顔のBrother・・・・・

Oh oh oh Oh oh oh

  追い風に煽られて

  冷たい身体に   嗚呼 逃げてゆく

Do me a favor? Give me the power

  闇のような悲しみに   愛と平和を歌う世代がくれたものは

  So long!! woo   身を守るのと知らぬそぶりと悪魔の魂

  隣の空は灰色なのに

繰り返し   幸せならば顔をそむけてる

  心に浮かぶ 瞳も泣いてる   夢も希望も現在は格子の窓の外に

  抱きしめたら 消えゆくような   長い旅路の果てに魅惑の明日は来ない

  時代を見つめて   可愛い妻は身ごもりながら

  可憐な過去をきっと憂いてる

I'm waiting for someone

  You are the someone who holds me │   真夜中のダンディー ダンディー

  誰が待っている?

  裸になれない都会のはずれで   悲しみのダンディー ダンディー

  ひとつになれるその日が来るなら   過去にすがるBrother・・・・・

繰り返し   降り注ぐ太陽が 嗚呼 影を呼ぶ

  愛しさを知る程に 嗚呼 老いてゆく

  言葉にならない痛みに震えて   またひとつ消えたのは 嗚呼 愛だった

生きぬくような この気持ちは

哀しみのPrisoner

 

 『哀しみのプリズナー』と『真夜中のダンディー』、この二つの歌は明らかにコントラストを形成してあることを、私は発見した。ここは一つ、桑田佳祐という男を想定して、時を隔てて成った、この両歌を比較してみようと思う。

 では、まず、『哀しみのプリズナー』から鑑賞していく。

 第一節の「さぁ部屋中を暗くしてくれ 待ちわびた情念のSilence」は、桑田の創作の原風景だと考えて良いだろう。

 私は最初、てっきり情事でも始まるのかと思った。「部屋中を暗く」する理由なんて一つしかないじゃないか、と。しかし、まさかこれが「情念」を「待ちわび」るためだとは、知らなんだ。何故、そのような邪推が先行したのかというと、桑田佳祐は、エログロが大好物なのである。これについては、また後で述べるが、自らを「潮風の薫りがする変質者」と称したこともあるぐらいで、ハレの場では相応しくないような作品もたくさんある。だが、「さぁ部屋中を暗くしてくれ」と出発し、情念によって語られるこの歌は、哀傷なまでに、内的に、ケの空間への入り口であったのだ、と気付いたのだ。

 私はこの歌を、清かな絶望と痛々しい希望の歌であると位置づけている。よく見ると、この歌には自分の他に、大きく区分して二つの他者の存在が窺える。一つは、「We」「You & Me」「together」「Brothers & Sisters」などの第三者が属する、大衆と云っても良いかも知れない存在。桑田は、この大衆の存在を限定した局面でしか使わない。これもまた後に登場すると思うが、それは、自分と同じ懊悩を抱えた者達に対する擁護と、貪るように都市を徘徊する者達に対する嘲笑。この歌には前者の意味で使われている。そして、もう一つの他者、それが「Someone」と同意義の「You」だ。「I'm waiting for someoneYou are the someone who holds me」の「You」、この「You」は前出の「You & Me」の「You」とは対象が異なるので注意して貰いたい。

 「You & Me」の「You」は、いわば我々(同じ価値観を持ちうる)読み手を指示しており、この歌には一箇所しか出てこない「俺は待っている。俺を抱擁してくれる誰かは、あなただ」の「You」は、まさにこの歌の軸、というよりこの歌に登場する男の最後の希望であり、この「You」を思わねば、生死の際さえ危うい、情念だからこそ為せる業だということが云えよう。「裸になれない都会のはずれで ひとつになれるその日が来るなら」の「その日」こそが、「You」との融合、これは肉体的にも精神的にもの意だと思われるが、「その日」だけが、現時点を生きる糧となっているのだ。しかし、ここで一つ問題が。この「You」は、例えば具体的な誰かを想定していて、歌っているのだろうか。私には、とてもじゃないが、そうは思えない。ここでの「You」は幻想の彼方に控える存在するはずもない女の偶像ではあるまいか。桑田佳祐という歌人は、天性のロマンチストであると同時に真のニヒリストでもある。この両極する属性を兼ねる人間は、得てして、「想い」や「情念」などの想像によって生きながらえようとする。中間がない両極の狭間を煩悶しながら行き交い、どちらにも身を置くことのできない性、どうすることもできない己を呪い、歯痒さに身を崩しそうになるのを堪えて、また彼の男は生きていかなければならないに違いない。

 だからこそ、「You」と「その日」のために、今まで「I've been running(走り続けてきた)I've been hot(熱く)I've been burning(燃え続けてきた)Oh oh oh・・・ I've been waiting for ya(俺はそのものを待ち続けながら)Let's live on together(ともに生きてゆこう)I've been trying hang on my love!!(今までずっと、己の愛に耳を傾けようとしてきたんだ) 」という情熱に生き、最後の「言葉にならない痛みに震えて 生きぬくような この気持ちは 哀しみのプリズナー」という一節が、やけに辛く耳に響くのは、きっと私だけではないと思う。

 次に、『真夜中のダンディー』を『哀しみのプリズナー』と比較しながら見ていく。時を隔て「囚人」から「だて男」へと移行していったにも拘わらず、一貫して云えることがある。それは、どちらも、「囚われている」ということ。「夢も希望も現在は格子は窓の外に」の「格子」というキーワードと「プリズナー」の、この二つの言葉から連想されるのは、そのまま「牢獄」である。『哀しみのプリズナー』においては、確実に「夢も希望も」格子の窓の「内」にあったはずだ。では、夢や希望が格子をすり抜け、内から外にと流出した経緯には、一体何があったのだろうか。

 「色気の中で我を忘れてた」「無邪気に笑う事も忘れてた」「背広の中に金銭があふれてた」これら三つの箇所が過去形を用いて語られていると云うことは、この歌の語りの現在地点は「夢も希望も現在は格子の窓の外に〜」の以下に在り、これより前の歌内容は、「愛と平和を歌う世代がくれたものは〜」が挿入されている以外、すべて回想されている経験なのである。よって、ここいらに、永遠の「You」に「Do me a favor? Give me the power」と哀願し、「夢のような 夜を抱いて Hold on!!」しても「闇のような悲しみに So long!!(=good by)」しても、生き抜いた先で無情に侵食され、「真夜中のダンディー」と成り果てた男の経緯があるに違いない。

 まずは、初めの「暗い女の部屋でマヌケな肌をさらし」から。この「暗い」は、「暗い女」の「部屋」なのか、「暗い」「女の部屋」なのか、どちらを形容しているかというと、私は「暗い女」の方を採りたい。なぜなら、この「暗い女」は「You」と対比していると思われるからである。つまり、こういうことである。確かに、一つになるにはなったが、その対象は明らかに自分が求めていた「You」ではなかった。「You」など居やしなかった。「言葉にならない痛み」にやり切れなくなり、その症状を緩和するため、というよりむしろ「我を忘れ」るために、色事に自身を投ずる逃避装置として「暗い女」は在るに過ぎない。

 『哀しみのプリズナー』では、生き抜くための資本であった「You」、そして「その日」。「You」の幻想が潰えた事は同時に、「その日」の夢もまた消え失せることを意味する。「その日」は、勿論やって来ることはなかった。「長い旅路の果てに魅惑の明日は来な」かったのだ。とすれば、これは、もはや、生きていたってしょうがないのである。命を紡ぐ希望は失われ、ただ破滅へと、死ぬことさえも厭わなくなくなるのが、心情の何処かに芽生える。が、しかし、もう、夢が無くなったからと云って、死のうと考える、そんな甘っちょろい思想は「ダンディー」にはなかった。「生まれたことを口惜んだ時にゃ、背広の中に金銭が溢れてた」から。それも、小金じゃない、使い切れないほどの莫大な金である。「俺はしがらみ抱いてあこぎな搾取の中」を生きていくことに、生きていたら、自覚する間もないほどに、転嫁してしまったのであろう。桑田はこの歌に関して、「本音のところだからね」と自嘲気味にそう語る。

 未だ、若輩のうちに、人の世の無情に囚われた人間は、不幸である。未来における夥しい可能性を想起し、夢を見ながらも、何処か根底で心に、まるで荒野に吹くような「風」が宿るためだ。

 「降り注ぐ太陽が 嗚呼 影を呼ぶ」には、かつて「太陽のAnswer」としてあったもの、つまりこれは希望を紡ぎ出すための真実と言い換えて良い、それを提供してくれた太陽が、影を呼ぶことに気付いた無情観が窺える。『哀しみのプリズナー』では「このホホを濡らすたびに」からも分かるように、確かに涙はその頬をつたわったのだ。しかし『真夜中のダンディー』では、「泣かないことを誓った日々は」や「このホホを濡らすのは/嗚呼 雨だった」からも泣くことさえなくなったことが分かる。かげらざるとも、「太陽のAnswer」は、曇天に雨が降り注ぎ、もはや仰ぐことも能わない。いや、見る気など端からないのだろう。なぜなら、太陽こそが影を呼ぶ本質なのだから。光が闇を生む、これは必然である。輝かしい何かを思い浮かべれば、自分の矮小さが露見する。桑田は、己を卑下し続けることを忘れない。

 『哀しみのプリズナー』にも登場した大衆の用法であるが、これは先達て挙げた二つのうち、後者の方に属する。その「Brother」は、「汚れた瞳」で「同じ顔」の「過去にすがる」男達なのだ。桑田は、これらに同化することにより、己もまた、大衆の群に身をひそめる一介の男に過ぎないと云うことを知るのである。

 「愛しさを知るほどに 嗚呼 老いてゆく」。老いていく過程で、愛しいものが増えていくのではなく、その逆なのである。

 「またひとつ消えたのは 嗚呼 愛だった」。愛、愛。これは、一体、何の「愛」だろうか。愛は愛しさとは違う。愛は、意として与える行為であり、愛しさとは、知らずして惹かれる現象のことだろう。愛しさは、「好き」という感情とよく似ている。「愛しさを知る程に 嗚呼 老いてゆく」とは、一つ前の「降り注ぐ太陽が 嗚呼 影を呼ぶ」と関係していて、ある慕情であったり希望であったりするものが、産み出す現実という名の影、その闇では若年寄然と悟ることが多いのだと思う。何度も何度も、馬鹿の一つ覚えみたいに、その「想」と「生」の間を行き来しているうち、払拭し難い倦怠が、老いさせるのだ。

 私は、ここに来て、この男が失った愛は、「自愛」ではないかと思った。何故そう思ったのか、直感でそう感じたのだ。『哀しみのプリズナー』では、「I've been trying hang on My love!!」の「My love」は、これは自愛ではあるまい。これは誰か何かのために用意された他愛であろう。「色気の中で我を忘れ」、「無邪気に笑う事も忘れ」、「生まれたことを口惜」み、「長い旅路の果てに魅惑の明日は来ない」ならば、「言葉にならない痛みに震えて 生きぬ」いてきた過去を、如何せん!といった具合に他ならない。人が己を傍観したときになくす愛は、自愛以外ないような気がするのだ。

 さて、桑田佳祐という男の御挨拶は、この二つの歌で察するぐらいにしておこう。いずれ、話の展開が拓けるに従い、より深淵で垣間見られるのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Θ艶と色魔

 

 艶、とはつまり、何だろう。恍惚美などと云われても、依然、具体的な情景と相ならない。しかし、それは確かに感ずる情景の形容語として、例えば、清少納言や紫式部などの女流文学者達に使われてきた。和歌には用いられなかったが、漢語の流行とともに「艶」は受容されたのである。そして、また「艶」は、平安後期から鎌倉初期の和歌における、美的理念の一つでもあった。いつ、日本人に「艶」という理念語が根付きその感慨に耽ったのか、それはこの際どうでもよろしいが、今現在は体現するのも困難であることは揺るがないだろう。艶と一口に云ってみても、その趣は、或いは人によっては違うのかも知れない。はしたない私などは、いわゆる濡れ場に蔓延る艶めかしさ、まずそれは想起してしまうのである。または、かつて、藤原俊成が上品な優艶美を追究したのに対し、定家が妖艶美を唱えたように、「艶」とは、現であって現で無し、を探求する過程で生まれる産物なのだと、私は思う。

 さて、では、桑田の唱える「艶」は如何なものだったのか。次の歌をきっかけに、どちらかといえば妖艶な、終いには、エログロの領域まで導いていくことにする。桑田がそれらを表現する過程には、一体、何が隠遁されているのだろうか。

 『JAPANEGGAE(ジャパネゲエ)』

   愛苦ねば 世も知れず

   よう行かば 野に出でん

   浪漫派に旅情 庶民衆の業

   絵空事の

   歩めば 情事成んとす 

 宿塀に湯女けむり

 花魁下に舞妓 常連風の某

   寝ずの泊まり

  *汝は女詣 用すれば艶の談

   娑婆の酔い 酔い 酔い 酔いや

   病めれど止め難き

   宴の才 宴の才

   闇の宵や ただの宵や

   たかが夢や されど夢や

蛇の目に雨あれど    

   恋路に醒めなけり

   良人放蕩な悪性 可憐淫猥の情

   憂い無き世

  *繰り返し

   馴じみの女巡り

   宴の才 宴の才

   愛苦ねば 世も知れず

   愛苦ねば 世も知・・・・・

 

 古文調であることが、またその効果をいっそう煽るのか、艶やかに、そしてまた粋を感じさせるね。ちょっと想像を巡らすだけでも、デカダンの様相を呈しているではないか。昭和初期あたりの作家が放蕩に堕ちていくイメージが浮かび上がる。

 「愛苦ねば 世も知れず」とは、まさに、これ、真理じゃないかしら。私など、まだまだ生きたと云っても二十年そこそこ、知らぬ事が多々あるに相違ない。知らぬ事ばかりといっても、私に限っては過言ではない。愛などというと、何かこう華やかな、総じて幸福を想起してしまいがちだが、「愛の極致を知り得て、なお苦しまざれば、世の真なる姿を見抜くことは能わない」と云われては、はてさて、私のこれからと、今知っている世の中とは何だろな、と考えずにはいられない。後十年、二十年と歳を重ねれば、ああ、その通りだな、と合点がいくことが、あるのかないのか。

 そこで、愛と云えば、この作中の「愛」は、ただならぬ愛、愛執を思わせるのである。愛着よりも執拗にして、何か乞うような愛の姿勢である。

 解釈上、まず気付くのは、同じ音で交響している語句がいくつかあるということである。「艶」と「宴」、「酔い」と「宵」、「病め」と「止め」など、これらは同音異義語であるが、意図的に使用すると、遊び心的な効果の他にも、聴き手や読み手に互換的な想像をもたらすことにもなる。次に着目するのは、やはり現代の歌、音楽の歌詞としても希有な古文調の文体であろう。古文調は、現在の無作法に氾濫する国語とさえ呼びたくない日本語に比べて、もうそれだけで美しい。何よりも、少ない語句の関係だけで、情報量が豊富なのである。

 特に、「汝は女詣」や「宴の才」は余情を含め強烈な感じがする。

 この歌に登場する男の放蕩っぷりは、もう中毒に近い感がある。「蛇の目に雨あれど/恋路に醒めなけり」の語りからも、退廃の一途を、「憂い無き世」と語らせるに至るまで昇華されてしまっているのだから、なまめかしい薬物に毒された常習患者なのに違いはあるまい。それは、「病めれど止め難き/宴の才」とあるから、自覚はしていることと思う。この世を形而上で二分して此岸と彼岸に分けるなら、「宵」と「夢」の対岸のように、此岸としてあるのは最初の一節ぐらいまでで、後は夢現であると云うことができる。「絵空事の」の後がゼロ表記となっていて、ここに何を入れるか、スリルがあるが、ここにはおそらく、以下における所業の幻想が選択されているのだと思う。つまり、この歌の艶とは、幻想美なのである。自分を「絵空事」の中に放置し、放蕩させることによって、現から逃避する。一方で夢現にいて「憂い無き世」と恍惚のままに云い放つ夢現では、自分で自分を「汝」と称し、それは「浪漫派」にとっては「旅情」あり、「庶民衆」にとっては「業」の、彼岸なのである。作家が妄想する範疇において、「絵空事」と事実との距離は、案外、近い。夢現と相反する「憂き世」から、彼岸である「憂い無き世」に身を投じ、再びまた、例えば「酔い」が醒め現に立ち返ったとき、「愛苦ねば 世も知れず」という台詞は生まれくるのだと思う。

 思えば、桑田佳祐という歌人が、日本特有の「艶」の世界を描こうとしたとき、もはや現代では情緒深くは体験できないこの様な背景を、明治、大正、昭和のある時期に、ある種の憧憬を抱きながら、書きしたためるのも肯けるのである。  

 最初の歌で、早くも結論が導かれたが、桑田にとって、色事全般は、世(現実)を手っ取り早く忘却するための過剰な装置なのである。

 

 では、次に、正直なところ、躊躇いを禁じ得ないのであるが、桑田を語る上では是非に書き記しておかなければならないところなので、若干、お見苦しい箇所もあるやも知れませんが、御勘弁いただきたい。

『マイ フェラ レディ』 │ 『スキップ・ビート(SKIPPED BEAT)』

  俺と寝ろ 我 雑踏に消えろ  Lenonが流れるRock Cafe

  舌の根を勃て舐めくわえろ  あれも濡れもす予感

  婦女食わんど知恵熱  いろんな女Corner 可憐な女ばかり

  飲ます精で ちと鼻炎 People on the Floor, oh!!

  うなされど願う慕情

タレントまがいのDisco step

生まれ変わろう 裏穴に入ぇろう  まるで誰かと似てる

こぼれ汁からめて燃えろ   野蛮な女 嫌だァ 美人な女からは

女上位"漏れる"って   くちびるが帰らない

騎馬上位"抜ける"って

異常マラ食べさす裸女  乱れしぐさに心を奪われて

ただMa Ma Ma どう言うの?

闇の土手 下の毛  泣き顔におぼれて 声かけた

増えると いい子丸刈りだ  もう何もかも夢の中へ

俺知らんど 裂け目見えるど

もういい・・・  *Singin' 割れたパーツのマニア

キェンセラ キェンセラ   Oh〜腰をからめ すんげェ

そう メロメロで エロエロで  Skipped Beat, Skipped Beat

ゲロゲロなる 我々たる倒錯  Skipped Beat, Skipped Beat

俺と寝ろ 我 雑踏に消えろ   君にとりこの純正 ジュニア

舌の根を勃て舐めくわえろ  Won't you hear me cry?

婦女食わんど知恵熱  Won't you hear me cry?

飲ます精で ちと鼻炎  No more

入れさせと願う慕情

恋と涙のRock Cafe

闇の土手 下の毛  色にまかれて踊る

増えると いい子丸刈りだ   自然な女Closer ゆうべの女見事

俺知らんど 裂け目見えるど   People at the bar, oh!!

もういい・・・

キェンセラ キェンセラ  夜分に身体は憂う

そう メロメロで エロエロで  甘くせつなく燃える

ゲロゲロなる 我々たる凌辱  いろんな女Corner 可憐な女ばかり

I love your guitar

生まれ変わろう 裏穴に入ぇろう  Play some more to me

こぼれ汁からめて燃えろ

女上位"漏れる"って  誰もかれもが花見と品定め

騎馬上位"抜ける"って   ただMa Ma Ma愛情の

異常マラ食べさす裸女 │  ムラサキの煙にゃ口説かれた

うなされど願う慕情 もう何もかも君の中へ

*くり返し

君にとりこの純正 ジュニア

Don't you go away

Don't you go away

My babe

Woman, Say!! Yeah4 times

Rock and Roll, we like it!!

俺の大好きなPower

*くり返し

君にとりこの純正 ジュニア

Won't you hear me cry?

Won't you hear me cry?

No more

One more time

 

 掲載したことを些か後悔している最中ではあるが、これが桑田が最も得意とする本領なのだからしょうがない。この手の猥歌は、桑田によって数多く作られている。桑田が歌い上げるテーマは「慕情」歌が一番多いのだが、それに並びこの手の色歌も多々存在する。それは桑田にとって、それらの歌を創作する行為そのものが「俺の大好きなPower」に他ならないからである。『マイ フェラ レディ』などはエログロナンセンスの極みと云っても過言ではない、秀歌である。

 私は桑田ほど、全てのジャンルにおける性現象を表現した歌人を他に知らない。心当たりがあるとすれば、官能小説の大家あたりにそれを求めねばなるまい。自慰から性交渉全般、婦女子が初めて貞操を破る語りあり、SM、不倫、同性愛スタイル、等々、満載である。悪く云えば変態、良く云っても変態、じゃなかった、あらゆる性幻想を抱きながら、歌の中で体験し、何より果てることのない彼のエロスの源泉へと、時には無邪気に、時には情事と呼ぶに相応しい官能と操立てて、飛び込んでいく。彼はいつだって「男と女」を書き、歌おうとする。きっと、それが本望に違いない。

 さて、これらの歌を解釈する必要がないかといえば、そうはいかないのである。イヤらしいねぇ、酸鼻だねぇ、では片付けられないものがある。尚、これらには、何と、ナンセンスに思えて、実はちょっとした技巧が使われているのだ。桑田の作歌における技巧については、後でまた章を設けて説明するが、今ここで簡単に触れておくのも良いかも知れない。

 まずは『スキップ・ビート(SKIPPED BEAT)』から。どの部分に注目して解明を図るのかというと、ずばりサビである。「Singin'」、この語にはある言葉が、裏に意を持つ語として掛けられているのだが、お気付きになられるだろうか。そう、「呻吟」である。そしてもう一つ、「Skipped Beat」というフレーズ、実はこの部分にも掛詞と云われるべきものが使われている。何が掛けられているのかといえば、こちらはあまり上品な言葉ではないが、「スケベ」である。一個の曲として聴く限りでは、こちらの音の方が先に認識される。つまり、「スケベ」としか聞こえない。「Skipped Beat」は艶やかな情事の最中にある、例の動作のリズムを示し、「スケベ」はその人間の性質を表している。桑田は、このようにして外国語の音のみをまず利用して、母国語のそれと兼ね合わせる、和歌の修辞用語で云えば、掛詞という技巧を取り入れている。単なる音だけで試みる遊戯的な使用法も見られるが、多くは同音異義語により一つの語に二重の意味を持たせるという掛詞の定義を踏まえている。ただ、掛ける対象が他国の言語であるために、正確には掛詞と呼ぶには相応しくないのかも知れないという疑念も少々あるが、兎にも角にも、桑田はこの外国語に母国語を重ね意味の併用をする技法を確立し、日本の歌人の中では最も多用した存在であることだけは事実である。

 それにしても、桑田の想像がエロスにより大部分を占められているという提言は、もはや疑う余地がない。桑田の歌に心酔し、酒の肴代わりに聴き入る、私なんかは、彼の猥歌を耳にする度に、もう、また何でそんなに、卑猥なの?エッチなの?猥褻なの?グロテスクなの?スケベなの?頭の中にゃそれしかねぇのかい?と常々不思議に思ったものだが、この論文を書くに至って色々と思案した結果、意外と答えは明瞭だったことに気が付いた。桑田は、とある男は、「呻吟」していたんだ、と。「もうもう何もかも夢の中へ」と「もう何もかも君の中へ」は、極めて同等の意味を持ち、つまり「夢の中」と「君の中」に「呻吟」を放出するのは、桑田にとって同じ行為なのである。己が秘密裏に抱く性幻想へと逃避を図るには、何よりも瞬発力が必要なのだと、桑田の歌は物語っているように思える。そのためには、その卑猥な妄想は過剰であればあるほど成功を納めやすいのだ。女達が陳列されている彼の形而上で、彼はいつだって女を描こうと悶え、描く際にはぴったりの女の形態の一つを、この作品で云うならば「Rock Cafe」のような艶やかなる情景から選択しているに違いない。

 次に、『マイ フェラ レディ』の方であるが、これにも『スキップ・ビート(SKIPPED BEAT)』と同様、掛詞的要素の文脈があり、こちらは何と、フランス語である。その前に、一つ忠告しておかなければならないことがある。桑田の歌唱表現は、時として人に敬遠される趣がある。それは、何を喋っているのか分からないという指摘によるものであった。日本語なのにリスニングができないと云うのもおかしな話だが、実際、私なども新しい曲を聴く場合には歌詞を見なければ何を云っているのか分からない部分も多分にあり、時には分かる日本語の方が少ないのさえある。それは何も、彼の発音が滑らかでないとか云う次元による現象ではなくて、それが彼の歌唱法なのである。日本語英語などと称されることもあるが、そういう彼の声帯が織りなす歌は聴けば聴くほど心地よさが増すから、デビュー以来、栄枯盛衰とは無縁でいられるのも頷ける話である。そうのようにしてニュートラルな言葉の発音方が、この外国語を介在させた掛詞には甚だ有効なのである。例えば、「増えると いい子丸刈りだ」は、「フェ」「ル」「ト」「イーコ」「マルガリータ」となり、フランス語の発音法によるものと錯覚させられてしまう。「裸女」「慕情」と韻を踏んでいることからも分かるとおり、この歌は、特に音を大事にして作られている。「ちと鼻炎」も「ティト ビエン」と、彼の声自体が艶めかしい仕組みになっている。

 しかし、この歌は、決定的にエログロであり、秀歌でもあり、ナンセンスでもあるかも知れない。この曲を、何万人という聴衆の前で披露するのだから、公序良俗を乱すとして取り締まられても、文句は云えまいに。まぁ、それはさておき、性を媒介にして、此岸から彼岸に跳躍する先は二つある。一つは、「スキップ・ビート(SKIPPED BEAT)」の一節にある「誰もかれもが花見と品定め」のよう対象をあくまで外に求める場合。互いに身を任せあえればそれで良いという他力本願の姿勢である。これは、男も女も健全な姿として、時にそんなこともあるさ。そして、もう一つが『マイ フェラ レディ』にある「我 雑踏に消えろ」や「もういい・・・」のように退廃につながる自己を中心とした下降する逃避である。ちなみに「もういい・・・」には、恍惚の表情を連想する意味合いも含まれている。デカダンスと云うよりは、闇、である。退廃し堕落することを快楽だと思っている。

 「キャンセラ」はフランス語で、誰ですか?の意味である。相手なんか誰でもいい、自分が誰であっても意に介さない、そういった暗闇の幻想は、「倒錯」し「凌辱」されることによって初めて、「我」を「雑踏に消」し去り、「俺」の存在理由を忘却の彼方に押しやることが可能になるのである。

 

 以上が、桑田佳祐の幻視する官能であります。私はここで、ふと人間としての悲しい欲求の行為に思い当たった。自慰である。誰だって、する、しかし、大っぴらにしてると連呼する人間は限りなく少ないだろう。桑田は、推奨している。自慰を。自慰で脳裏に惑う妄想と、それら魅惑の官能を言語に変換している。発射を悶々と我慢するよりも、放出するがいい。アダムとイブ。解放という名の逃避。暫しはこれにて太平さ、と云わんばかり。ただ、そのような猥歌を無鉄砲に謳ったのでは、公序的に、あまりにナンセンスだと弾糾されかねないので、ささやかなテクニックを忍ばせたりするのだ。

 男と女に介在する「情」。恋愛ばかりじゃない。お追従ばかりじゃない。性を隔てた人間が、一つになるということには、様々な用途があって、そこに一種の愛というものを見出すなら、やはり人は愛を求めいく。

 潮風の薫りがする変質者、と自ら名乗って、含羞する、そんな桑田佳祐を、私はどうにもやめられないのである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Θ浪漫輩に華麗民

 

 人は恋をするという。

 男と女には、縁は異なもの味なもの、ってな具合に、至るべくして至る轍がある。浅はかに算段しても、出会い、恋愛し、やがて肉体的に結ばれ、そして別れる。しかしながら、どういう訳か、桑田の歌には、出会うのは構わないが、決まって、対象を慕うという宿命を背負っている。俗に云う、片想いというやつだ。つまり、相手を慕い、相手と寝る、その中間、恋愛を謳歌する歌がその二つに比べ、著しく少ないと云えるのだ。今の我が国に蔓延するJ-popは、大半が、その中間、今風に云えばラブラブの歌ばかりであり、白痴じゃないかしらと疑ってしまうほどに、滑稽である。これでは十代の少年少女、今や二十代の青年諸君の、風紀が乱れ、分別のないまま、まるでセックスしたらもう一人前、みたいなコドモ大人が繁殖するのもやむを得まい。子供が子供を産み、子供が子供を育てる、日本。もう、人ごとではないのだ。今こそ、満を持して文学を、言葉を絵の具みたく鮮やかに使う文人達の蹉跌を送りた・・・・・・・そうではなかった、少しばかり話が逸れた体になりました、すいません。エーと、そう、何故、桑田には恋愛を謳歌する歌が少ないのか、でした。それは、恋愛に至るプロセスと恋愛に至った後の肉体的な行為、慕情と情事、男と女のそれら以外は、桑田の作歌意欲には触れなかったと云うことじゃないかしら。華やかなりし恋愛には、何が足りないのか。それは、私は、「情」だと確信している。どのくらいの期間かは個人差があるものの、恋愛の中で最も幸福を感じる時期というのは、「情」などほとんど無用の長物であろう。桑田にしてみれば、それが自分の為してきた恋愛によるものかどうかは知らないが、恋愛で互いの機微さえも容赦しないで微笑んでいられる二人の偶像は見えにくい、もしくは意図的に拒んでいるかのどちらかということになろう。こんな事は私が云うのも差し出がましいが、そりゃ今でこそ大スターだが、彼の青春は夜桜散る過去じゃなかったのかしら、なんて、それは私でした。男って悲しいね。

 「女」を上手く書けることのできる文士こそ本物だ、と小説の世界ではまことしやかに囁かれている。これは、まず相違ない、と私も思う。けれど、同様にして、私は桑田ほど「男」を上手く描く作家もざらにはいないと思うのだ。男なのだから、男が上手く書けるのは至極当然、と云われれば、尤もそれまでだが、私には合点がいかない。桑田はおそらく、無類の「女」好きであると思われるが、それ以上に「男」が好きなのではないか、と思うことがよくある。「女」は、ただそれだけで魅力的だ。これは異性が感じる必然なのかも知れないが、「男」からすりゃあ、誰でもそうだ。しかし、「男」の魅力に気付かせてくれる作家は、どうだろう。桑田の歌による、男というものは、たいてい情けない奴なのだ。女々しい、と一喝されても、仕方ない。つまり、「男」と「女」の情念を逆転させているのだ。待つ、待つ。待ち続け、慕う。こんな事を発言すると、フェミニズムを唱える女史さん達に叱られそうだが、一昔前なら、この「慕い続け、待つ」という行為は、「女」のために用意されていたオプションだったはずだ。桑田が、このオプションを「男」に適用させても、通じるのは、すなわち「慕情」という「情」の概念が、人々には潜伏していて、どうしてか共感してしまうからである。それは、どうにもカタルシスの効用を期待しているからこそ、である。桑田の、端倪すべからく、妄想とともに、女の残像を思い思いに耽るのも、人に世の定めに限られる。

『ラチエン通りのシスター』  『Oh!クラウディア』

 呼べばすぐに会える 恋をしていたのは 去年の夏の頃さ

 でも見つめるだけで いつまでも この胸に Oh!Claudia 憶えてる

 もうだめシスター

 そばにいたらそれで夢 湖にあなたと 舟を浮かべたままで

 つれないそぶりでも 二人とも裸なら Oh!Claudia 愛しくて

 他に誰かいるの Oh!うつろうよなEye lineがいいじゃない

 そうね 移り気になりそう 無邪気に翔ぶ鳥のよう Fly

 だめシスター I'll be good to you just forever

 胸を焦がす言葉さえ Can't you hear me? My love

 わからずに ただ泣くわ

思い出は心に 今もまたきらめくよ

*彼氏になりたきゃどういうの 何もかもアナタだけOh!Claudia焦がれちゃう

 心から その気持ち

 つれない文句は もういうな Oh!何も言わずLong hairを風にとかせて

 思い入れひとつで 泣いていたね Cry

 もう もう どうにでも なれる I'll never forget you just forever

Can't you hear me? My love

 (忘れずにいつか) Can't you hear me? My love

 どこかで会える 心にしむ恋は 今宵悲しく

 思い出にやさしく酔える 一人でいると なおのことだよ

 あなたからいつも

 その気にさせる

 よその誰よりも

 呼べばすぐに会える

 でも見つめるだけで

 もうだめシスター

 そばにいたらそれで夢

 つれないそぶりでも

*〈以下、繰り返し〉

 

 お察しの通り、この章では「慕情」がテーマです。今挙げた、二つの名歌は、どちらも慕い焦がれている点では相違ないが、対象がはっきり異なっている。『ラチエン通りのシスター』では、いつも目にするあの娘のことを、『Oh!クラウディア』では、いつも目にしていたあの娘のことを、想定しているのである。恋愛以前と恋愛以後、人が恋をする醍醐味は、案外ここいらにあるのかも知れない。

 『ラチエン通りのシスター』は、桑田佳祐、学生時代の実話に基づくものらしい。容易な言葉が、その実直さを物語っている。「シスター」とは、ある女の偶像を提供してくれている。清楚、可憐、または、未だ他の男とは通じていないという身勝手な妄想も暗に含まれているかも知れない。いや、きっとそうだ。でも、男はどうして、まぁ、そう処女にこだわるかね。悲しいね。思えば、世には、「処女」と名の付くものがたくさんある。処女出版、処女作、処女航海、処女林、等々、これらはまず間違いなく男が名付けた造語に他ならないと思う。とかく、男は処女を敬愛する傾向がある。それは、さておき、その「シスター」とやらは、身近に位置する対象だということが分かる。「呼べばすぐに会える」ぐらいだから、明らかに近い。だが、果たして、本当にその対象を「呼べ」るのかといえば、疑問符が付く。つまり友達ぐらいの間柄なのかといえば、決してそうではあるまい。「呼べばすぐに会える」のに、それほど近くにいるのに「呼べ」ないのだ。「見つめるだけで もうだめシスター」なんだから、そうだ。この歌は、傍観と妄想の語りなのである。

こう云っちゃ何だが、「胸を焦がす言葉さえ/わからずに ただ泣くわ」なんて、男が口走って良いものなのか。女々しい、を通り越して、情けない。桑田の「慕情」を掲げた歌に登場する男の主体は、当然、甲斐性無しばかりが現れる。不甲斐ない。でも、そんな歌を聴いて、コップ酒片手に涙する私の方が、よっぽど、みっともないのではあるが。

 さてさて、この歌には、桑田佳祐流の慕情をダイレクトに言い表した語があるが、お気付きになられるだろうか。そう、「つれない」という表現である。この「つれない」という表現、桑田の歌にはたびたび目にする言葉であるが、これこそ実に、慕情という趣と同意義に扱える形容詞なのである。「つれないそぶり」、「つれない文句」、これらは現実の情景として考えるのであれば、私が述べたような、慕情との一致は、いまいちぴんとこないかも知れない。しかし、自分が恋慕している最中、形而上でその相手を想ってみるとき、その対象が愛想良く笑っていたら、「情」にならない。「つれない」からこそ、慕ってしまうのであって、相手との恋愛を空想してしまっては、ただの身勝手な妄想になってしまう。ええ、しかし、この桑田佳祐という男は、やはり、やってしまうのだ。「思い入れひとつで もう もう どうにでもなれる」というのが、まさに妄想癖発症の合図。そして、ここで完了する。慕情の果ては、相手に想いを告げることではなく、やる瀬ない哀愁が漂うようである。「あなたからいつも/その気にさせる/よその誰よりも」などという一節に、聴き手は同じ境遇の我が身を憂いて、共感を獲得していくのだ。

 では、『Oh!クラウディア』はどのような慕情の類型を呈しているのか。こちらは、別れの後で、去りゆく対象を、未だに恋い焦がれるものであるからして、『ラチエン通りのシスター』に比べて、まず対象との距離が違う。「Can't you hear me?」からも察しが付く。「クラウディア」さんと、別れて尚も、「何もかもアナタだけ」なのだ。この歌は、回想録である。思いを巡らしている地点は、「今宵」。慕情という舟に乗って過去を遡るとき、人は思い出を美化したり、卑下してみせたり、その束縛されない領域で思い思いに脚色することがある。私が、この歌で最も印象的だったのは、「湖にあなたと 舟を浮かべたままで 二人とも裸なら〜」の節である。この情景は、美しい。もし、本当に「二人とも裸」だったなら、桑田にしてみれば憧憬であった、この架空の風景は、真に見事であると私は思う。

 と、ここまでは、あくまで、桑田の慕情の形態を知っていただいたに過ぎない。本格的に、鑑賞に留まらず、解釈を加えていくのは、ここより先と相成ります。

 

 『CRY CRY

   雅 白たへの

   霧らふ 天霞

   月は十六夜 垂ゆる影

   宇宙は 幾世にか

   年の 経ぬらむや

   生れしことを 泣くも良い

   追い及かむ 君へ

   哀れを乞うても 嗚呼

   さも知りなむ 故に身は病む

   待ちにか待たむ 嗚呼

  *世は無常 汝は慕情

   我 恋ひめやも

   CRY CRY 

   汝は妖艶たる美

   さも不埒なる愛

   CRY CRY

   よろず能宴たる美

   千代に天照らす舞

   君よ 手童の

   如き さやけしき

   取りてそしのふ 柔き女陰

   晩秋は ぬばたまの

   夕闇に 離り居て

   過ぎし日々を 泣くが良い

   追い及かむ 君へ

   我が恋止まぬ 嗚呼

   古思ふに 眠も寝らめやも

   夜泣きかへらふ 嗚呼

   世に非ず 汝は菩薩 

   濡れ立ちてやも

   CRY CRY

   汝は妖艶たる美

   さも不埒なる愛

   CRY CRY

   よろず能宴たる美

   千代に天照らす舞

    ますらをや 恋ひつつあらずは 彼岸花

    咲きて散りぬる 花にあらましを

  *〈くり返し〉

   CRY CRY 

   汝は妖艶たる美

   さも不埒なる愛

   CRY CRY・・・

 

 この歌は、桑田佳祐の、夥しくある、怒濤逆巻く歌の中でも、最も難解であると云っても過言ではない。何よりも、この歌の背景には、万葉の頃、「まこと」の文学とも呼ばれている上代の、由緒ある「明き清き直き誠の心」という言葉が見え隠れするからである。そうです。この『CRY CRY』は『万葉集』にある、諸々の歌に端を発しているふしがあるのです。例えば、作中にある「霧らふ」と「我が恋止まぬ」というキーワードから推測すると、「秋の田の 穂の上に霧らふ 朝霞 いつへのかたに あが恋ひやまむ」(万2八八・磐姫皇后)が表出するし、「取りてそしのふ」という節からも、「・・・・・・黄葉をば 取りてそしのふ・・・・・・」(万1一六)などが万葉の頃に見える。「そ」や「しのふ」が清音であったり、「やも」などという表現も、上代の特徴といえよう。

 私は別段、桑田佳祐の教養とやらを褒め称えるつもりはない。が、しかし、現れては消え、顔が変わっただけで唄う歌は同じ、そんなめまぐるしいリサイクルな音楽業界にあって、漢字さえも読めない堕落した消費者に、このような背景を持つ歌を世に送り出せるのは、それはやはり時代の先端に鎮座する、桑田佳祐ならではである。今現在、音楽業界を飯の拠り所としているミュージシャンで、『万葉集』なぞに興味を示し、自ら進んで精通していったのは、桑田佳祐を除いて他にはいまい。桑田が、上代の万葉を夢見て、言葉を紡ぎ出す過程には、その時代に歌の素朴な原点を発見し、感銘が伝達欲に変換されていった、美しき言葉に魅了された歌人の歩行がある。

 さっそく、万葉の秀歌から、あるべき日本の言葉の素晴らしさを復活させるべくして相成った、この歌を拝見していきましょう。ことだま、言霊。

 着目すべきポイントが多々ありすぎて、何から、取りかかったらいいのやら、些か躊躇してしまったので、ここは、私が一番好きな箇所から、覗いてみる。「君よ 手童の 如き さやけしき 取りてそしのふ 柔き女陰」、ずばり、ここだ。未だ母の手の中に育てられているような、清廉潔白な乙女の、「女陰」を賞美して・・・・・あんな事や、こんな事、はたまた、こんな事まで・・・・・・・・・・、仕事帰りの電車の中で中年の男性諸君がこっそり抱く妄想の秘密の愉悦がここにある。「柔き女陰」という、言葉に否が応でも惹かれてしまう年輩のお父さんは、少なからず存在しているはずだ。不惑が何だい!と。

 どうも、私は秀句に出会うと暴走してしまう傾向が、ある。でも、全く馬鹿げた解釈の方法でもないので安心して下さい。要するに、まず、しっかりと、この「君」という慕情の対象を認識して貰いたかったのである。その「君」へ「追い及かむ」、この隔たる距離が、この章の要因であるのだから。それは、云い方がナンセンスだが、エロ本と万葉集、この距離感、ギャップに少しばかり似ている。

 一段落目の情景、これはまさしく「雅」であるが、そこに「垂ゆる」ひとつの「影」。この「影」が、慕情の対象である「君」であるなら、先達ての『万葉集』にある歌「秋の田の〜」と同様に、その情景内に「恋ひ」という概念を織り込んで詠まれた「影」として、その心は見事である。が、そればかりではないのが桑田なのである。二段落目にある「生れしことを 泣くも良い」のような、暗い「影」、いわば「業」、この意味もあると私は思う。そして、その二段落目は、まるごと、文学における無常観というものを呈しているのである。

 この歌における、最大のテーマは、「泣く」という言葉に集約される。「CRY」も同じ意味だから、拾っていけば、この歌の中にはかなりの数、この意味の言葉がみられる。「泣く」という行為、これは、カタルシス(浄化)が意識下で為される、人の大切な装置だ。涙と浄化、人はこの因果を決して忘れてはならないと、私は強く思う。男だって泣く。昨今は男の方が泣く。いいじゃないか。好きなだけ泣けばいい、とは手垢にまみれた言葉だが、事実、きっとそうなのだ。「晩秋は ぬばたまの/夕闇に 離り居て/過ぎし日々を 泣くが良い」と、桑田だって、「泣く」ことを推奨している。これは先の「生れしことを 泣くも良い」とは違うのは、分かっていただけると思う。「生れしこと」を、「泣く」のは、人の自由である。そんなときがあっても、良いかも知れない。ところが「過ぎし日々」を「泣く」ことには、寛大なのではなく、むしろ、お薦めしている節がある。まぁ、これには反論もあるかと思う。嘲っているのかしら。しかし、これはあの桑田佳祐が詠んだ歌である。桑田は、真の弱者を小馬鹿にしたりはしない、という確信が、長いこと彼の歌で酒を共にしてきた私にはある。「〜夕闇に 離り居て」も「過ぎし日々」を「泣く」ことは、無能ではないのだ。「古思ふ 眠も寝らめやも/夜泣きかへらふ」ともあるが、過去を顧みて、後ろ向きに歩行して生きていく人の世、文学は、こればかりは不人情に扱ってはならぬ!

 さて、「追い及かむ 君へ」であるが、君、君、君、君、君、嗚呼、君、と、恋い焦がれるとはよく耳にするが、「哀れを乞う」とは、いかがなものか。何処までも自分を卑しく見積もる、そこから、聖母に乞うようにして、「君」へと「哀れを乞う」。しかし、慕情と共に無情をも知りうる者は、すでにして「さも知りなむ」なのである。わかっちゃいる。わかっちゃいるけど、「我が恋止まぬ」なのである。「故に身は病む」。残された手段は、悲しいかな、「待ちにか待たむ」しかないのだ。

 ここまでで、しかと、この、あわれな光景を目に焼き付けておいて欲しい。一つ一つ、思い浮かべた心象を、今一度、再生させてみて、それは暗いだろう。「CRY」だろう。しかしながら、それは一気にサビの部分で逆転がはかられる仕組みになっている。「汝は妖艶たる美」や「さも不埒なる愛」が、錆びついた刃で切るが如く、その涙に彩られる情景を一撃する。「よろず能宴たる美」や「千代に天照らす舞」が、まさに「雅」の如く、暗く澱む光景を、一掃し、晴らしてくれる。この逆転劇が可能になるのは、「世に非ず」と見切った者にしか許されない。「我 恋ひめやも」と、「濡れ立ちてやも」と、云いつつも、「慕情」は「菩薩」であるからして、そしてそれは、「汝」つまり「君」であるのだから、慕情の役割は極めて大きい。陳腐かも知れないが、希望だ。明日に生を繋ぐ希望を、慕情は一身に背負ってるわけである。これら解釈は、一番初めの章でも触れたはずだが、ここで新たに強調しておく。その希望とやらは、必ずしも、皆が抱いているような、進行形の明るいものとは限らないのだ。砂を噛むような希望もある。涙で注ぐ希望もある。ちっぽけな傍から見れば無価値の希望もある。千差万別、十人十色、人は、どんなことでも生きる糧にできるよう、都合良く作られているのかもね。

 御覧の通り、慕情の対象は、もはや神の領域にまで、崇拝されているのである。「菩薩」ですよ、「菩薩」。「菩薩」を慕う。それほどまでに、「世は無常」なのだろうか、と萎縮してしまう私がいる。

 では、この歌の解釈の最後に、例の短歌を一つ。

 ますらおや 恋ひつつあらずは 彼岸花 咲きて散りぬる 花にあらましを

 男子たる者、恋のひとつもしてないで、ぽつねんと居ったら、あんた、そいつは彼岸花さ。そんなところに咲く花でも、(桜のように)咲いては散ってゆく、花であったら良かったのになぁ。

 と、こんな意味になるのかしら。最後の箇所は、「咲いては散ってゆく、花でありましょうよ」という解釈も成り立つが、あえて助動詞「まし」の意味を、控えめな推量・意志ではなく、反実仮想の意味にしておいた。何故かというと、私の好み。根拠は?と訊かれれば、私も彼岸に咲く花だからと答えよう。

 尚、訳中に桜を用いたのは、この歌が『さくら』というアルバムに収められているから、因果づける気はないが、彼岸花の対称として、桜のイメージを入れてみたりした。

 『万葉集』には、万葉仮名で表記された「ますらをぶり」と呼ばれる特性を持った歌がある。賀茂真淵やその一門の歌人が、理想とした和歌の風体であり、素朴で雄大、簡明な、男性的な歌であるという。では、今、現存する日本の「ますらを」が、この「ますらをぶり」に通用するかと云えば、心もとない。ますらを、なんて居るのかという気さえしてくる。今の時代を、世相を、的確に捉え、もはや隠すべくもない、桑田の、卑小で猥褻な「ますらをぶり」は、きっと私のみならずとも、受容される機会が多大にあるのは、何も、嘆かわしいことではない。男も、男の群像も、女も、女の偶像も、今は、変わってしまったのだから。

 

 桑田が扱う慕情という「情」は、彼自分の創作活動において、不可分なものと思われる。

 

 夢の中で、とびきりの美少女に会う。それは、かつて慕った誰かでもなく、テレビなどにお目見えするアイドルでもない。初めて見る、少女。好きだった。目が覚める。呪わしき覚醒と共に、彼女の残像が、記憶の残滓が、彼岸へと追いやられていく。暫く布団の中で、せめてもう一度、逢いたいと願い、眠りに落ちようとするが、もはや再びは眠れない。逢いたい、夢の中だって構いやしないのだ。

 と、こんな感じがちょうど、桑田の慕情の領域を説くのに、いいのではないかしら。桑田の慕情は、達成されることのないことを、彼自身、予見していて、それ故に、歌が編まれるのは必然と云うべき、因果である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Θ90 years old

 

 何はなくとも、まず、こちらをご覧下さい。

 

 『タバコ・ロードにセクシー婆ちゃん』

   タバコ・ロードで逢ったSexyばあちゃん

   夢多かりし年ごろ別れたじいちゃん どこにおると

   見境なくSearchin' for him

   今にも泣きそうなSexyばあちゃん

   あきらめず 耐えきれず(Oh sexy ばあちゃん)

   あまり無理をするほどには

   いかずとも じいちゃんに逢いたい

   Oh! No! ふたりともに夢から醒めた時には90 years old

   (寄る年波)別れたままこのまま

   死にきれず ばあちゃんはOnly one without funkyじいちゃん

   心の夫よC'mon, c'mon, c'mon, c'mon in

   恋して燃えてSo long, so long, so long, so long

She's gonna move, she's gonna move

   別れた人を今さら忘らりょか

   She's gonna die, she's gonna die

   これじゃばあちゃんもつらい Oh! Yeah! 

   タバコ・ロードで逢ったSexyばあちゃん

   夢多かりし年ごろ別れたじいちゃん どこにおると

   見境なくSearchin' for him 

   

No! No! そばに居てたころから彼と行きたやタバコ・ロード

(それだけなの)夜になれば寒かろ

このままじゃじいちゃんは Nowhere man without sexyばあちゃん

心の夫よC'mon, c'mon, c'mon, c'mon in

恋して燃えてSo long, so long, so long, so long

心の夫よC'mon, c'mon, c'mon, c'mon in

恋して燃えてSo long, so long, so long, so long

She's gonna move, she's gonna move

別れた人を今さら忘らりょか

She's gonna move, she's gonna move

別れた人を今さら忘らりょか

She's gonna die, she's gonna die

これじゃばあちゃんもつらい

じいちゃんもいないで情けないもんね

タバコ・ロードで・・・・・・・・・・・・・・・

 

 老いた女の歌である。これもまた、私の好みの歌であり、老婆の推し量ることのできない悲哀が見事に描写されている。桑田佳祐曰く、「女の恋ってやはり老女の恋がホントの恋だと思っているからね。気持ちがあっても身体がついていかない恋ってすごいと思いますよ」と。桑田にとってみれば、「ばあちゃん」は「Sexy」であり、老いた女の今だからこそ「夢多かりし年ごろ」なんだと感ずることのできる視点がある。確実に迫り来る死の季節と、「ばあちゃん」自ら、またそれを能動的に望んでいる事実。「じいちゃん」は、もはや、「ばあちゃん」だけの愛執の彼岸にのみ、その存在を許されているのである。「別れた人を今さら忘らりょか」と嘆く老婆の姿を、私は筆舌し難い困惑と共に、思わずにはいられないのである。

 実は、この章は、鑑賞を旨とするものではなく、主として、桑田佳祐によって編み出された技巧や語りのテクニックを追求していく文脈である。よって、この歌に関しても、鑑賞はこのぐらいに控えておいて、本題に入ろう。

 さしあたって、以前にも提示したように、桑田の歌には掛詞という修辞が多分に発見できる。桑田にしてみれば、それら技巧を用いることについて、何も深くは思案を忍ばせていないのかも知れない。単なる遊技であるのかも知れない。しかし、桑田佳祐と云う男についての論文をしたためている私としては、そう易々と見過ごすわけにもいかない。

 さて、この『タバコ・ロードにセクシー婆ちゃん』であるが、この歌の内部にも、ある秀句と呼んで然るべき掛詞が使われていることをお気付きになられただろうか。この章の象徴として、標題ともなっている、「90 years old」の箇所である。

 婆ちゃんは幸せだったに違いない。「じいちゃん」と「ばあちゃん」、この二人の間を通いあった夢のような日々。そして、かたわれは逝き、あたしゃ、ただひとり。気が付けば、長い道程で年は九十をまわっていた。これが、一つの意味。

 そして、裏には、「ないんてぃいやーずおーるど」、「ないぃてぃずおー」、「ないていいぞぉ」と、おそらくこの様な過程の後に、「泣いていいぞ」という投げ掛ける優しさの台詞が表出する。あっ!今、それはいくら何でも強引だと思ったでしょう。馬鹿にしちゃいけねぇ。こればっかりは、聴覚優位で、曲を聴いて貰えれば、必ずや、判然とするはずです。桑田は明らかに、意図的に、暗にこの意味を内在させているのだ。

 「90 years old」と「泣いていいぞ」、この掛詞の一体何が秀句と私に信奉させるのか、それはパッと見ただけでは掛けてあるんだか無いんだか、瞭然としないところが味噌なのである。独りぼっちの老女が佇んでいて、死を目前に予感し拒むでもなく、むしろ往生を望みながらも、先に逝かれた夫を執拗に捜す人間に、声を、慰安の言葉をかけるとしたら、あなたはありのままの言葉で直に語ってあげることができるだろうか。少なくとも、私はただ沈黙してしまうと思う。自分より長く生きた人間を眼前にして、かける言葉が見つからない。己の至らなさに苦々しい気持ちで顔を歪め、何も語りかけるべきではないんだと、ただ去るより他に手が無いじゃないか。そんな葛藤の気持ちが、この掛詞には根元にあるのである。心中密やかに慎ましく、伝えたい言葉と、老婆との距離、老婆に対する思いやり、それらを一番相応しい技巧で送る。曖昧模糊としている点が、逆に思わぬ意味を膨張させ、この歌に深みを与えている。それ故、この掛詞が特殊に秀でていると私は思うのである。

 この様に、桑田の歌には実に様々な形で「掛詞」が使われている。数えあげればきりがないので、次にもう一首だけご紹介しておく。この歌は、桑田の歌の中ではひどく珍しい、恋愛を謳歌しているラブ・ソングで、それが癪に障っちゃったからではなく、一番だけ十分に説明が利くので、一番だけを抜粋します。

『夕方Hold On Me

夢でいいじゃないか

今にも夕方Hold on me

ためらわないで

互いに相方Hold on you

冷たくしないで

今まで曖昧なBe your love

何もかもが

変われば有名なBe with me

君よ愛しのLady Jane

俺だけのものDear one

My baby 涙を見せず 今宵こそは

You oughtta know by nowwoo woo

Why do we do? you know my heart's beatin'

Da Da Da・・・・

他の誰かじゃ駄目なの 恋にならない

My love in you. you know my part's longin'

君の身体にもう一度 うまく乗れたら

Sha Ba Da Sha Ba Da You

 この歌で掛詞が使われている箇所は計四つ。「夕方」「相方」「曖昧な」「有名な」の部分である。いずれも、「you've got a〜」「I've got a〜」「I might not〜」「you may not〜」という英詞の意味が、我が日本語の音にかけられている。つくづく、桑田は柔軟な言語能力の持ち主であると思わされる。言葉に関して云えば、もはや「匠」の域である。に、しても、恋人を欲する欲求を「you know my part's longin'」などと、いかがわしい表現で織り込まれたラブ・ソングは他の追随を許すまい。桑田佳祐には、唐突に表出する意外な発見と、技巧を楽しむゆとりがあるのだ。

 

 私は次に、桑田佳祐の「語り」の状態が、特殊な視点から成り立つものを提示してみたい。

 まずは、歌であるのに、「物語り」で構成されている歌などがある。物語を読む感じでお楽しみ下さい。

 

 『マチルダBABY

  真向に立つ悪魔の要塞

  見張る男はでかいのなんの

  君が捕われの身なんて たとえ夢にも思えない I say

  “わっ!どうしよう”オノ持った嫌な番人

  顔は怖もて 目はうつろ

  今ここで俺つかまっちゃあ ミイラ捕りまでミイラかも I say

  It's just a fantasy, oh oh

  夢ならはよさめて

  It's just a sympathy, oh oh

  Hey little girl, I say, "C'mon", little girl

  逢いたい気持ちが So much more

  言葉では言えないほどに

  体がふるえてやまぬ マチルダ・ベイビー No, no, no・・・

  中にゃどんな悪魔の正体

  もて遊ばれちゃないだろか

  今がちょうど飛び込むチャンス

  身をのりだしたとたん非常ベル Ring on

  It's just a fantasy, oh oh

  彼女のためしゃあないじゃん

  It's just a sympathy, oh oh

  Hey little girl, I say, "C'mon", little girl

  逢いたい気持ちが So much more

  言葉では言えないほどに

  体がふるえてやまぬ マチルダ・ベイビー NO, no, no・・・

  やっとの思いで敵蹴散らして

  君のテレパシー 捕らえたの

  そこに見た恐ろしい Monstar

  弾や矢羽の雨あられ I say

  Searchin' for my girl

  君を連れて帰るまでは

  例えこの身が こわれようとも

  I say "Hey c'mon"

  真向に立つ悪魔の要塞

  見張る男はでかいのなんの

  君が捕らわれの身なんて たとえ夢にも思えない I say

 

 『メリケン情緒は涙のカラー』

  メリケン情緒は涙のColor

  翔びかう妙な叫びが Yokohama

  エノケン・ロッパの芝居途中どうして

  彼女の姿が消える?

  夜霧の China Town を中ほど行くあたり

  吐きだめ たなびく 魔のとびら oh, oh, oh,

  I belong to you, my life is yours. SORA-MIYO

  今ここにいない 打つ手も無い

  悲しく Lonely man

  BUND-HOTELのバスタブにゃ黒い薔薇

  殺意告げる Message On The Floor

  漂うムードは胸元 Heavy

  行方も手がかりさえ見つからず

  なぜか国籍不明の Big Tonker

  港の灯の揺れている

  山手の裏街 いばらの地の果てに

  噂のシンジケート謎の影 Oh, oh, oh,

  I belog to you, my life is yours. SORA-MIYO

  頻闇惑う命まで

  今宵も Lonely man

  “産業道路にて待て”との連絡は

  夢をつなぐ Message From The man

  良くない予感を脱ぎ捨てて

  彼女の帰りを待つの

  メリケン情緒は涙の Color

  彼女の姿が消える

 

 『メリケン情緒は涙のカラー』などには、「メリケン」という訛りや、「エノケン・ロッパ」みたいな昭和期の小道具的ワードも登場していて、面白味がある。参考にした二つの歌には、これと云って特筆すべきものはないが、両歌の共通項といえば、どちらも彼女がさらわれてしまうこと、になろう。しかも、得体の知れない強大な力に、だ。理不尽に、ある日、突然誘拐されてしまう寓話を書くところの真意は、またまた、ただただ恋い焦がれることしかできない慕情偶像の究極形か。

 

 さて、この章の最後には、この章の中で最も肝要の「女語り」という視点の語りについて取り上げる。女性独白体について、またそれを語りの形式として確立をはかった先駆者の代表格といえば、いわずもがな、太宰治、その人である。太宰のように、女性独白体が単なるモノローグに終わらず、そこから更に細分化していく語りかけであるような、高度な技術に拠るところには及ばぬが、桑田の「女語り」にも、相応の手法が発見できる故、ここで一つ二つ解釈の手を加えていくことに始めよう。

 

   『黄昏のサマー・ホリデイ』

     午前八時の行合橋で

     死んだ蜥蜴を見ました Da ba da・・・・・

     酷な運命と私は泣いて

     干なびた皮膚を爪先で撫でてた

     喉が渇いて お白粉花の

     芯を舐めても味気無く Da ba da・・・・・

     鳴るあてもない電話見つめて

     ひとり待ちぼうけ 蝉しぐれ聞いてた

     燃える太陽 滲む街並

     陽炎揺れる 夏模様

     砂煙をあげてバスが

     蜃気楼に溶けた

    *What A Jiri-Jiri Day!!

     陽だまりで I say

     物憂げな毎日

     Mure-Mure Night!!

     彷徨える I say

     夏の日の真実

     Why am I so lonely?Sha la la・・・)

     Don't you know I'm sorry?Sha la la・・・)

     嗚呼 涙、涙の日曜

     黄昏のサマー・ホリデイ

     汗にまみれた下着をちょうだい

     洗濯篭に放るから Da ba da・・・・・

     嘘じゃなかった ためらい傷に

     そっと口づけ 辛過ぎた人生

     風が哀愁誘う海辺で

     陽を遮る鳶の舞

     季節は過ぎ 人も去きて

     止めど溢る涙

    *What A Gila-Gila Day!!

     燃え尽きて I say

     うらぶれた毎日

     Guru-Guru Night!!

     夢織りの I say

     侘びし気な宵闇

     Don't you leave me lonelySha la la・・・)

     Say you'll make me happySha la la・・・)

     嗚呼 胸を突き刺す光線が

     降り注ぐサマー・ホリデイ

    *くり返し

    *くり返し

     Why am I so lonely?Sha la la・・・)

     Don't you know I'm sorry?Sha la la・・・)

     嗚呼 涙、涙の日曜

     黄昏のサマー・ホリデイ

     帰らないサマー・ホリデイ

     黄昏のサマー・ホリデイ

 

 この歌は、今年(2001年)に発表されたものだが、私はこの歌詞を朗読するにあたり、いよいよ桑田もより風情のある、熟した柿のような歌を詠めたものだと、感心してしまったのである。

 まず、この歌には、日本特有の季節感、またそれによる時間推移の情緒が読み取れる。時節は夏、晩夏あたりが最適である。「午前八時」に「死んだ蜥蜴」を見て、「お白粉花」の「芯を舐め」たのが、夕暮れの午後四時以降。何故、夕暮れ時なのかは、「お白粉花」が答えてくれる。白粉花、別名、夕化粧とも呼ばれる、その花は、その花を作中に飾っただけで夏の季節のある日曜日における、時間の緩やかな暫移をも想起させてしまうのである。そして空が紅く染色されていく「燃える太陽〜」と繋がるわけである。私はこの歌を聴く度に、はっきりとその情景、倦怠入り交じる暑さや、夕陽を背に影になる顔や、「蝉しぐれ」の喧しい悲しさなどを、思い浮かべることができるのだ。

 この語りが、女であると断言するには、少しばかり、心もとない印象が、実はあったのである。しかし、私には、どうしても「死んだ蜥蜴」の「干なびた皮膚を爪先で撫で」るという衝動的な行為が、男のそれだとは、どうしても思えなかったわけである。この行為が意味する慈悲は、女によるものだと受け取るのが素直というものだろう。「汗にまみれた下着をちょうだい」と心が打ち震えるようなもどかしさから始まる段落にも、この歌の語りは女であるという心象を強く確信する。

 そして何より、桑田の他の歌と比較するに、決定的に違うのは、もうすでにこの女の中では決着がついていると云うことである。「季節は過ぎ 人も去きて」とあるが、彼女はその季節や人の残像を、執拗に追い求めない。これが、桑田が詠う男の語りとは絶対的な相違点である。対象を慕わないのだ。語りは至って淡々としてはいるが、現実を歩む哀しい女の情念が桑田流にアレンジされていて、私は本当に見事だと思った。この歌の内部には、女とは別に明らかに男の存在があって、うん?待てよ、明らかじゃないかも知れないな。ただ「辛すぎた人生」を絡みつくような熱気に促されて、悔恨しているだけかも。しかし、ねぇ・・・・・・・・・・。

 人の、ある宿業みたいなものを深淵で詠み込んだような歌なので、ここで一度、整理してみましょう。この歌で詠まれている女、おそらく齢は、年輩ではないにしろ、もはやそう若くはないと思う。「ためらい傷」を「辛過ぎ」るではなく、「辛過ぎた」と振り返るぐらだから、寄る年波の重みを感じずにはいられない。この歌では、その主体の素性はおぼろげにしか書かれていない。「汗にまみれた下着をちょうだい」、これは一体、誰の「下着」なのだろう。私は、亭主の物じゃないかしら、と邪知に考えてみる。「洗濯篭」からも、この女は主婦なんじゃないかしら、と。

 と、ここまで論述していたら、私は、ふと暗中模索の直中から帰還した思いがした。当然のことに、思い当たったのだ。これだから、小生はいけない。つい、遠からず近からずの範疇にある先入観で解釈を発進させ、歌本来の姿を侵犯しかねない、致命的な過ちをやらかすとこだった。

 何のことはない、これは、「汗にまみれた下着をちょうだい 洗濯篭に放るから」を、回想の文脈と読みとれば、すんなり、全て辻褄が合うんじゃないかしら。かつて、一緒に暮らしていた男の「下着」なのだ。こうなると、もうこの歌は、無常一色の、空々漠々とした歌に変貌する。「砂煙をあげてバスが 蜃気楼に溶けた」や「季節は過ぎ 人も去きて」などの一節からも、「帰らないサマー・ホリデイ」の、故に「涙の日曜」な、特定の対象を恋慕するのではなく、その、かつての休日に思いを寄せる、この歌を流動する無常観という語りの本質が露見するのである。つまり、語りの主体の属性云々ではなくて、その前後する時間差が、この語りの最も重要なポイントだったのだ。

 女性が歌を詠む場合、その歌は、男性が視覚優位であるのに対し、大概、聴覚優位であるという。関係あるなしに拘わらず、この歌にも「Da ba da」や「(Sha la la)」、「Jili-Jili」などのように、やはり音で言い表す語が多分に見られる。ジリジリ、ムレムレ、ギラギラ、そしてグルグル、これらの擬音だけで想起される風景が何かあるはずである。

 語りかけられている、このことにお気付きになられただろうか。「Why I am so lonely?」「Don't you know I'm sorry?」「Don't you leave me lonely」「Say you'll make me happy」、これら四つの、「you」は、あなただ、といったら驚かれるだろうか。私は、女性独白体と云うこともあってか、太宰治の『待つ』を思い出していた。語りが過去と現在を行き来する中で、この語りかけの相手は極めて抽象的で、かつての男の一人かも知れない二人かも知れない、

また通じてきた男全員てに向けられているかも知れない、そんな曖昧な対象の「you」に、この女が内省する人生を垣間見た後で、聴いた後で、我ら男性が、そんな「you」と見なされたと錯覚させる手法を、桑田は意図的に性差に拘わらず用いているとしたら、尚のこと、凄いのである。

 ちなみに先程、手元にある図鑑で、白粉花のことを調べたら、そこに花言葉もついで載っていた。白粉花の花言葉、それは「臆病」「信じられない恋」。桑田がこの花を歌の中にスケッチしたのは、正解だったと云えるだろう。

 

 もう一つ、もっと特殊な「女語り」をここに述べてこの章の締めくくりにしたいと思う。

 

『星降る夜のHARLOT

星降る夜の Harlot ネオンにじむ部屋

I love you baby, holding me tight anyway

憎いピンハネ野郎 ウロつき回るよ

いつも目を血まなこにして

小粋なドレスも着てみたい

淡い恋など夢見てた だけどもうイヤになっちゃう

このままでもいい

身体は With you, you 思い出は

彼の亡きがらに口づけをした日

街角で売りに出ていた

装うマドモアゼル あんたも同じさ

金ヅルにコビ売るハイエナ

裸になり 泣きわめき 身をよじらせて

誰もかれも皆 犯されて

酒におぼれたり つぶれても

語りかける人もない

しつこい奴が Watch out!

目を光らせて

今宵も "Hey, man""man"

見も知らぬ 男に抱かれて 心もねじれた

女にはなりたかないけんど

場末のクラブで踊るチャチャ

野暮な文句で口説かれりゃ

おととい来いなと蹴っちゃう

言葉にゃホレない

踊ろうよ All night, night

次の日も 星降る夜の Harlot

ネオンにじむ部屋

I love you baby, holding me tight anyway

Under pressure, under pressure,・・・・・・

   

 言わずもがな、この語りの、女の、属性は「阿婆擦れ娼婦」である。娼婦の歌なのである。女性独白体について説明は、先の『黄昏のサマー・ホリデイ』だけで十分なのだが、この歌を是非とも掲載したかったその訳は、私はある一文に如何ともし難い悲哀を魅せられてしまったからである。その箇所、「今宵も "Hey, man""man"」。

 「Under pressure」(強制されて)、から察するように、何かやむを得ない事情で、女がその身体で生計を賄うとき、その女の心の内を理解しようとする、こと自体が、男には本来能わないことではないのか。少数ではあるが、男の中にも身体を売る者はいるだろう。しかし、それは女が身体を売る所以とは、似ているようで似ていない、決定的に違う一面があるような気がする。桑田はその辺りのことを、どのように語っているのだろうか。「誰もかれも皆 犯されて」、この部分、女はこの「犯され」ているという受動の意識が、きっと、どんなときであったとしても身体とは裏腹に心の中であるのかも知れない。

 この歌は、とても儚い。過去の、いつか愛した「彼」が逝去した晩にも、「売りに出ていた」ことが、彼女のその後の人生をも決定してしまったように、「女語り」の複雑な胸中が随所に口語で供述されている。

 「星降る夜」「ネオンにじむ部屋」、この二つの世界を交互に生きる女の脆い情念。この二つしか有り得ない世界で生きるのは、「星降る夜」と「ネオンにじむ部屋」がケとハレに分別できることを意味している。「心もねじれた/女にはなりたかないけんど」と、語ってみても、やはりその晩も「犯され」なければならない、葛藤。この語りの女にも、「マドモアゼル」と同じような、端的に云えば、素敵な恋をしてみたいという希望を心の何処がでまだ「夢見て」るはずなのだ。それを「アンタも同じさ」と看破し、自分に至っては全くそれと二律背反の所業をしいるという矛盾に対する苦々しい思いや悔しさが、彼女を支えているとも云えるし、また破滅へと進行させる動機にもなると云える。「彼」は死んだかも知れないが、怒濤にして崩れない女の強さと、綺麗なものや素敵なものに憧れる女の未練が、融合し、故にこの歌は儚さを助長し続けていくのだと思う。

 

 私は当初、「女語り」を論述する際にこんな一文を用意していた。「老女然り、桑田の慕情を詠み込む範囲は何も男だけに限ったものではない」と。しかし、実際にこう書きしたためているうちに、ああ、違うな、と感じた。桑田が語る女の主体は、いつも現実を直視していた。過去を憂うことも、ある。だけど、桑田の男が主体の語りみたいに憂いっぱなしじゃない。女の語りは、即座に、無情と直結するのだ。

 この章では、桑田の技巧や手法について語ったが、他にも対句の技巧や押韻を踏んでいる歌は、まだまだある。が、歌としてはナンセンスを意図したものであったりするために、省いた歌もある。

 無常、無情。いよいよ次でこの書はお終いと相成ります。そこでは、桑田の作歌の神髄をお見せしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 Θ桑田変じて蒼海と成る

 

 さてもさても、長きに通じ、小生の拙い読み物、御精読いただき、真に、感謝の言葉もありませぬ。私がこれまで書き執ったことと云えば、まずは初めて知る方のためにも桑田佳祐の大まかなイメージを想定してもらい、次に突飛にも極めて猥褻な側面と、まるで順序が逆のようではありましたが、恋歌伝統の心情を照れながら書き留めて、更に桑田の歌人としてのレベルを紹介し、そしてここに至っては、「むじょう」という歌人の、いやいや、文学に心血を注いだ者達、すべての宿業とでも云いましょうか、藝術に取り込まれた者達が少なからず抱く、あの「風」を、私は最後にやっておきたいのであります。

 「無情」とは、読んで字の如く、「情」が無い、ということである。一方の意味では、「情」に非ずの、「非情」と同じである。しかし、私が今まで、この書で「無情」という言葉を使うときは、念頭に常に「無慈悲」という意味を忍ばせ置いてきた。そして、桑田佳祐は、この「無情観」と云うものに、作歌の上で、絶大なる信頼を寄せていた。

 「無常」とは、つまりにニヒリズムのこと、ではない。が、しかし、文学に著される「無常観」というのは、どうにもこの意味合いを多く含んでいるように思われる。ならば、それは、「無慈悲」の空漠な寂寥と何ら変わらないのでは無いだろうか。人は、この概念に気付くが最後、もう二度と帰ってはこれないと云う。いつまでも、心の何処かに風が住まうと聞く。

 本来、「無常」とは、仏教に拠るものである。仏教では、その宗派が何宗であれ、その教えの基礎は、「三法印」に置かれている。すなわち、涅槃寂静、諸法無我、そして諸行無常。無常とは真理なのであって、それは悟るべきものなのである。つまり、この様な真理を求道することは、何もニヒリストを育成するためではなく、この世の成り立ちの本質を踏まえれば、事物に執着することもなく、迷いから解き放たれ、平和で安定した理想的な境地に到達するための、教えなのである。つまり「空」と呼ばれる存在の有り様に至る絶対的な真理なのであった。これが、仏教的無常観である。

 それなのに、無常を悟ろうとする衝動は謙虚なことなのに、誤ってニヒルに顔を歪める人間を増産してしまうのは、自身の修行が及ばないため、と取るべきなのだろうか。そうかも知れない。きっと、諸刃の剣なのだろうよ。一歩、誤解をしてしまった者達。「空」という、その存在の極致を知りながら、心が耐えられなかった者達。それらの人間が、文学的無常観を書き残していったように思える。その筆跡をなぞるのは、いつの世だって、人間には哀しいことのだ。

 いつも、心に風が吹く。いつも、心に夕立が訪れる。

  

  『せつない胸に風が吹いてた』

    せつない胸に風が吹いてた

    帰らぬ My old days

    大人になるための裁きを受けて

    羽ばたく友達が落とした夢の数を

    独りきりで数えた夜

    名も無い歌にやわな生命を

    捧げた Long long time

    あこがれは無情な影だと言われ

    去りゆく友達が残した旅の地図は

    夏の空に溶けていった

    虹のように消えたストーリー

    もう二度と戻れない時代を越えて

    この胸に浮かぶストーリー

    幻と知りながら熱い涙

    愛しい女性も今は何処かで

    呟く My old days

    さざめく波はやがて嵐に変わり

    激しい雨が流した人々の罪が

    現在は俺の中に宿る

    虹のように消えたストーリー

    遠去かる面影を抱いて眠れ

    この胸に浮かぶストーリー

    待ちわびた者だけが憂う世界

    I wonder if we can be right?

    They told me "Take care 'bout what's in your sight"

    ためらいがちに歩いた遠い過去が

    終わりの無い道に変わる

    虹のように消えたストーリー

    悲しみを分け合えた他人もいない

    この胸に浮かぶストーリー

    愛だけじゃ奪えない七色の未来

 

 これが、仏教徒のように真理に開眼することを探求するわけでもない、我々現代人が、「むじょう」と呼ばれるものに突入する第一段階ではないかしら。この歌の中にも、「むじょう」というキーワードが出てくるが、こちらは「無常」ではなく「無情」である。

 ここで少しばかり、断っておく必要がある。私は、この書において、「無情」と「無常」、この二つの言葉に、歴然とした格差をつけないまま、ここに至るまでその言葉を連呼してきた。でも、根本に仏教の説法が込められているとしても、私が、この書で取り上げたいのは、そんな超然ではないのだ。私は、この「無情」と「無常」については、すべて「むじょう」と仮名で表記しても差し支えないと思っている。それ程、桑田佳祐を論じる、この書においては、この二つの言葉を使い分け、明確に区分することは、あまり意味を為さないことなのだ。よって、私は「無情」と「無常」の意味のいについて、大差無きものとして扱う。だって、そうでしょう。どちらにしても、「無慈悲」にしたって、情然り、この世の全ての事物は生じては変化する、という基本的概要には誤りはないだろう。ただ「無常」は万物や自然を、「無情」はどちらかと云えば人寄りの、儚さを象徴していると、この書では定義しておくべきかも知れない。

 人が「無常観」と呼ばれるものを認識し始める時、それは一体どんな時?思い描いていた夢物語が「虹のように消えた」時?それだけでは、「無常」などという、大それた概念に結びつけるわけにはいかない。この歌で云うならば、それは、「悲しみを分け合えた他人もいな」かった時ではないか。細かな視点から分析すれば、「無常」というより「無情」に勘付いたときではないのか。そう考えると、「無常観」に至るには、まずは「無情」を体現してしまう法則があるのかも知れない。

 この歌は、夢を捨てられずに、尚も追い縋る男が、「待ちわびた者だけが憂う世界」があることを知りながらも、己の道に邁進しようするが、「せつない胸に風が吹」いてんだ、そんな歌の内容である。私が、この歌を、無常がテーマとして詠まれたものであると確信したきっかけは、「激しい雨が流した人々の罪が/現在は俺の中に宿る」という一節からであった。この文は何を意味しているのか?

 余談の上に、またまた、仏教のお話になって恐縮だが、お釈迦様という聖人がいた。仏教徒は、釈迦を丁寧に呼ぶ際に、釈迦牟尼世尊、略して釈尊と云った。その釈尊も、仏陀(目覚めた者、悟れる者)になる前の、当初は、生き物が互いに互いを傷つけ合い、生きていく痛ましい現実を嘆いていた。誰にでも、そういう人の業にやり切れなくなる瞬間というものはあるはずである。「無慈悲」の、あの信仰していたものに裏切られたような衝撃から、もうすでに「無常観」のカテゴリーなのである。

 私がこの章にて、まず仏教的無常観のお話をしたのは、何よりも無常本来の健全性を知ってもらいかたったからである。そして、この歌にも、救いは、ちゃんと用意されていた。よって、この歌は、偶然にも、健全な「空」の体を手に入れていると云うことができる。

 「愛だけじゃ奪えない七色の未来」、これが最後にポツンと、光射す救いの一節である。こちらは、「無情」というよりも、あるべき正しい仏教的な「無常」の心を獲得していて、この一節は、執着を断つという理念において、言い得て妙である。

 ただ、ここから、文学的無常観へと堕ちていく歌の類型もあるのだ。私も、どうやら、精進の心まったく以て欠損の故、この「無常」というテーマを書いていて、虚しくなってきてしまいました。この先、書き続けていくことが可能か、それが心配だ。

 なので、ここで誠に勝手ながら、小休止させて貰います。

 その間に、一首、精読いただきましょうか。以下の歌は、解釈の余地が狭く、読んでいただければ詠わんとしていることは直ぐさま判然とするはずです。一種、コラムのような挿入形式で、この歌を載せましょう。桑田が、木枯らしの風を受け、垣間見た世に棲息する人々の類型を見てやって下さい。この先、この書の結露に至る上で、それは、決して無駄にはなりませぬ故。

 

    『私の世紀末カルテ』

       家に帰るとテレビが無くては生きて行けません

       嘘でもいいから刺激が無くては死んでしまいます

       こんな時代に手紙を書くのが好きになりました

       他人に己をさらけ出すのが怖くてなりません

       闘う事や傷つく事は拒むけど

       野暮な慰めにゃホロホロリ

       胸いっぱい時代の風を吸い込む頃がある

       こんなに汚れた都会の空気を有難がっていた

       いくつになっても未熟な自分を愛しく思ってる

       そんな大人が幼い我が子に道を説いている

       誰かにもらった自由を疑う事はなく

       知らず知らずうちホロホロリ

       可愛い女にゃ優しく振る舞う自分に気付いてる

       気前の良さと気さくなジョークでその場を和ませる

       今夜ベッドに連れ込む相手に狙いを定めても

       下心を悟られないかと気にして飲んでいる

綺麗な女、愉快な男、人は皆

春と裏腹にホロホロリ

人間同士も深入りするとロクな事はない

下手に誤解や裏切りなんぞを被る筋はない

人の絆は付かず離れず希薄な方がいい

その他大勢の群れに紛れて幸福掴みたい

歩みの遅い者を尻目に駆け抜けりゃ

友は泣き笑いホロホロリ

浮気をするならバレなきゃいいわと笑って妻は言う

このごろ帰りが遅くなったと気遣う振りをする

満員電車のビショ濡れ窓から我が家の屋根を見て

今夜のために昨夜と違った言い訳さがしてる

誰も知らない居場所が欲しいそれなのに

愛をブラ下げてホロホロリ

情に流せば弱気な態度と傍からなじられて

腹から怒鳴ると変わり者だと嗚呼避けられる

頭を下げればその場はなんとか凌げるが

見て見ぬ振りすりゃ自分が何だか惨めになってくる

他人の視線と自分の評価にうろたえりゃ

春は柳さえユラユラリ

母さんあなたが歌ってくれた小唄が懐しい

この世に生まれこの世で見たのは時代の流れだけ

未来世紀も人間の心はうつろい易いだろう

こんなアジアの片隅なんかにしがみつきながら

もう背伸びをしようなんて言わないが

せめて泣かせてよホロホロリ

夢を捨てられずホロホロリ

 漱石の「草枕」における冒頭の、あの諳んじることさえできる一節を想起させる箇所あり、無情から無常へと代行する図式あり、様々の人の世あり、ちょうどコラム感覚で読んでいただければ、ちょうど良いかと思いました。では、本題に再び赴くことにしましょうか。

 「無常観」というもの、この見識が形成されるそもそもは、人の「世」を憂い嘆くことから始まると云っても過言ではない。この「無情観」の出発点を持たぬ者は、仮に無常の徒であっても、それはただのニヒリストである。文学の世界には、この属性を備えた創作人物が、しばしば著されている。「人間」という総称を思いやるからこそ遣瀬なくなる、そんな純粋であるが故に多くを感受してしまう心が、どちらに転んだとしても、条件の第一歩なのに違いあるまい。

 歌人達は、人の世を謳ってこそ、傍観者で居られるのだから。その創作性の立場は、「無常観」と似て無くもない。他は己にあらず、己また他ならず、人は、人を恋い、人を嫉み、人に虐げられ、人を嫌い、人に未練を残したまま、人に侵犯されない、己を築こうと、或いは仏教徒達は「空」という超然のスタイルを構えようとしたのかもしれない。しかし、果たして、普通の人間如きにそのようなことが可能なのだろうか。すんなりと独自の「空」など手に入れられるべくもないだろう。葛藤や推して参る爆発せんとする感情がきっとあるはずだ。

 この章に突入し、些か「無情」或いは「無常」という言葉と多用しすぎた感がある。私は、別にそれの理念を説こうとしているわけではないのだ。桑田佳祐という人間が最優先なのであって、書くのであれば、桑田の境地を思い起こさねばなるまい。というわけで、次の両歌で、私は、桑田佳祐が無情の徒に変貌する所為を解釈してみようと思う。

 桑田佳祐が、この「世」で見た、「無情」、とは一体何だったのだろう。

 『愛無き愛児〜Before The Storm〜』 │ 『Soul Bomber21世紀の精神爆破魔)』

今 僕は闇を逃れ 階段で雲に登った Stomach 痛みぬ

"ママ、僕を迎えに来て" │俺の肉体は病んでる

Headache 割れそうさ

Before the storm, I'd like to go │骨の髄まで砕ける

Before the storm, One light to show

Soul Bomber, Just breaking my heart

目の前の愛は遠く 現実の風は冷たい │荒れ果てた脳内

何故 僕は生まれたのか? Soul Bomber, It tears me apart

│黄昏の My life

Before the storm, I'd like to know

Before the storm, Love winds should blowI can't sleep 眠れない

│闇のおぼろに Butterfly 

願いましては Blues Deep freeze 死にそうさ

黄昏の天使を憂い、Yeah │爪の先までシビれる

窓ん無き部屋 愛無き愛児

Soul Bomber, Just breaking my heart

人知れず夜に怯え 泣いたのは嘘じゃなかった│憧れはもう無い

"ママ、僕を迎えに来て" Soul Bomber, It tears me apart

│泣きっ面の My life

Before the storm, I'd like to go

Before the storm, One light to show │他人の目も世の現状も怖い、しょうもない

│(Beep beep mm beep beep mm,

今 僕は翼を拡げ 永遠の旅へと行く You're making me cry!

大空に抱かれながら │嘘か真の葛藤に憂い酔えない/

│嗚呼 Ah, ah.....

Before the storm, I'd like to know │惰性で飲む酒、沁む煙草のけむり

Before the storm, Love winds should blow│身を切り裂く修羅場よ 1.2.3.4.5.

願いましては Blues Stomach 痛みぬ

やるせない戦士を憂い、Yeah │腹で暴れる Kangaroo

空っぽの部屋 愛無き愛児 Headache 割れそうさ

│床に朝まで倒れる

Soul Bomber, Just breaking my heart

│荒れ果てた脳内

Soul Bomber, It tears me apart

│黄昏の My life

│時代の流れも喧噪も怖い、しょうもない

│(Beep beep mm beep beep mm,

You're making me cry!

│見栄と嫉みの葛藤に憂い切ない/

│嗚呼 Ah, ah.....

│安静のため錠剤、血に混じりてララバイ

│老いさらばえ涙も 1.2.3.4.5.

│ 

Soul Bomber, Just breaking my heart

│荒れ果てた脳内

Soul Bomber, It tears me apart

│憧れはもう無い

Soul Bomber, Just breaking my heart

│黄昏の My life

 

 兎角、この世は住みにくい。桑田の創った「無情観」が、この二つの歌の中にはある。ともすると、この両歌は対照的なものに読めるかも知れない。しかし、「無情観」という根幹においては、何ら変わるところがない。一方は、静寂に深く内に、一方は、激動に荒く外に、語りの方向性が向かっているだけである。

 『Soul Bomber21世紀の精神爆破魔)』は、その標題が示すとおり、現代の人間が壊れながらも寿命を延ばしていく様が詠まれている。

 どんどん、どんどん壊されていく、この世は、「身を切り裂く修羅場」だったのだ。普通に生きていたんだ。別に人生を狂わせるような理不尽な不幸に遭ったわけではあるまい。なのに、この怒号。「It tears me apart」(それが俺を引き裂く)の「It」や、「You're making me cry!」(アンタが俺を泣かせてんだ)の「You」、これらが、「無慈悲」であったため、「無情」を取り込んだために、ただそれだけの理由で、人がボロボロになり、四肢がもげても生きていこうとする、末路を辿る情景を私達は目撃させられるのだ。「It」はこの歌で云うなら、「憧れ」。「You」は毎度の事ながら、彼方の慕情。

 知覚という知覚が「痛みぬ」であるし、精神が「割れそう」だし、何時も「眠れない」し、終いにゃ「死にそう」、そんな人間は、また、どうして生きていこうとするのだろう。脆い人間の偶像である。だが、己を嘆くことでカタルシスを得ようと云うわけではない。むしろ、脆くて脆くて「しょうもない」自分を、もっと爆破せんとするために生きていこうというのかも知れぬ。それとも、まだ何かを期待して生きていこうというのか。奇蹟なんて起こりゃしねぇって、きっと、それは分かっているはずだ。「人の目も世の現状」も「時代の流れも喧噪」も「怖い」世界で、「安静のため錠剤、血に混じりてララバイ」と完璧に「無情」を我が物としながら、尚も、「老いさらばえ」ていこうとするなら、それは、もう、「無情」を、〈悟った〉というしかないだろう。自分の肉体も、精神も、涙も、顧みずに、ただただ、捨てていく。自分の中にわき起こる淡い感情を、破壊していく。

 つまり、「生きる」という生物の本能だけで、彼の人間は生きているのだ。死んだら、本当に全部終わってしまう、そんな危機感や焦燥感があるのかも知れない。生きていたって、何が待っているというわけではない。でも、生きなきゃしょうがないのだ。

 幾度となく、「精神」を「爆破」しても、肉体を退廃的に酷使しても、「脳内」から、指令が飛ぶ。生きろ!と。それは、人間の本能なのだから、無論、抗う術など無い。彼の人間には、「生きる」という衝動が、きっと殊更に強かったために、自分で命を停止させることなど適わなかったに違いない。何者よりも、自分がそれを許さないのだ。

 色々な未練もあるだろう。だが、その前に、生きて生きて生き抜かなければ、自分はもっと、酷い責め苦を味わうことになる。「病んで」、自分を保てなくなって、おかしくなる。いっそ、狂ってしまった方が楽になれるに違いない。だけど、悲しいことに、彼の人間の肉体や精神は、そんなにヤワじゃなかったのだ。

 この歌には、こんな喩えがいいだろう。不老不死の肉体を持った人間が、ある日、不意に、拷問を趣とする悪人に捕らえられてしまった。そして、暗い牢獄に入れられ、そこでは、必死の拷問が昼夜を問わず行われた。だが、不老不死の人間は、決して死ぬことはなかった。拷問を趣とする悪人がくたばっても、また次の悪人が同じように、繰り返し拷問を行った。そして、それが何万光年続いても、やはり、不老不死の人間は、地鳴りのような絶叫を何度吐いても、潰えることはなかった。

 絶対に、これは大袈裟な寓話だが、それ程、「無情」の威力は、その効力を発揮できる容量のある人間であるならば、幾らでも凄まじい、と私は云いたかったのだ。

 故に、この語りは、叫びは、誰にも届かない奈落で、より外に発信されているのである。

 

 残念なことに、この両歌には、共に、「救い」は何にもありはしない。それこそが、真の「無情」と云うものだ。

 『愛無き愛児〜Before The Storm』には、「無情」に取り憑かれ、全く逆の末路を突き進もうとする人間像が描かれている。私には、むしろこちらの人間像の方が、「無情」を知る人間には、相応しい姿であると思う。こちらの人間は、今まさに、死という大いなる幻影へ逝こうとしていた。

 ただし、この「愛無き愛児」は、弱いわけではないのだ。折れてしまったわけではなく、「無情」というものを、静かに受け入れようとしているのだ。格別、死を厭わない、自ら、すべてを終える、その一歩を踏み出そうとしている。どこか、もう、みんな、諦めてしまっている。「〜Before The Storm」と副表題にもあるように、嵐の前の、あのポッカリと抜けたような静けさ、ちょうどそんな感じで、「無情」の合戦から「逃れ」た後、ゆるりと散華しようとしている。

 生を発現するこの世が、無情であるならば、無慈悲だと思い当たったなら、当然、「何故 僕は生まれたのか?」と、この禅問答にぶち当たるだろう。このQに、Aなど存在しないことは、分かっている。だから、「永遠の旅へと行」こうとしているのだ。でも、その前に、「Before the storm, I'd like to know」(嵐の前に、僕が知りたかったこと)は、「Love winds should blow」(愛の風は、吹くんだ)ってことなのだ。

 荒涼とした大地に吹くような風は幾度となく、吹いたのだろうが、「無情(無慈悲)」という足枷を砂塵に変える「Love winds」は、ついぞこの人間には吹くことはなかったのだ。しかし、一縷の望みを抱えて、きっとこの人間は生きてきたのやも知れなかった。

 「願いましては Blues」の「Blus」とは、テンポが遅く哀愁を帯びているあのブルースのことである。日本の歌謡曲のタイトルにも、例えば「知床ブルース」などのように意外と多く使われている。日本で唄われると、演歌のようになってしまうのだが、本当は、憂鬱に孤独を哀しく奏でる楽曲のことだ。そして、ここにまで来て「Blues」を「願」うのは、どのような了見なのか。例えば、「願いましては Rock」なら分かる。ロックで、ガンガン音を鳴らし、己を鼓舞しようと云うのなら。つまり、それは、もうその必要が無くなったと云うことなのだ。おそらく今は天国にいる「ママ」に「僕を迎えに来て」と云う。

 この歌の中で、光の方にベクトルが向いている言葉があるとすれば、それは「ママ」と、ほとんど同等の意味合いを持つ「Love winds」と「One light」、これら三つぐらいではなかろうか。でも、それは対応してくれなかったのだろ?「黄昏の天使」や「やるせない戦士」ばかりを憂いっぱなしで、「部屋」の中に居たんだから。「窓ん無き」「空っぽの」「部屋」で「人知れず夜に怯え 泣い」ていたのだから。

 「愛無き愛児」という逆説的標題には、愛されて育まれた人間が、人からはたくさん戴いたはずの「愛」が、自分には無いと悟ったとき、誰かに「愛」をあげる、自分には与える愛を持たないと自覚したとき、無情と共に、それはある人間像を形成していく。だから、「Love winds」は、今まで自分の頬を優しく撫でてもらったその風を、今度はおかえしに、自分がみんなに吹かせてあげられることを、自らで知りたかったに違いない。でも結局、それは能わないことだったのだ。何故、「ママ」にあんなに色々と教えて貰ったのに。愛をたくさん注がれて生きてきたはずなのに。何故、今、自分は「愛」を発現できないのだろう。

 それは、「無情」だからさ。

 知ってしまったから。愛は素晴らしいなんて云ってみても、その「部屋」の中じゃ、ぴゅぴゅう、己の心の風しか吹かなかったのだから。

 というわけで、私は此処に二人の「無情観」の馴れ初めと終着駅を書きました。どちらも、人は生きて、人は死んでいかなければならない、「無常」一歩手前の質疑、「生・老・病・死」を意識下で人間は、その生き様で悲哀を以て表現していることがあります。人は、内部のあらゆる矛盾を、知らず知らず理性や智慧で解決を試みようとしているのかも知れません。そのために、人は考えます。ある者は、「無常」を悟り、ある者は、「悲・哀・憎・悔」の泥濘の果てに「無情」を知る。

 

 何とも暗い話が続きましたが、いよいよ次が私が紹介する桑田佳祐最後の歌です。私は、書こうと思います。ここに蒼い空のような、深遠の洞から立ち返る希望を。

 

   『月』

                 遠く遠く海へと下る 忍ぶ川のほとりを歩き  

果ての街にたどり着くころ 空の色が悲しく見える

振り返る故郷は遥か遠くなる

柔らかな胸に抱かれてみたい

君を見ました 月見る花に 泣けてきました

嗚呼・・・・・・

蒼い月が旅路を照らし 長い影に孤独を悟る

           人の夢は浮かんで墜ちて されど赤い陽はまた昇る 啼きながら鳥は何処へ帰るだろう

翔び慣れた夜もひとりじゃ辛い

君と寝ました 他人のままで 惚れていました

嗚呼・・・・・・

夏の空に流れる星は さわぐ胸をかすめて消えた

波の音に哀しみを知り 白い砂に涙がにじむ

罪深き風が肌を萌やす季節

酔いながら人は抱かれてみたい

君と寝ました 月夜の蚊帳で 濡れていました

嗚呼・・・・・・

揺れて見えます 今宵の月は 泣けてきました

嗚呼・・・・・・

 私は以前、同じく桑田佳祐に傾倒する友人に、「俺さぁ、この『月』って曲が、一番好きだなぁ」と云ったら、「お前、そりゃ、オヤジだよ」と鼻であしらわれてしまった事があった。その時は、コイツは何にも分かっちゃいねぇ、と思ったものだが、よくよく考えてみれば、そのような返答も無理もない話かも知れない。桑田佳祐と云えば、人々の心を酔わせるラブ・ソングの名手だし、いつの世も日本の音楽業界をリードし続ける、みんなの桑田佳祐なのであるからして。しかしながら、勿論そんな一面も好きなのではあるが、私は、桑田佳祐と云えば、孤高に己を鼓舞する無頼の代弁者なのであった。この『月』と云う歌は、アルバム『孤独の太陽』に収録されているものであるが、ここには、他にも桑田佳祐という人間そのものの迸る情緒が感じ取れる曲が、数多ある。この書にしても、そうだ。敢えて、まぁ、それは文学的には及ばなかったからでもあるが、聴き手全員にすんなりと受け入れられるような曲は避けて、限定された局面でのみ、桑田佳祐を書いてきた。だから、人によっては「いやゃー、こんなの桑田佳祐じゃないぃ」と敬遠されてしまうかも知れなかった。この書から、桑田佳祐及びサザンオールスターズの曲を聴き始めることは、ある意味で、不仕合わせなのかも知れません。

 

 では、さて、最終章の仕上げに取りかかりましょう。

 私は、この歌を解釈するにあたり、二つのマテリアルを呈示する。それはどちらも、この歌を織りなすには、欠かせなかったに違いない、ものである。その二つ、『ヨイトマケの唄』と『忍ぶ川』。

 

 『月』と題された歌は、正確には「無情観」そのものが詠み込まれた歌ではない。確かに、「無情観」の尾を引きずりつつ、この歌は、歌人・桑田佳祐が無情の果てに行き着いた、最後の彼岸なのである。あらゆるジャンルの創作者が、無情の果てに更に真の「空っぽ」を見たのなら、その人の創造は静かに終わりを告げる。もう、何も創れない。だが、普通、全て表現者は、これはとても悲しいことなのであるが、傍観者という非情の立場から、離脱することは許されないのだ。私小説であっても、書く表現に直面したなら、創造上、主体は介入を禁じられ、客体のみが歓迎される。これは、何も、その作品自体に主体性が無いというのではなく、その創作の視点は本人そのものではない、と云うこと。よって、全ての表現者は、きっと何かに追い縋らなければ、生きることさえ禁じられかねない。一点の、月光のようなささやかなものであってもいい。何かに追い縋る、その心、これだけが命を紡ぐ。

 桑田佳祐は、すでに、この歌を上回る秀歌を作ることはできないことを、自ら看破している。それは、楽曲にしてもそうなのであろうし、詠まれた言葉の連なりに関しても、そうなのだろう。

 人は自分しか愛せないと云う。だから、人を愛せずにはいられない、のだと。

 「慈悲」、まるで「無情」とは逆の、その温もりを、桑田佳祐は「長い旅路の果て」に見たのかも知れない。

 

 この歌は、「無情」のトンネルを抜け、再びトンネルに入る一瞬に、ある種の憧憬に彩られた景色を見たのだ、ということを、まず忘れてはならない。つまり、この世を知り、この世で見た「無情」を歩んで草臥れた過程があったのだと云うことを。

 さて、最初の一行目に登場する「忍ぶ川」というフレーズ、これは何とも不自然である。

「川」が「忍ぶ」のか、「忍」びながら「川のほとりを歩」くのか。まあ、何かに忍従してきた、ぐらいの意味は取ってみれるが、やはり、桑田にしてはおかしな言い回しである。しかし、私は、あの文学的解釈の一つの方法、「引用」というものを思い出していた。和歌の修辞に、「本歌取り」と云うものがある。「引用」とは少し違うが、有名な古歌の一部を詠み込み、それを連想させることによって、作者の発見した新しい感興に、古いイメージを重ね、感動を深める技法のことである。『月』に取り込まれた、この一フレーズの挿入の目的は、「本歌取り」に似ている。更に、例えば、『源氏物語』にも『長恨歌』が引用されていたように、実は、この『月』にも、三浦哲朗の『忍ぶ川』が引用されているのだとすれば、「忍ぶ川」という不自然な語彙も、おおよそ頷けるのである。では、『月』における『忍ぶ川』の引用のされ方とは一体?

 の前に、ここで少し三浦哲朗の『忍ぶ川』について。一九六〇年に芥川賞を受賞したこの作品は、云ってみれば、ハッピーエンドの青春文学である。この作品、私は、あんまり好きじゃない。何故か。悔しいからである。主人公に嫉妬しちゃうからである。まぁ、確かに一度読んだときは、ホロリとした。しかし、読んで暫くして、辺りを見回して、もう一度『忍ぶ川』という標題を見て、そしたら、急に形容しがたい妬みが発生したのを憶えている。あの女は、いくら何でも出来過ぎだろう。暗くて哀しい宿命の二人が一つの運命を結い巡らす時、祝祭の隅っこで、顔が些か引きつっている、感じ。

 それは、どうでもいいんだ。「忍ぶ川のお志乃さん」、この男にとって伝統の、最上級の、かくも女はこうあるべきみたいな、女の偶像が何よりも大事なのだ。叱らないでね、婦女子諸君。

 『忍ぶ川』の引用のされ方、それは「無情という泥濘のニヒリズムから発露する女の夢」と云ったとこだろうか。何もかも、絶望しているからこそ、描くことのできる、美しい夢、そして、そこで出逢う「お志乃さん」。桑田は、月下で、こう巡り逢うことを選択した。

 この歌には、無情を知るからこそ、描くことのできる慕情がある。恋愛の歌ではない。泣き言ばかりじゃない。ただ、ここでは「君」としか表現されていないのに、どうして、こんなに具体性を帯びた対象の偶像が脳中に出来上がるのだろうか。嗚呼、それは、それこそが、所詮、この世は皆無情と闊歩しながらも、唯一、心底では断ち切ることのできない、淡い望みではなかったか。久しく最後の砦としての執着ではなかったか。

 つまり、〈母性そのもの、存在そのものが愛〉。

 私は、この歌に、女というものの、母性というものの、慕情というものの、普遍的抽象性を見ることが出来るのだ。「君」と云うだけで、何にも形容されていなくとも、もう、分かるのだ。だから「君」は異性だけじゃない。母性なのだ。

 桑田は、こう語る。「うちのお袋が死んだときに『月』を作ったんです。だから、何か哀しいけれど、前向きなみたいな歌としてあるような気がするんです。(中略)母親は男にとっては永遠でね。・・・・・・、男親はあやしいからねえ、もちろん僕も含めて」。 私は、もう一つ、ここに追慕の彼方の光景を披露するため、資料として昭和の歌謡曲を提示しよう。しかし、それは一九六五年(昭和四十年)にヒットし、その後、放送禁止歌に指定された歌である。昭和三十年代ぐらいまでよく見られた建設現場で地固めをする力仕事で、主に女性が携わった忘れられない情景が描かれている。昭和二十・三十年代に見られた貧困、差別がこの歌の根底にはある。

 

『ヨイトマケの唄』

〔作詞/作曲〕美輪明宏

     父ちゃんのためなら エンヤコラ

     母ちゃんのためなら エンヤコラ

     もうひとつおまけに エンヤコラ

     今も聞こえる ヨイトマケの唄

     今も聞こえる あの子守歌

     工事現場の ひるやすみ

     たばこをふかして 目を閉じりゃ

     聞こえてくるよ あの唄が

     貧しい土方の あの唄が

     子供の頃に 小学校で

     ヨイトマケの子供 きたない子供と

     いじめぬかれて はやされて

     くやし涙に くれながら

     泣いて帰った 道すがら

     母ちゃんの働く とこを見た

     母ちゃんの働く とこを見た

     姉さんかむりで 泥にまみれて

     日に灼けながら 汗を流して

     男にまじって 綱を引き

     天にむかって 声あげて

     力の限りに うたってた

     母ちゃんの唄こそ世界一

     母ちゃんの唄こそ世界一

 

 桑田は、この曲をあるテレビ番組で、放送禁止歌なのにも拘わらずノーカットで七分近く、まして、歌詞をテロップで載せて歌い上げた。その歌い手の感慨は頂点にあったと思うし、歌い手という表現者の醍醐味を察することができ、不覚にも、私は泣いた。

 少なくとも、私は兎角この『ヨイトマケの唄』と『月』を因果づけて説こうというのではない。ただ、〈母性そのもの、存在そのものが愛〉ということに桑田がオマージュを捧げているのは、信じていい。

 独りきりで、人は旅をする。この歌も、人生という旅路を歩む流浪の主人公を想定してもらえれば、その哀愁が、ひしと伝わってくる。旅と歌は、よく似ていて、それは、日常を生きる人間には甚だ余分な、内的な感情を呼び覚ます意味で、である。

 これは今までにも、幾度となく書いてきたことなのだが、やはり、桑田はいかなる地点から語ろうとも、結局は、追い縋ってきたのである。

 この歌に登場する「君」は、もはや、女とか母とかよりも、聖母とか菩薩とか、そういう超越的な異性に、無情は「酔いながら人は抱かれてみたい」と受動の衝動へと転嫁されていく。ならば、この時、人は、「無常観」を達観しているとは云えないだろうか。「空」の存在を手に入れているとは云えないだろうか。神々しいまでの「君」を信仰し、この歌の中では自然における風物は無常に詠まれているが、そのようにして、一切を月光によって浄化する。明日もきっと、世は無情かも知れない。でも、その「菩薩」様のような女性を夢見るなら、例え刹那であっても、そこへ導かれる信仰みたいなものがあるのなら、男は生きる。仏教徒じゃないんだから、渇愛を止揚する事なんて出来ない。「君と寝」たい!しかし、一方で、仏心は大慈悲なり、というその信仰の対象さえも「君」という存在の中に融合させながら、どうにも、心では精神では、遮二無二、「菩薩」であっても、「お志乃さん」であっても、「母ちゃん」であっても、まとめて「女」と云うもの自体の究極体を渇愛したいと願っているのだ。

 『忍ぶ川』然り、『ヨイトマケの唄』然り、『月』然り、みんな無明の闇から究極の愛を欲している。そんなもんあるんだろうか、と云いながら、男は夢見るはずだ。絶対に、信仰している。一切皆苦と無情を嘆くのは、この形而上の救いの道程の入り口である。空を仰ぐのと同様、男は際限ない慕情の顔かたちを直視する。

 無情に囚われた人間が、その宿業という刑期を終え釈放される術が一つだけある。

 それは、菩薩のような女に、恋をすることかもね。

 

 これで、『月』の解釈は完了です。これには御不満の方もいるでしょう。正直、私も何となく歯痒い気持ちです。しかし、私は『月』に関して云えば、その一節一節を捉えて解釈を加えることに、変な抵抗を感じざるを得ませんでした。だから、こうして、外堀を埋めるが如く、解釈に必要な積み木を、完成に至るためのパーツを一つ残らず、読む方々に与えたつもりです。後は、この歌の解釈だけは、読み手または聴き手の皆様の些細な判断にお任せするのが一番正しいような気がしたのです。私が、ここまで述べれば、後は、語ることなど何も無い。ずるい!と云われれば、それまで。論述が拙い私だから、生じた不具合に違いはありません。だが、決して手を抜いたわけではないことは分かって欲しい。私が、伝えたいことは全て述べ著した。【冒頭歌】の条でも、書いて置きましたが、この書の全文が、『月』に集束していると考えれば、少しは首肯していただけるやも知れません。それこそが、私の意図なのですから。

 

 

 桑田佳祐が、大好きだ。文学が大好きだ。なら、一緒にして卒業論文にしちゃおう。と当初は、こんな稚拙な動機があったのかも知れません。私が、桑田佳祐を書き説きながら、本当にその姿を浮き彫りにしたかったのは、「情」であると云っても過言ではありません。それは、今の世に「情」という情緒を感じることが少なくなったからなのです。「情」とは、何でしょう。「情」のまえに「慕」が付こうが「無」が付こうが、はたまた「色」が付こうが、それはみんな「情」と云うものの大切さや哀しさを教えてくれます。私は、日本人が今一番大事に守らなければならないのは、この「情」だと確信しています。この概念は、おそらく他国には、無いでしょう。似ている気持ちならあるかも知れません。でも、「情」は無い。これはグレー・ゾーンが大好きな日本人ならではの伝統でしょう。合理的に何でもするのが正しい、そりゃ分かっている。しかし、このニュートラルな「情」に、損得抜きで、是が非でも押し切られてしまう局面も日本人には多々あると思います。また、そう信じていたいです。でなけりゃ、つまらんでしょう。逆に、日本人はこの「情」のおかげで、要らぬ辛さを味わっているということもできるかも知れません。曖昧なバランスの中で生きなきゃならない、と。でもね、それを「情」だと看破し、みんなでその概念だけを信じ合えれば、個人主義の息苦しさも、きっと消えるのではないでしょうか。なあなあ、適当、大いに結構。きっちり、決めるとこだけ決める。それが「情」ってもんです。最後の最後まで駄文と相成りましたが、これにて、筆を置くことにします。

 

 ありがとうございました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 【おひらき、作者の口上】

 

 くだらん!と途中で一喝して破り捨てずに、是非とも最後まで読んで下さることを切に願って、此処まで書いて参りました。私は、最初にこんな事を述べて置いたはずです。いわゆる誤解しないでいただきたいのは、私は桑田佳祐の歌を興味本位に趣味趣向の範囲内で留まらせるのではなく、文学、とりわけ現代における歌論の域まで昇華させることが目的なのであって、それは私にとって挑戦であり、また文学を学んだ己の力量をはかるものである。私はいつだって文学の力を信じている。勿論、桑田佳祐にはそれに呼応可能なだけのキャパシティがあるのは云うまでもない、云々、と。よくもまぁ、そげなでかい口がたたけたもんです。この書が、一端の読み物になり得たかどうか、それは甚だ疑問であります。自分では、気付かなくても、支離滅裂な箇所があるかも知れません。桑田佳祐の技法における章の条では、掛詞という修辞が登場しましたが、私はこの書以外で、桑田佳祐の歌に掛詞等の修辞が使われているなどとは、一度も聞いたことがありません。よって、思い過ごしかも知れないのです。妄想かも知れないのです。

 私は、今さらながら、(この書は果たして論文なのだろうか)という感慨を禁じ得ません。桑田佳祐じゃなくて、オメェーのことだろうが!と、一喝されれば、それで終いのような気もするのです。それに、もう一つ。鑑賞は文学になり得ない、ただ解釈なら通用する、こんな一節を以前私は何かで読んだ記憶がありました。これがどうにも、頭にひっかかって、拭えませんでした。一生懸命、書いたつもりです。でも、どうでしょうか?評価されて、ナンボの世界ですからねぇ。

 まぁ、論点や論述の評価はさておき、まま、面白かったと云っていただければ、私にとってこれ幸いであります。桑田佳祐の歌も、昭和の思い出の名歌も、歌謡曲は文学になりうるとだけ、私は書き残しておきます。そして、またそれは、文学という容器があるならば、「情」という媒介によって、ほとんど全ての現象や事象が云い表すことができるということも。

 哲学じゃ小難しい。科学じゃ計りきれない。文学は、人間の化身なのだから。

 今一度、文学が、音楽よりも普及することを願って止みません。レコード屋さんよりも本屋さんに人が溢れんことを。文学という能動芸術が尊ばれんことを。

 私は、文学に、理想を響かせ、栄光を犠牲にしたとしても、繁栄を渇望しています。

 

                                [了]