江國香織論


99E1102036J 安齋 紫乃
【はじめに】
昨今の若者は活字離れしているという話はよく耳にするが、現代作家の一人、江國香織は今、十代、二十代特に女性の読者から多くの支持を得ている。なぜ、こんなにも彼女の作品はこの読者層を引きつけているのか?私の主観的な意見だが彼女の作品はどれもとてもドラマチックだとか、感動して心から離れないなどということは決してない。ただ、言葉が心の中にすいすいと入ってくるような感じで読める。たとえ、作品の中で主人公の状況にあまり変化のない話で日常を描いたものだとしても、実にさわやかな読後感である。彼女が童話作家でもあるということも関係しているのだろうか、私は絵を見るような感覚で彼女の作品を読んでしまうのだ。十代から二十代の女性にとって、ただの恋愛小説ならば、そこらへんにいくらでもあるし、わざわざ、なれない小説に目を通さなくともテレビのドラマや少女漫画などでいくらでも代用ができる。しかし、江國香織の小説にはひきつけられるものがあるのだ。その魅力を考えてみたいと思う。

【経歴】
江國香織は一九六四(昭和三十九)年東京生まれ。目白学園短期大学国語国文学科をへて、アテネフランセに学び、アメリカのデラウェア大学に一年間留学。父は江國滋。新潮社の編集者で、のちに随筆、俳句で名人と謳われたが、惜しくもガンで死亡している。
一九八七年「草之丞の話」で「小さな童話」大賞、一九八九年「409ラドクリフ」で第一回フェミナ賞を受賞。一九九一年刊行の『きらきらひかる』がベストセラーとなる。一九九二年『こうばしい日々』で坪田譲治文学賞、『きらきらひかる』が紫式部賞、一九九八年『ぼくの小鳥ちゃん』で路傍の石文学賞、二〇〇二年『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』で山本周五郎賞を受賞。

【作品について】
『ホリー・ガーデン』(一九九四・九、新潮社、初出「波」一九九二・一〜一九九三・十二)について
「二人の女の友情物語、のつもりだったのですが、気がつくと、二人の女それぞれの恋愛物語、になっていました。」(一九九四、「月刊カドカワ」特集の「本人自身による全作品解説」より)
これを読んだ時に、さすが本人による解説だと感じた。読者はこの小説を読み進めるうちに自分が持っていた先入観「三十歳を目前にした二人の独身女性の友情物語」というものが読んだあとに、違ったと感じる。しかしまた、普通の恋愛小説でもない。二人のそれぞれの恋愛は時間の流れとともに、余分なエピソードをふんだんに盛り込んで描かれてはいるが、大きな進展はないまま、つまり、結果とか結論(ハッピーエンドにしろ、そうでないにしろ)がないままなのである。それは、新潮文庫版『ホリーガーデン』のあとがきからもわかる。
なぜか昔から、余分なものが好きです。
それはたとえば誰かのことを知りたいと思ったら、その人の名前とか年齢とか職業とかではなく、その人が朝何を食べるのか、とか、どこの歯磨きを使っているのか、とか、子供のころ理科と社会とどっちが得意だったのか、とか、喫茶店で紅茶を注文することとコーヒーを注文することとどちらが多いのか、とか、そんなことばかり興味を持ってしまうということです。
余分なこと、無駄なこと、役に立たないこと。そういうものばかりでできている小説が書きたかった。
余分な時間ほど美しい時間はないと思っています。
そうして、これはたくさんの余分な時間を共有してきた二人の物語です。二人と二人をめぐる人々の、日々の余分の物語。
読者にとってもこの小説は「余分」なのだ。でも、だからこそ美しいのだ。た
とえばこの作品を読んで読者が「友情を大切にしよう」とか「不倫の恋はつら
い」とか「恋愛は楽しい」とか感じないところがいいのだ。よく、小学生の国
語の授業のような「作品から学べること」はないのである。
 しかし、そこがまた、多くの読者を魅了するところなのではないだろうか。
現に新潮文庫版『ホリーガーデン』の解説では斎藤英治が
江國香織さんの小説には、本筋とはあまり関係がない「無駄な」エピソードがよく出てくるが、僕はそれが好きである。『きらきらひかる』では、買ってきた金魚を浴槽で泳がせ、そのタイムを計るというエピソードに微笑んだが、この『ホリー・ガーデン』にも魅力的なエピソードがいくつも出てくる。特に、ヒロインの姪の今日子が、眼鏡をかけたいばかりに目が悪くなったと嘘をつくエピソードは魅力的だと思う。こういうエピソードは、妙に心に残る。今後も、こういう豊かな細部に満ちた小説を書きつづけてほしいと思う。
と書いている。つまりやはりこの「余分な」部分が、この小説の魅力のひとつなのである。
そして、この小説が普通の恋愛小説でないところもまた、魅力のひとつであろう。前にも述べたように、この小説でヒロインの果歩と静枝の二人は、大きな変化があるわけではない。
果歩は、五年前、津久井という男性と別れを経験した。それ以来、職場で知り合った眼科医や顧客の学生と性的関係を持つことはあっても、心を許そうとはしないでいる。また、静枝の方もかなり年上の画廊オーナーと遠距離の不倫をしている。
果歩は中野さとるという人物の関係で変わりつつあるが、最後まで恋人同士になるということはない。(多少読者に期待をもたす終わり方にしてはあるが)静枝も、不倫の恋を成就させるとか、終わらせて新しい出発をするといったことはない。
二人の生き方は、決して他人から誉められた生き方ではない。しかし、作者は、この二人の生き方を決して否定せずに書くことによって、読者に、新しい「恋愛の形」を提案しているのである。そして、先ほども出てきた解説の斎藤英治はこのように述べている。
これらの登場人物たちは、ある意味で、社会の正道から外れてしまった人間たちである。だが、江國さんは、そんなマージナルな人々に限りない共感を寄せる。彼女たちの生き方の魅力をさりげなく呈示する。「こういう愛のかたちもあってもいいんじゃない?」と言うかのように。このあたりの、常識に縛られない視線が、江國さんの小説に自由な空気を送り込んでいるように思う。かのじょの小説を読むと、読者は爽やかな自由の気分をしばし味わうことができるはずだ。
このように、必ずしも普通の意味での恋愛小説ではないのである。むしろ、恋愛によって傷ついて、自分の殻に閉じこもってしまった者(果歩)、社会的に許されない事をしていることに負い目を感じているが、自分では気づいてなく、むしろ、気づかないふりをしている者(静枝)たちが、お互いを思いやり、気にかけながら築いている不安定な人間関係の物語なのだ。二人の不安定な友情が現われている場面がある。「8 グリンピースごはん」で、不倫相手の住んでいる岡山から帰ってきた静枝が、果歩の家に夕飯を食べに来る。静枝が、岡山での楽しい一週間を語り終えた後の場面だ。
「・・・・・・そう」
最後まできき、果歩はにっこりした。
「ごはん、もう一膳食べるでしょう?」
「・・・・・・がっかりさせたかしら」
やわらかく煮えた鳥肉を口に入れ、静枝は下を向いたまま言う。
「そんな風ににこにこしていても、ほんとは少しがっかりしてるでしょ?」
「・・・・・・・」
「ごめん」
果歩が黙っていると、静枝は低い声で謝った。
「失言。なんでもないのよ。果歩があんまりいつも穏やかだから」
相手が自分の不幸を期待しているなんて、一体どうして思ったんだろう。静枝はほうじ茶で鳥肉を飲み下す。からまわりする被害者意識が情けなかった。
あたらずといえども遠からずだわ。果歩は、静枝の茶碗に二膳目のごはんをつけながら思う。自分が不幸なときに相手も不幸だと元気がでてしまうのはどうしてだろう。相手の幸福を心底―自分のよりもずっと―願っているというのに。
二人は女同士の緊密な絆をもっている。相手の幸せを願っていても、同じく不幸な気分でもいて欲しい。女同士の友情に伴う様々な感情。それが、この作品の中で大きなキーポイントになっているようである。実際、江國香織は「本人自身による全作品解説」(「江國香織自身による江國香織スペシャル」、「月刊カドカワ」一九九二・四)でこう記している。
二人の女の友情物語、のつもりだったのですが、気がつくと、二人の女それぞれの恋愛物語、になっていました。もっとも、同性の友情というのは二人が常に向かいあっているのではなく、どちらの人生も平行し縦に(前に)のびていて、横をみるとお互いがいる、という種類のものだと思うので、それも自然のなりゆきかもしれません。
友情、という概念に含まれる様々な感情―好意、尊敬、嫉妬、敵愾心、保護、理解、依存心、信頼、わずらわしさ、など―をできるだけささやかな形で書きたかった。
「二人の女それぞれの恋愛物語」とは、果歩と中野との物語であり、静枝の岡山で画廊を経営し、妻子もある芹沢との物語である。果歩と静枝とは小学校にあがってからの付き合いで、もう二十数年になる。
「何度も仕事を変え、しょっちゅう引っ越しをして、いろんな男とふらふら付き合っている野島果歩を」心配して、静枝は電話をかけてくる。そして、果歩はその電話を心のどこかで待っている自分に腹を立てている。
静枝は、心配はしていても果歩の行動に深く干渉しようとはしない。果歩もまた、静枝が妻帯者と恋愛していることに、許せない思いを持ちつつも、(それは過去に果歩が静枝に「不倫なんて卑怯だ」と非難されたことがあるから)批判も心配も投げかけたりはしない。二人はそれぞれに、まさに「様々な感情―好意、尊敬、嫉妬、敵愾心、保護、理解、依存心、信頼、わずらわしさ、など―」が到来するが、二人の関係、女性同士の「友情」は物語の終わりまで大きく変わることはない。
そして、中野さとるは、この二人の「友情」をよく実感できない男性として描かれている。
友情を否定する気はなかったが、中野には、友情という言葉がどうもぴんとこない。勿論、友人と呼べる人間は男女共にいくらかいたし、大学時代に所属していたサイクリング同好会には、親友を含む「野郎友達」(この言い方を中野は好んだが五、六人いた。卒業して三年たったが、なん人かはすでに顔も忘れたし、なん人かとはたまに会って酒を飲む。それだけのことだ。
だから中野には、果歩にとって静枝がずいぶんと重要な存在らしい、そのことが実感としてわからなかった。男と女の違いなのかとも思ったが、「野郎友達」の中にも酔うと激して友情を語り、いかにも大事でたまらないという風に中野の肩など抱く輩がいるので、どうやらこれは男女の別とは違う種類の問題らしかった。
「たぶん僕は不感症なんだ」友情に関して。
「え?」
友情に関して、のところだけ、中野は心の中で言ったので、果歩は怪訝なおももちでふり返る。
「なあに、それ」
(中略)
「そりゃあ友達は大事だよ。だけど僕には果歩さんの方だもっと大事だし、それが男と女っていうものだと思う」
また、この後に三人で昼食を食べるのだが、そのときに中野は感じる。
どうしてつれてきちゃったの、という視線を果歩に投げかけながら、静枝はそばにあったメニューを中野にさしだした。
「なんでもどうぞ。果歩の奢りだそうだから」
「その通りよ」
中野にというよりむしろ静枝にむかって果歩はこたえ、その傍目にも不穏な、険悪というのではないが決して和やかでもない空気に、中野は思わず身構えた。これだからなあ、と心の中で首をすくめる。手をだせないほど濃密なくせに、ひどく不安で緊張した空気。静枝に会うのは四度目だったが、いつもこんな風なのだ。
「友情」に関して「不感症」だと自覚する中野には、果歩と静枝の女性同士の「友情」もぴんとこない。
しかし、この点こそ、中野の魅力がよく現われているところでもある。ここからは、果歩の恋愛(?)の相手「中野」について書いてみたい。
果歩と同じ眼鏡屋で働く年下の青年中野は、果歩に好意を持ち、勿論それを口に出して表現している。しかし果歩のほうは中野のことを「全然愛してなどいない」「少なくとも恋愛感情は持っていない」。そんな彼は女子社員たちに陰で、「惚れた弱みとか忠犬さと公(中野は、名前をさとるといった。)」と囁かれていた。
けれどもいつしか中野は、果歩の部屋に毎日のように遊びにやってくるようになる。たいてい十一時頃に自転車でやってきて、ビデオを見たり、紅茶を飲んだりして、一時か二時に帰るが、時として床に倒れて寝てしまう。そして果歩は「中野がいつもそばにいてくれたらいい」というほんの出来心から、中野に部屋の合鍵を渡してしまうのだが、ほどなく後悔の思いに囚われて中野の待っている部屋に帰るのが苦痛になってしまう。
夜遊び。たしかに、果歩はこのごろいつも時間を持て余してしまう。それが中野のせいであることに、果歩もすでに気がついてはいた。
中野の善良、中野のカインドネス。
合鍵を渡したのが失敗だった、と、果歩は苦々しく思いだす。寒い朝、中野の寝顔、枕元のバックパック。いつのまにか、果歩は鍵をもっておもてにでていたのだった。(中略)ほんの出来心だったのだ。中野がいつもそばにいてくれたらいいと思った。それだけのことだった。
ある夜、眼鏡屋からの帰り道、果歩は中野に鍵を返してもらおうと考える。しかし、「鍵、返すよ」と言い、部屋を出て行くことを言い出したのは、中野のほうであった。そして、果歩は動揺する。
鍵は、手のひらにとてもつめたかった。ここ何日も、返してほしくて鬱々としていたもの。これが果たしてそれだったのだろうか、と、果歩は弱々しく思考をめぐらせる。それにしても一体どうして、中野は自分から鍵を返すなどと言いだしたのだろう。これはつまり、また急に遊びにくる日々に戻るということなのだろうか、それとももう来ないということなのだろうか、と思ったが、それを問いただす勇気はなかった。
果歩が以前に、手痛い失恋を引きずって、職場で知り合った眼科医や顧客の学生と刹那的な関係を続けていることは前にも書いた。そして、静枝はこのような果歩を見て、「最大の問題点」は、「常に平穏に暮らしていること」、「調和がとれすぎている」こと、「自足しすぎている」こと、「そして、そのくせ肝心なものが何か欠落している」ことだと考えている。このような、「平穏で、穏やかに暮らしていること」は、再び、つらい恋愛はしたくないと考えている果歩の自己防衛である。だが、中野の予期しなかった行動で、果歩は自分の中の新たな感情に気づくのである。
果歩は、中野を所有した覚えなどなかった。いったん所有したものは失う危険があるけれど(果歩はそれを、身をもって学んだ)、所有してないものを失うはずがないではないか。だからこそ一切所有しないで暮らしてきたのだし、ともかく自分がいま中野を失うはずがない、と、できる限りの理屈をかきあつめて果歩は思った。
ついに、果歩はこらえきれなくなって、「きょうは帰らないで。泊まっていって」と、「ばかばかしいほど小さな声―蚊どころかノミの鳴くような声、と、のちに中野が回想することになる声―」と中野に言ってしまう。「突発事故は苦手だった。こんな風にペースを乱されることのないように、細心の注意を払ってきたと言うのに」そう思いながらも果歩はこの日を境に中野と暮らし始めるのだ。
結局、中野の粘り勝ちと言ってしまえばそれまでだが、中野はずっと思いつづけてきた人と暮らし始める。中野は、五年間、頑なに暮らし続けてきた果歩の心をほぐしたのである。中野の魅力とは?
静枝が、中野を振り回す果歩に向かってこういったことがあった。「中野くんは保健室じゃないのよ」果歩が中野に「逃げて」いる、ということだ。学生時代果歩はよく体育の授業を保健室に隠れることによって、やり過ごしていたらしい。「いやなことから、隠れる場所」この場合、「保健室」は本来の「ちょっとした怪我や具合が悪いときに行く場所」というよりはこの意味で使われているようだ。そして、静枝は中野を保健室のように使っている果歩を批難したのだ。「中野がかわいそうだ」と。
中野が果歩にこのように扱われてしまうところは、もちろん中野にも原因がある。女性が傷ついたときに休む場所にぴったりなのだ。
解説の斎藤英治は中野をこのように見ている。
ヒロインの果歩を愛しているらしいこの青年は、報われない恋だと知りつつも、驚くべき楽天性でかのじょを慕いつづける。「忠犬さと公」などという不名誉な渾名をもらっても、いっこうに気にする気配がない。かのじょが他の男と寝ているのを知っても、露骨に嫉妬をあらわすことはない。この青年は、世間の常識から見ればちょっと変なやつかもしれない。しかし、作者はこの人物をやはり愛すべき存在として描いて見せるのだ。実際、この人物が出てくるたびに、僕はそのけなげな姿に思わず微笑んでしまった。
このように、中野は果歩にとって都合のいい男だった。それは、体だけの関係を続ける眼科医や、顧客の大学生とは違った意味である。つまり、果歩の心をその、「まっすぐさや、けなげさ」という魅力で癒してきたのである。そして、最終的になかのと果歩は一緒に暮らし始める。これは、中野の果歩に対する感情がいわゆる男が女に傾ける感情とは違っていたからこそありえた展開ではなかろうか。
中野さとるが果歩に向ける感情は、いわゆる恋愛感情というのとは微妙に違っている。それはもっと懐の深い感情に思える。(中略)恋愛という型にはまったものではなく、もっと捉えどころのない微妙な感情。英語で言えば、「Love(愛)」よりも「Affetion(優しさ)」という言葉に近いかもしれない。
これは、解説で斎藤英治が述べている言葉だ。中野が愛情というよりもっと言葉では表現できない微妙な感情で、果歩を包んだからこそ、自分の「恋愛」に不安感を抱いていた果歩を動かしたのではないだろうか。
ここで、この話の魅力がまた発揮されている。
存在することは確かなのに、名づけるのがやたらに難しい感情がある。江國香織さんは、そんな微妙な感情の存在を繊細なタッチで描き出す。そしてそういった感情でつながれた人間たちの絆が存在することを僕らに思い出させてくれるのだ。
これも、解説で述べられていることだ。確かに中野の果歩に対する感情は「恋」とは微妙に違う気がする。それは、「恋」にはつきものの、「独占欲」とか「嫉妬心」といったものが見えないからだ。対照的に津久井と果歩の「恋」には、「独占欲」が見えることが静枝の言動からもわかる。「恋」に傷つけられた女性(果歩)を癒したのは、この中野の微妙な感情であり、ここが、普通の恋愛小説と言えないところであり、魅力でもあるのだろう。


『落下する夕方』(一九九六・一一、角川書店、初出「野生時代」一九九四・五〜一九九五・七)について
これは、すれ違う魂の物語です。すれ違う魂の、その一瞬の物語。
そうしてまた、これは格好わるい心の物語でもあります。格好わるい心というのはたとえば未練や執着や惰性、そういうものにみちた愛情。(角川文庫版『落下する夕方』あとがきより)
二人の女の友情物語が、一人の男性を争う恋愛物語からの発展であることは、よくある。『ホリー・ガーデン』はそのようなことにはならなかった。お互いにまったく別のところに恋愛の相手がいて、恋愛が平行している状態だったからであろう。では、二人の女に一人の男だったら、女の感情(友情)はどのように変化するのだろうか。
八年間同棲生活をしてきた二人が別れる。そんな場面から『落下する夕方』は始まる。健吾の別れの言葉は「引っ越そうと思う」だった。そしてこれは、「家を一人で出て行く」=「別れる」という意味だったにもかかわらず、梨香は、それを二人の引越しだと思ってしまう。振られていることに気づかなかったのだ。つまりこれは二人の生活がうまくいっていたことを物語っている。そして、ここから、長い時間をかけての失恋の物語が始まる。
私は、この作品もまた、普通の恋愛小説ではないと思っている。どちらかというと「友情物語」である。それはこの項の冒頭にも書いた、江國香織のあとがきからも感じる。「すれ違う魂の、その一瞬の物語」という言葉からもわかる。このすれ違った魂は、梨香と健吾が新しく好きになってしまった相手、華子の魂である。普通なら、憎しみで仲が悪くなるはずの二人が、不思議な女同士の絆を築いていく。
「長い時間をかけての失恋」「不思議な女同士の友情」これがこの話のキーポイントである。
健吾が別れを切り出した理由は、華子という女だった。健吾はその女性と、友人の勝矢を成田に迎えに行った時に出会った。華子は勝矢とデュッセルドルフにいたときに少しの間付き合っていたのだ。普通のブラウスとスカート姿なのに、バニーガールみたいなウサギの耳をつけて、華子は迎えにきていたのだった。健吾が別れたいと梨香に言ったのは、そのわずか三日後であった。
しかし、八年間続いていた交際の終末よりも、読者にとってより衝撃的なことは、この別れの原因である華子がいきなり梨香の部屋までやってきて、一緒に住むと言い出すことである。健吾が出て行ってしまったため、マンションの家賃を払うのは梨香にとって大きな負担だった。しかし、健吾との一切を過去にしたくない梨香は、土日もアルバイトをしてそれでも足りない分は貯金を食いつぶしてでも、このマンションにいれるだけいようと考えていたのだ。それを華子は、家賃の半分と食費を出すので住まわせてほしいと言い出すのである。もちろん、最初は断った梨香だが、華子はなんとなくいついてしまう。これは梨香の大学時代のからの友人で今は香港に住んでいる涼子だけでなく、読者も「なによそれ」とか「はやく追いだしちゃいなさいよ」とか「大丈夫なの?しっかりしなさいよ」と言いたくなる事態である。では、なぜ梨香は、このような生活を始め、理解できないという健吾に、「結構気があうよ、私、華子と」と語り、「同居人として感じがいいのよ」と説明するまでになったのか。華子とはどんな魅力を持っていたのだろうか。
最初に梨香が華子を家に入れて、サンドイッチまで作ってしまった理由は、泊まるところがないという華子をかわいそうに思ったのでもなんでもない。恋敵が家がなくて困っていようが関係ないことである。それはただひとつ「健吾に関係のあること」だからだ。「華子と関わっていること」それは健吾の好きな人と関わっていることであり、今、健吾を失ってしまった梨香にとっては「唯一のつながり」にもなりえたことだった。そんな理由から始まった梨香と華子の共同生活だったが、案外うまく回り始める。
共同生活者として、華子は意外なほど優秀だった。華子は他人に気をつかわない。傍若無人だ。そして、他人にも気をつかわせない。あたりまえのようにただそこにいる。
華子は、動物のようでも植物のようでもない。
すぐ横にいても、そのことを意識させないひとだった。生き物の鬱陶しさのないひとで、生気がない、というのときわめて近い。それでいて陰気な感じはまるでなく、むしろからりとあかるいのだ。
最初は、「健吾とのつながり」だった華子だが、一緒に暮らすうちに、梨香にとって華子の存在が変化していく。最初は健吾に対する切り札のようなつもりだった華子。それが、華子は不思議な魅力で梨香をひきつけていく。
華子は文中では、過去や人間関係がほとんどわからない。謎が多い女性である。例えば、華子が働きもせず暮らしていけるのは、中嶋さんと言う男性のおかげなのだが、彼の位置づけが読者にはつかめない。パトロンのようだけれども、華子のお葬式で親族代表の挨拶をしている。華子には惣一と言う弟もいて、彼と愛し合ってようなのだが、「ほんとに血がつながっているから」と梨香に言ったりする。この謎の多い過去について、江國香織は、こう述べている。
今回、梨香の一人称で書いたので、華子の身の上が書けなかったのです。華子自身がそうしたことを他人に話すタイプではないですし。そこで華子の子どものころのことや身の上、人間関係は次作に譲ることにしました。今回はあくまで、主人公の二人にとって、人生の一時期に偶然知りあったために、振り回されてしまった女性、というくらいの重さで書きたかったのです.今回だけでは、華子の死ぬ理由はないし、わけが判らないと思われる読者もいるでしょうが、二人の物語なので辻褄は無理にあわせませんでした。
やはり、作者からしても華子は謎の人なのである。謎が多いとは魅力の一つとしてよく挙げられがちだが、梨香にとってこの身の上のわからない同居人はどのようなものだったのか。
一緒に生活していても、梨香は華子に対して、謎を問い詰めたりはしない。その理由は、まるで華子に嫌われるのを恐れているからのようなのだ。華子は恋のライバルとして憎むべき相手にもかかわらず。それは、梨香が華子を好意的に見始めていることを裏付ける。
これだけわからないことが多いままの華子は、梨香の目に「小さな足」の女として印象を残す。始めて華子に会った、健吾の一人暮らしの部屋でも最初に目に入ったのは「黒い小さなショートブーツ」であったし、初めて華子を泊めた翌日、仕事から帰ってきた梨香が玄関に見つけたのも、華子の「小さな黒い靴」であった。共同生活を始めた後、華子が三週間留守にして戻ってきたときも、梨香は「仕事から戻ると、まず玄関の靴が目に入った」し、「バックスキンの華奢なスリップオン。金色の金具がついている。脱いだままの形で置き去られた靴」を見て「つい頬が弛んでしまう」。さらにしばらく香港に行っていた華子が突然戻ってきたときも、玄関の「隅のほうに一足、見慣れたこげ茶色のスウェードの靴―22センチの金具つきローファーで、足幅の狭すぎる持ち主のために中敷が敷いてある―が、ぬいだ形のまま置いてあった」のを見つけて「一瞬ひるんだ」りしてしまう。華子が自殺した後で、梨香が思い出すのは何よりも華子の「ショートパンツからのびた脚、淡い色に塗られた爪」なのだが、華子の足を印象深く記憶に止めているのはなにも梨香だけではなく、カツヤノモトカナイ(勝矢の元家内)も「足なんて小学生みたいだったわ。色気なんてなかった」夫を奪った女のことを思い返す。「全体に小柄だが足の小ささはおどろくべきもので、私は纏足という言葉を思いうかべた」とも、梨香は述べている。
女性の小さい足は、しばしば男性の美的欲望にかなうものとして好意的に表現される。この「小さな足」が華子を印象付ける特徴であったようだ。
しかし、華子の纏足という言葉を思いうかべさせる小さな足は、「男たちの美的欲求」を表しているというよりはむしろ、「人間としての自立度」の低さをイメージさせる。だがそれは、結果として梨香に深く印象付ける「華子の魅力」になっているのだ。一人では生きられない、人間の保護欲を掻きたてる華子という人物。それに、一瞬とはいえ、深い形でかかわってしまった女性、梨香。梨香は華子のせいで失恋してしまったのだが、結果的に華子の魅力に束縛されてしまう。そして、華子を自殺と言う形で失ってしまってからも、その魅力に取り付かれてしまうが、直人君の留守電で解放される。そこで初めて、失恋も完結するのだ。


『きらきらひかる』(一九九一・五、新潮社、初出「るるぶ」一九九〇・一〜一二)について
新潮文庫版『きらきらひかる』のあとがきで、江國香織は作品のモチーフについてこう語っている。
普段からじゅうぶん気をつけてはいるのですが、それでもふいに、人を好きになってしまうことがあります。
ごく基本的な恋愛小説を書こうと思いました。誰かを好きになるということ、その人を感じるということ。人はみんな天涯孤独だと、私は思っています。
「基本的な恋愛小説」「シンプルな恋愛小説」江國香織はこの作品をこういうが、実際この話はアル中の妻にホモの夫の話なのだ。もちろん夫には男の恋人もいる。これが、どうして「基本的な恋愛」なのだろうか。それは、「普段からじゅうぶん気をつけて」いた人間に、思いがけなくどうしても失いたくない人ができてしまうからではないだろうか。
この小説は、全十二章からなる各章を主人公の二人が交互にかたるという形式を取っていて、奇数章は笑子の、偶数章は睦月の視点から語られている。
笑子と睦月という、脛に傷持つもの同士、二人はお見合いで知り合って結婚する。もちろん、お互いの「傷」を承知の上で。二人の持つ「傷」は世間の常識からすれば、ひどく深刻なものである。では、なぜ二人は「障害のある」結婚に踏み切ったのだろうか。
笑子の場合、まずはなぜそんなにも情緒不安定になり、アルコールに依存するようになっていったのか。
羽根木さんと別れたのは、睦月と見合いをする少し前だった。羽根木さんは沈鬱な面もちで(このひとはたいていそういう顔をしていた。私は、彼の額のあたりの、その哀感が好きだったのだ)、別れよう、と言った。
「ショーコちゃん、君はフツーじゃない」
男はシャカイテキ動物だからね、と彼は言った。
「ホンポーというのがショーコちゃんのミリョクかもしれないけど、それがジョーシキテキなわくをこえてしまったら、僕にはついていけない。結局、僕のジガの問題なんだと思う」
私は、今思い出してみても彼が何を言おうとしていたのかさっぱりわからない。
「ごめん」
といってうつむいた彼の、苦渋にみちた額だけが、くっきりと印象にのこっていた。
作品のなかで、この失恋が大きな原因であったとは語られていない。しかし、これが大切なものをいきなり理由もよくわからないまま失ったという経験であり、睦月という最初から所有できない男性を、結婚相手に選んだ理由だと考えられる。相手が女性を愛さない同性愛者だとはじめからわかっていれば、相手に女性である自分への愛を求めることはできない、だがその代わり、それを失う恐れも存在しない。「こういう結婚があってもいいはずだ、と思った。なんにも求めない、なんにも望まない。なんにもなくさない、なんにもこわくない」。
「月刊カドカワ」一九九四年四月号の特集「江國香織自身による江國香織スペシャル」中の「おーなり由子からの50の質問」には、こんなやりとりが含まれている。
質問39「こわい」と感じるのはどんなことですか。
江國 どうしても失いたくない物や人を持ってしまうこと。
「どうしても失いたくない」人を持たないために、笑子はあえて同性愛者の睦月を夫に選んだはずである。けれども睦月と一緒に暮らすうちに、笑子は深い「鬱」にはまり込んでいく。「どうしても失いたくない物や人を持ってしまう」のである。
では、睦月の場合はどうだろうか。彼が男の恋人、「紺」がいるにもかかわらず、結婚をした理由とはなんなのか。睦月と笑子は見合いで出会っているのだが、睦月がお見合いをした理由は、家庭環境によるもののようだ。彼は父親が開業医であり、本人も病院の勤務医である。そして一人息子であるため、後継ぎという問題が出てくるのである。そのため、母親からのプレッシャーが激しいのである。この一説からもそれはよくわかる。
医者なんて信用商売なのよ、とおふくろはよく言っていた。いつまでも独身じゃぐあいが悪いでしょ。
睦月は、母親からの強いすすめで見合いを受けて、そこで笑子とであった。そして、なぜ結婚をしたかとは作品中には書かれてはいない。しかし、見合いで笑子と出会ったときの印象がこう書かれている。
実際、笑子はにこりともしなかった。清楚な白いワンピースを着ていたが、ほんとうはこんなもの着たくないのだ、と身体全体でどなっているみたいだった。険しい表情にしても、怒っているとかむくれているとかいうよりも、おいつめられて攻撃態勢をとっている小動物のような感じで、どこか気になった。きつく見ひらいた目は紺の目に似ている。仲人が定石どおり“若い方だけ”にしてくれるのを待って、僕は笑子に言った。
「憤慨なさるでしょうけれど、僕は結婚するつもりなんてないんです」
笑子はしばらく僕の顔を見て、それからきっぱりと言った。
「あら、私もです」
これが、きっかけとなって二人は付き合い始めるようなのだが、睦月は決して笑子を女性として愛せると思って付き合い始め、結婚したわけではない。それは、紺と別れていないこと、笑子にも自分は何もしてあげられないからといって、恋人を持つようにすすめていることからもわかる。ただ、睦月は人間として笑子を好きになり、笑子も女性として愛してもらえなくてもかまわない、むしろ失う危険のない男性を欲していたことがうまく調和した。さらに紺との関係を守りつつ、世間体や母親との折り合いをつけるための、いわば自己防衛の結果の「結婚」であったのだ。
しかし、二人はこの利害関係の一致した結婚に満足しているものの、周りからの圧力に追いつめられていく。笑子はどんどん鬱になっていく傍ら、睦月の恋人、紺とも仲良くなっていく。これはもちろん「恋愛」などではなく、笑子の睦月を失わないようにするための最終手段のように取れる。こう言ってしまうと、笑子は計算づくで紺と精神的な結びつきを得ようとしているかのように聞こえてしまうが、作品中で紺と笑子が二人で過ごしているとき決してそのようなどろどろした感情は感じられない。それは、笑子が純粋な人間で本能でそう行動しているからである。
笑子が追いつめられていった理由は、睦月が同性愛者であり自分が女性として愛してもらえないこと、身体的つながりをもてないことでは決してない。笑子を脅かすものは、双方の両親や友人からの「このままでいること」への反対、つまりは、「結婚」した夫婦の性交渉とその結果としての妊娠・出産を強要する力なのだ。
笑子は、このままでいること、睦月と身体的な関係はなくとも穏やかに暮らし、睦月は紺との関係を続け、紺と笑子も睦月を好きな二人同士、仲良く暮らしていくことを望んでいる。しかし、周りがそれを許さない。追いつめられていった笑子がとった行動、それは睦月の病院の同僚で産婦人科医の柿井(彼もまた同性愛者である)にある相談をすることだった。
「笑子さんの相談っていうのはつまり、言いにくいんだけどその、睦月の精子と紺の精子をさ、あらかじめ試験管でまぜて授精することは可能かって。そうすれば、その、みんなの子供になるからって」
この話を柿井から聞いた睦月と紺はただ唖然とし、紺は、笑子を追いつめたことを睦月に批難し姿を消してしまう。
三人が世間(この場合は両親や友人など)に馴染めずに追いやられていく様を作品中では「銀のライオン」にたとえている。
笑子の説明によれば、何十年かに一度、世界中のあちこちで、同時多発的に白いライオンが生まれることがあるという。極端に色素の弱いライオンらしいが、仲間になじめずにいじめられるので、いつのまにか群れから姿をけしてしまう。
「でもね」
と笑子は言った。
「でも、彼らは魔法のライオンなんですって。群れをはなれて、どこかに自分たちだけの共同体をつくって暮らしているの。彼らは草食なのよ。それで、もちろん証明されてはいないんだけれど、早死になの。もともと生命力が弱い上にあんまり食べないから。みんなすぐに死んじゃうらしいわ。暑さとか寒さとか、そういうことで。ライオンたちは岩の上にいて、風になびくたてがみは、白いっていうよりまるで銀色みたいに美しいんですって」
何の感情もこめない風に、笑子はそう言った。暑さや寒さで死んでしまう草食のライオン!? そんな話はきいたこともない。どうこたえていいかわからずにいると、笑子は僕の顔をじっと見て、
「睦月たちって銀のライオンみたいだって、時々思うのよ」
と言った。
ここで、笑子が睦月に話している内容ではあくまで「同性愛者」=「銀のライオン」である。しかしこの考えを睦月が「ユニークな発想」として自分の父親に話すと「でも、私には笑子さんも銀のライオンに見えるよ」と言われてしまう。ここで、「銀のライオン」が「世間にうまくなじめずにもがいているもの」に意味を変えてしまうのだ。
「銀のライオン」の世間と折り合いをつけて、大切な人達との生活を守るための行動は、ひどく不安定なものだった。笑子と紺の二人で、睦月も含めた周りに「嘘(紺が身を引いて姿を消したというもの)」をつき、笑子は睦月に紺をプレゼントする。笑子と睦月の住むマンションの階下の部屋で。紺はそこに引っ越してきたのだ。睦月はこの生活のことを「不安定で、いきあたりばったりで、いつすとんと破綻するかわからない生活、お互いの愛情だけで成り立っている生活」と述べている。確かに、この三人の生活はこれからも周りの力に脅かされていくことだろう。だが、どこか幸福な匂いがしている事もまた事実である。それはこの作品のなかで三人(笑子、睦月、睦月の恋人・紺)がとても魅力的であり、好意的に描かれているからであろう。三人が三人とも、追いつめられていっているはずなのにもかかわらず、三人でいるとき、どこかほのぼのとしたさわやかさにも似た感じがするのである。この、不幸な中での幸福な雰囲気の描き方がまたこの作品の魅力であるのだと思う。


【終わりに】
江國香織について卒論を書こうと思って、作品以外に彼女のインタビューや対談、あとがきなど、あらゆるものを読んだ。なにぶん、現代作家ゆえ書かれている論文が圧倒的に少ないので、本人の言っている事などをもとに自分で考えることが多かった。そのなかで、何度か江國香織がインタビューでいっていることで、特に印象に残っていることがある。
私は、読む前と後で、人生観や価値観が変ったり、衝撃を受けたりしない作品を書きたいのです。そして、読んだあとに、たとえばミリンダだけでもいいし、一言の台詞でも全体の雰囲気だけでもいい、なにか小さなものが残ったら最高だなと。遊びから帰ってきて「ああ、楽しかった」という感じです。私たちは旅行にいっても、全部は覚えていないでしょう。あとで思い出すのは、どこかの駅で見た風景だったり、旅館の仲居さんとの会話だったり、市場でつまんだ魚の味だったり。そんな適正な大きさで印象に残ればうれしいですね。
これが、彼女の作品の特徴らしい。実際、私は彼女の作品を読み終わったあとに深く考え込んでしまったりしない。さらっとした読後感である。でも時々、たとえば雑貨屋に行ったりしたときに「果歩の使っていた『カフェオレボール』ってどんなものなんだろう」と思い出したり、スーパーでミリンダを探してみたりする。そのくらいの思い出し方である。これが、彼女の作品の魅力なのではないだろうか。
最近の若者は活字離れしているらしいが、江國香織ファンは十代や二十代の女性層だと冒頭で述べた。こんなにも、若い女性ファンを惹きつけるのも、この魅力のためではないか。自分にとってすぐ身近にあるものが書かれていること。それは、食べ物だったり場所だったり、友情だったり恋愛だったり、とにかくすぐそばにありそうで、どこか美しく、非日常的な部分もあわせもっているのだ。最近の若者は堅苦しいものを好まない。純文学を読んだあとに衝撃を受けたりするのがかっこ悪いと思っている若者もいるのだろう。音楽を聴いたり雑誌を眺めたりするように、さりげなく活字を読むことができる。しかも内容も、自分に身近なものが出てきていて読みやすい。さらに、最近の女性が活字を読んでいることで見た目にもなんとなく格好がよいのではないかと考えるのであろう。このように、若い人、特に女性の希望を満足させてくれるので、江國香織は人気作家なのだ。このように言うと、江國香織が安っぽく感じるかもしれないが、私は彼女の言葉の使い方の美しさ、作品の雰囲気は大好きだし素晴らしいと思う。魅力なのは、入り込みやすさと、読みやすさなのだ。彼女が取っ掛かりになって、活字にのめりこむ人も出てくるだろう。今活字離れをしてしまった若者に、いきなり純文学を突きつけてもそっぽを向いてしまうだろう。そんな人たちに「活字にもこんなに読みやすくて、身近な感じのする作品があるのだ」と感じて、そこから本の魅力に気付くために、彼女の作品は大きな「きっかけ」になるのではないだろうか。