児童文学における「死」の概念

 

 01E1102023F 木下 真希 

 

あなたは(2005.2.4〜)人目の訪問者です。

目次

 

 序論・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 3

 

  1. 「死」とは ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 5
  2.  

  3. 宗教思想がもととなる児童文学作品・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 8
  4.  

  5. 「死」への恐怖と好奇心 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 13
  6.  

  7. 「死」への意識と幼児形成・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 16
  8.  

  9. 宮沢賢治の「死」の世界 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 20
  10.  

  11. 現代社会の問題をテーマにした児童文学作品・ ・ ・ ・ ・ ・ 23

 

結論・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 26

 

 

 

 序論

 

 私は、児童文学に於ける「死」の概念をテーマに、様々な児童文学作品に取り扱われている「死」について考えてみたい。そもそも昔は、児童文学のフィールドに「死」や「離婚」といった概念を持ち込むこと自体がタブー視されていたが、八十年代に入り、積極的に取り扱われるようになってきた。昨今問題視されている、児童による殺傷事件は、子供が「死」についてあまりに無知すぎるということに原因の一端があると私は思う。「あなたは誰?」というで出しで始まる『ソフィーの世界―――哲学者からの不思議な手紙』という本がベストセラーになったのは一九九五年のことだが、その本を読んだほとんどの人が「本当の私って何だろう?」という自分探しのヒントにしたといわれている。このことはつまり、生きている実感が現代は実に希薄であるということにも通じるだろう。死への実感がないから、生きている実感もわかない。物質的快楽追求のピークであった八十年代バブル経済期に生まれ、生と死を見つめる機会が急速に失われた時代に幼児形成を迎えた子供たち(私もその年代生まれであるが)に今、一体何が起きているのだろうか。児童による殺傷事件というと、未だ、人々を震撼させたあの一九九七年の神戸・連続児童殺傷事件が思い起こされる。自らの中に酒鬼薔薇聖斗という「別のもの」を作り出した少年は、幼なじみだったという児童を殺害した。彼はその幼なじみを殺害する前、二人の少女に対して、それぞれカナヅチで殴る、ナイフで刺すなどの凶行を働いていた。そしてカナヅチで殴った方の少女が死に、ナイフで刺した方の少女が生きていたことに少なからず驚き、ノートにこう記していたという。「人間は壊れやすいものなのか壊れにくいものなのか、分からなくなりました。」子供たちの生死にたいする感覚の薄さはここまで来てしまったのである。あるテレビ番組で、ゲストの主婦が我が子についてこんな事を言っていた。「先日小学生の息子が居間でテレビゲームをしていて、画面に向かって何度も「死ね!死ね!」と言いながらコントローラーを動かしていた。その後ろ姿を見てゾッとしてしまった」と。最近のテレビゲームは、敵が何度も生き返るものがあり、子供たちは頭では分かっていても感覚的な部分で本当に「死ぬ」と言う事が分かっているのだろうかと疑問に思う。人間は意外に脆く、あっけなく死んでしまうものだということを子供たちにどう伝えていけばいいのだろうか。それにはやはり、幼児期から絵本などで「死」について考える機会を与えていくことが重要だと私は考える。急速な核家族化が進む中、子供たちは身近な人間の死に出会う機会がなかなかない。隣近所が一つのコミュニティーとして家族のように付き合っていた時代はもっと多くの「死」に子供たちは触れていただろう。しかし現代ではそうした機会さえ失われているのだ。これからいくつかの作品を通して、子供に教えていくべき「死」について考えようと思う。

 

 

 

 第一章:「死」とは

 

 「死」についての真相は、子供だけでなく大人にも誰にも分からない。言うまでもなく「死」について知るときはまさに死ぬその時なのだ。しかし人間はそれを知ろうと考え続けてきた。宗教思想にも「死」については様々な説がある。例えば、釈尊が亡くなる前に説いたとされる「涅槃経」という経典に、次のような話がある。

 

 ある時、一人の女性が一軒の家を訪れる。生の喜びに輝く女性に家の主が名を聞くと、彼女は「私は功徳大天といいます」と答える。主人は喜んで女性を家に招きいれた。しばらくして、もう一人の女性がこの家を訪れ、暗く陰鬱なこの女性に主人が名前を聞くと、「暗闇ともうします」といった。主人は刀を抜いて、「去れ」といったが、暗闇と名乗る女性はこう答えた。「家の中の女性は私の姉で、私は姉と行動をともにしています。私を追い出すと、姉も追い出すことになります。」・・・・・・主人が驚いて姉に聞くと、姉はこう言った。「私は妹と行動をともにしており、私を愛するならば妹も愛してもらわなければなりません。」

 

 釈尊は弟子の迦葉に、姉は「生」で、妹は「死」を意味すると説明している。この二つは、ともすればまったく別のもののように考えられてしまうが、生があるからこそ死があり、死があるからこそまた生もある、つまり絶対に分けては考えられないものなのだということの教えなのである。

 私たちが死について考えるとき、医学(科学)と同時に考えなければならないものとして、このような宗教が挙げられる。それは、いずれの宗教も人間の生と死に焦点をあて、その神秘に迫ろうとしているからである。 日本人には無神論者が多いと言われ、日本人にもっとも多く見られるのは「死んだら無になる」という考え方だともいわれている。しかし、日頃そう口にしている人たちも、窮地に立たされたとき、多かれ少なかれ思わず心の中で祈ったという経験をしたことはあるだろう。また、多くの日本人は願をかけることもする。そのときの祈りは漠然としたものかもしれないが、やはり「祈る」ということは自分を超えた存在を感じているからにほかならない。

 世界には大きく分けて「五大宗教」といわれるものが存在する。それはキリスト教・イスラム教・ヒンドゥー教・ユダヤ教・仏教のことだが、世界人口約六十億人のうち、約四十億人の人がこのうちのどれかを信仰しているという説もある。それぞれの宗教にとって「死」はどのようにかんがえられているのだろうか。

キリスト教、イスラム教、ユダヤ教は、「一神教」と呼ばれる。この三つの宗教に関して、人の死に対する教えは共通する。それは「人間は死後、神によって裁かれ、それによって天国(楽園)へ行けるかどうかが決定する」というものだ。これに対してインドを中心に広められたヒンドゥー教は「多神教」である。ガンジス川流域のバラナシ(ベナレス)はヒンドゥー教の最大の聖地で、ガンジス川のなかで沐浴をしているそのかたわらで、死体を焼く火がたちのぼっている。ここでは生と死が一体化しているのだ。このことは後に述べるが、これはヒンドゥー教において、輪廻転生が深く信じられている事と関係がある。

 また、哲学者・ハイデガーは、「人間は生まれたときから刻々と死への道のりを進んでいる。その意味で人間は全員が死刑囚と同じなのだ」といった。私はこれはやや悲観的すぎる言い方だとは思うが、確かにこれは事実である。私たちは今、こうしている間にも、死に向かって突き進んでいるということができるのである。

 こうして様々な宗教や哲学においても、「死」について考えられているが、その実を生きている間に知ることは出来ない。しかしこうした宗教思想がもととなる児童文学作品は意外に多くある。子供たちに「死」を理解させ、そして「死」に対する必要以上の恐れや不安を取り除くという上で重要な役割を担っているのがこれらの作品であると私は考える。そこでまず、宗教思想がもととなると思われる作品を見ていきたい。

 

 

 

 第二章:宗教思想がもととなる児童文学作品

 

 宮沢賢治の作品の中にも、仏教思想そのものとも言える作品がある。それは『ひかりの素足』である。吹雪の中、一郎と楢夫が家を目指して必死に歩き続ける。しかし二人はやがて死後の世界に足を踏み入れる事になり、幼い弟をかばいながら兄がそこで見たものは恐ろしい地獄であった。兄の一郎は鬼のむちでぶたれる楢夫を見て思わず鬼の手にすがり、“私を代りに打ってください。楢夫はなんにも悪いことがないのです。”(引用:本文七十四頁)という。ところが鬼は“罪はこんどばかりではないぞ。”(引用:本文七十五頁)とどなる。一郎は仮死状態の中で「如来寿量品題十六」という 声を聞く。そしておなじようにとなえると地獄への道はいるか消えて壮麗な光景にかわってゆく。そこで一郎は真っ白な素足の人に“おまえはも一度あのもとの世界に帰るのだ。おまえはすなおないい子どもだ。よくあの刺の野原で弟を棄てなかった。あの時やぶれたおまえの足は、いまはもうはだしで悪い剣の林を行くことができるぞ。今の心持を決して離れるな。”(引用:本文八十五頁)と言われ、再びこの世で息を吹き返す。

 この作品の目的はまぎれもなく仏の大きな慈悲を示す事が目的である。一郎は死後の世界に地獄を見たが、法華経のヒ諭品第三には「生の苦しみ、老いの苦しみ、病いの苦しみ、死の苦しみをはじめとして、かぎりない憂い、悲しみ、苦しみ、悩みに身を焼かれ、また五官の欲や金銭物質の欲のためにさまざまな苦しみをうけている」といって、現実のこの世が地獄だという。この苦しみをどう克服するかが人間の、仏教のテーマなのだ。楢夫のような幼い子どもに死の避けられないのが現世である。

 また、一郎は“楢夫はなんにもわるいことがないのです”と鬼に言うが、悪いことはしていないが、地獄和讃の子供のように親に先立つ罪があるかもしれない。私は最初この物語を読んで、一郎たちの落とされた所は「賽の河原」であると思った。この作品の中では地獄への道なのだが、仏教では親より先に死ぬということが非常に重い罪とされている。一郎や楢夫は、大人のように意識して悪を行ったのではないが、無意識の行為や、あるいはキリストのいう原罪ともいうべきものが問われているのかもしれない。賢治は法華経の影響を強くうけて、この世を浄土たらしめようと努力した人である。

 一郎が仮死状態の中で聞いた「如来寿量品第十六」は、法華経の精髄だといわれている。要約すると、「仏の本体は宇宙の大生命であり、無始、無終、永遠に生きとおす実在である。

従って仏はわれわれの中にも外にもみち、われわれはその大生命に生かされている存在である。仏と衆生は同じなのだから、われわれの本質もまた、永遠に生きとおす生命である。」ということになる。一郎の見たひかりの素足の人は仏心の姿ある人、即ち如来(仏)である。

 賢治は“法華経のおしえに帰依し、浄心をもって道をゆくことが地獄を脱することであらねばならない。即ち地獄は自身の心の中にあり、これをぬけでるのもまた心である”と考え、人にあてた手紙の中で、「古めかしく思うかもしれないが、どう考えても正しい」といっている。実際科学的調査により、臨死体験では平安な気分になる事が多い中、わずかではあるが天国ではなく地獄の体験をしたという報告がある。心の中に地獄を持っている人がこうした体験をするという考え方もできるだろう。

 この作品はともすれば子どもには少し難し過ぎるかもしれない。しかし、こうしたこまごまとした解説を抜きにして、何の先入観も持たない子どもが読むとまた、私たち大人があれこれ詮索しながら読むのとでは全く表情を変える作品だと私は思う。似たようなテーマの作品に芥川竜之介の『蜘蛛の糸』があるが、これは自分が子どもの頃紙芝居で見て強烈な印象を残したことを未だに覚えている。我が家も典型的な核家族で、両祖父母とも遠方に住んでいるため家に仏壇もなく、仏教思想についてなど知る由もなかったが、紙芝居に描かれる地獄の風景と、たった一本の蜘蛛の糸に群がる人間のおぞましさに慄いた記憶がある。賢治のこの作品は最終的に憐れな子どもたちが仏に救われるという点で、子どもの感性に響く素晴らしい作品だと私は思う。賢治にとっても、とじられた元原稿の表紙には「凝集を要す 恐らくは不可」「余りにセンチメンタル 迎意的なり」と批判的な言葉が書いてあり、なお不満を残したようだが、度々推敲が行われていることから、かなり時間をかけた大切な作品であったと思われる。

 次に、第一章の中で触れた輪廻転生について描かれている作品を見てみたい。第四十四回小学館文学賞を授賞した『西の森の魔女が死んだ』(梨木香穂歩/作)という作品である。「西の森の魔女」とは、中学生の少女まいの祖母のことで、不登校のまいは祖母のもとで「魔女修行」をする。祖母の言う「魔女修行」とは、何でも自分で決めるということで、祖母との自然と共存する生活を通してまいは内面的に成長して行く。この物語の中でまいは毎朝卵を採りにいく時睨みあっていた雄鶏が狐かイタチに惨殺されてしまった姿を目撃してしまい、そのことから「死」について考え始める。「それはまいがもう何年もの間、ずっと考え続け、恐れ続けてきたことだった。夜になると考えまいとしても、そのことが頭から離れなくなるのだ。そしてブラックホールに吸いこまれていくような気持ちになって、叫び出したくなる。もう何年もそうだった。」(引用:本文一一九頁)これは誰もが子供の頃漠然と感じたことのある不安だ。死んだらこの身体はどうなるのか。この気持ち、意識はどこへゆくのか。こういう不安を抱えてわけもなく悲しくなったり苦しくなった経験は少なからず誰もが経験している事だろう。まいの気持ちは読者である子供たち共通のものなのである。ここでまいはおばあちゃんに人は死んだらどうなるのかと聞く。「パパは死んだら、もう最後の最後なんだっていった。もう何も分からなくなって自分というものもなくなるんだって言った。もうなんにもなくなるんだって言った。でもわたしが死んでも、やっぱり朝になったら太陽が出て、みんな普通の生活を続けるのってきいたら、そうだよって言った」(引用:本文一二一頁)これは子供が一番恐れる答えであり、まいはパパがこう話したことで何年も恐怖を感じ、考え続けてきたのだろう。しかしこれを受けておばあちゃんはこう話す。「おばあちゃんは、人には魂っていうものがあると思っています。人は身体と魂が合わさってできています。魂がどこからやって来たのか、おばあちゃんにもよく分かりません。いろいろな説がありますけれど。ただ、身体は生まれてから死ぬまでのお付き合いですけれど、魂のほうはもっと長い旅を続けなければなりません。赤ちゃんとして生まれた新品の身体に宿る、ずっと以前から魂はあり、歳をとって使い古した身体から離れた後も、まだ魂は旅を続けなければなりません。死ぬ、ということはずっと身体に縛られていた魂が、身体から離れて自由になることだと、おばあちゃんは思っています。きっとどんなにか楽になれてうれしいんじゃないかしら」(引用:本文一二二頁)「魔女は十分に生きるために、死ぬ練習をしているわけですね。」(引用:本文一二四頁)「魂は身体をもつことによってしか物事を体験できないし、たいけんによってしか、魂は成長できないんですよ。ですから、この世に生を受けるっていうのは魂にとっては願ってもないビッグチャンスというわけです。成長の機会が与えられたわけですから。」(引用:本文一二五頁)おばあちゃんのこれらのセリフは、一章で触れたヒンドゥー教の輪廻転生に重なる部分があると私は考える。ヒンドゥー教では人間は何度も輪廻を繰り返すという教えがあり、今のこの死は、その中の一回の死なのだという考えだ。その死は「次の生まれ変わりへの旅立ち」とされる。そのことをおばあちゃんのセリフを通して子供にも分かりやすい用に伝えている作品である。子供にとって、「死んだらそれまで」という説明は非常に恐ろしく、不安を煽るものでしかない。しかし、また再び生まれ変わることができるから、その為に今回の人生で何をやるべきかという事を考えさせ、よく生きるということを教えているこの作品は、子供にとって生きる楽しさや勇気を与えるだろう。

 こうした宗教思想にもとづいた作品は、子供の心にはどう響くのか。自分が子供の頃こうした作品を読んだ時、少し入りにくい世界ではあるが、命の神秘とか、今この世に生きている不思議とか、そういう事を考えたことを思い出す。難しく語るのではなく、こうした作品を通して宗教の思想を教えていくことも大切なことだと思う。こういう考え、教えがあるということを子供に伝え、それによって死ぬことへの恐怖や不安が和らぎ、そしてどう生きるか、どう死ぬかについても考えさせる大切な機会だと思う。宗教思想は多くの人々が信仰し、それによって救われているものだからこそ、こうした児童文学のフィールドにも顔を出しているのだろう。そして、やはり多くの人々が信仰するものだからこそ、子供の恐怖や不安を和らげる効果が得られるのだと私は思う。こうした思想を通して子供たちが命の尊さや生きる喜びを幼い頃に胸に刻み込むことが、子供の内面的成長に欠かせないと私は考える。自分の命を大切に感じることができて初めて、他者の命をも大切に思うことができるだろう。自分を超えた存在を感じ、自分自身を見つめるこうした機会を現代の子供たちに与える重要な役割を担っているのが、この宗教思想を扱う児童文学作品だと私は考えた。

 子供はこのように死について様々な思いを抱えているが、恐怖や不安とともに、死への好奇心も抱えている。第三章では、子供の死に対する恐怖と表裏にある好奇心について考えたい。

 

 

 

 第三章:「死」への恐怖と好奇心

 

 私たち人間は、太古から死を恐れ、死の手前にある老いや病を恐れて生きてきた。不老不死の薬草を家来に探しに行かせた秦の始皇帝の「徐福伝説」は世界的に有名である。日本でも富士山に不老不死の願いを込めて、「不死山」と書く事がある。また、不老不死ではないが、エジプトのピラミッドは死者が蘇ることを願って作られたものであり、様々な民族の間でなんとか死を回避したいと願った人々の伝説がある。人が死をこれほどまでに恐れる理由は、やはり死が「生きているすべての人間にとって未知のもの」であるからに他ならない。自分という存在がこの世から消えてしまうのが怖いという意識があり、さらに病や死と闘う人間の孤独さを思い、いたたまれない気持ちになったりする。しかし、結局のところ「理屈ではなく、本能的に死が怖いのだ」ということに行き着くだろう。死を恐れるために死について知りたい、こうした気持ちが様々な宗教や民族の間で伝説として語られてゆくのだろう。

 子供の死ぬことへの不安とそれゆえに止められない好奇心とがユーモラスに描かれている作品がある。日本で各新人賞を受賞し、映画化・舞台化されたほか、十数カ国で翻訳出版され、アメリカでも三つの賞を受賞した『夏の庭 The Friends』(湯本香樹実/作)だ。十二歳の少年三人が、“オレたちも死んだ人が見たい!”と、もうじき死ぬんじゃないかと噂されているひとり暮しのおじいさんを見張り始める。しかし、そのおじいさんとの交流を通して、少年たちは心の成長を遂げてゆく。そして物語の最後におじいさんが死に、少年たちが見たいと思っていた「死んだ人」となる。“死んだ人が見たい”なんて、非常に変わったフレーズだが、子供の好奇心を的確に掴んだ作品だと思う。だからこそ世界中で受け入れられたのだろう。また、この作品の中には、死への恐怖と好奇心の他に、近年急速に増加した核家族の問題や、さまざまな要素が含まれている。物語は、少年の一人山下が祖母の葬式に行った事から始まるが、山下は河辺と僕に「悲しくなかったのか」と聞かれ、「だって、赤ちゃんの時に会ったきりだもん。知らない人みたいなものじゃない」(引用:本文十三頁)と答える。これは急速な核家族化現象の問題点を浮きぼりにしたセリフだ。実の祖母の死には感情を動かされなかった山下も、夏の間一緒に過ごしたおじいさんが死んだときには大きく心を揺らし泣いている。彼らはおじいさんを通して「死」を学んだのだ。この作品には実に様々なテーマが散りばめられている。先述した子供のころ感じる死への恐怖、死について貪欲に「知りたい」と思う気持ち、プールで溺れた山下の臨死体験とそこから「案外、簡単に死んでしまうものなのかもしれない。」(引用:本文一一七頁)と気付くこと、おじいさんと種屋のおばあさんの会話を聞き、「歳をとるのは楽しい事なのかもしれない。歳をとればとるほど、思い出は増えるのだから」(引用:本文一六二頁)と感じることなど、子供に教えるべき要素が全て含まれているといっても過言ではない作品だ。特に、おじいさんが経験した恐ろしい戦争の話、それを聞く場面などは核家族化の現代に最も必要とされていることなのではなかろうか。誰の上にも運命の荒波は訪れる。おじいさんおばあさんは、それらを乗り越えて、時にはめげそうになりながらも、長い間たくましく生きぬいて来た人たちであり、そのことだけでも、もう十分尊敬に値するといえることをこの作品は教えている。この作品のテーマとも言える一文が、「死んでもいい、と思えるほどの何かを、いつかぼくはできるのだろうか。たとえやりとげることはできなくても、そんな何かを見つけたいとぼくは思った。そうでなくちゃ、なんのために生きてるんだ。」(引用:本文一一八頁)というものだ。これこそ子供に教えるべき最も大切なことではないかと私は考える。はじめに述べたように、生きているという実感が非常に希薄になってしまった現代に生きる子供たちに、このことを知って欲しいと私は願う。意味もなく生き、それが辛いから死んで楽になりたい、または生きていても何も楽しい事がないから死にたい、そういう若者が今、インターネット上で自殺願望を語っている。自殺をする勇気があるならばどうして生きようとしないのか、何故そこまで無気力なのか、私には理解し難いが、彼らは恐らくこういう作品に出会わずに、この生という実感のない世界で成長してきてしまったのだろう。そんな若者を見ていると、ますます児童文学の担う役割の大きさを実感し、この世を危惧してしまう。死に対して怖いと感じているうちはまだいいが、恐怖さえ感じなくなってしまった心に、どう訴えかけるのか、それがこれからは更に求められるだろう。次章では、今まで取り上げた作品よりもっと対象年齢が低い、幼児向けの絵本について取り上げたい。

 

 

 

 第四章:死への意識と幼児形成

 

 私たち人間が、死を意識するのは一体何歳ぐらいからなのだろうか。そして人として物心がついてからの死に対する意識はどのように変化していくのだろうか。これは自身の身体が生まれた時から病弱であるとか、早いうちに肉親や兄弟を亡くしたかどうかなどで、かなり個人的な差があるだろう。しかし、幼児の中にも生物的本能として、死の恐怖はあるといわれている。しかし、一般的には、死は教育の過程でまず「教わる」ものだと考えられている。そこで「教育」の手段として絵本が使われるのである。子供に伝えるのに、まさか血まみれの死体の絵が描かれていたり、おじいさんが病院のベッドでチューブを身体中につけている絵が描かれているという作品はないだろう。まずは生々しさの少ない“動物の死”などが一般的である。そこで作品を読んだ子供がペットを飼っている子の場合は、自らのペットにその動物の死を当てはめて考えるだろう。また、ペットのいない子でも、漠然と「人や動物は死んじゃうんだな」と理解するのが、だいたい五歳前後だといわれている。幼い頃誰もが、「お父さんやお母さんがいなくなったらどうしよう」と突然わけもなく悲しくなり泣いてしまったという経験をしたことだろう。幼児期は表現能力がまだ発達していないので、なぜ自分が悲しいのかを大人にうまく伝えることは出来ないが、やはり死は大きな恐怖なのである。このときの死に対する恐怖は感覚的なものにとどまっている。その後成長するにつれて様々な体験をし、情報を得て、第二次成長期を迎える頃にはほとんどの人がはっきりと「生きているものは必ず死を迎えるのだ」と認識できるようになる。

 大切なのは、この漠然と人や動物は死んでしまうのだということを理解し始める五歳前後に、死について触れられた作品を子供に読ませることである。大人にとって生きるものは全て死ぬということがいかに当たり前であっても、子供には本当にそれが分からないということを、まず大人がしっかりと認識し、子供に伝えていかなければならない。というのも、子供が「死ぬ」ということを理解していないことを裏付ける事件が一九七五年に起きているからだ。大阪府岸和田で、幼女(三歳)二人が、他家に侵入しベビーベッドで寝ていた生後十七日の赤ちゃんを連れだし、ままごと遊びのお人形役にしていたという事件で、大人には考えられないことだが、この幼女二人は、生後十七日の赤ちゃんに階段から引きずり下ろすなどの凶行を働いていた。赤ちゃんはその際できたと思われる後頭部陥没骨折、腹部に数カ所の内出血のため病院で死亡した。顔面にすり傷、両膝に打ち身などの傷害も発見された。私にも経験があるが近所に赤ちゃんが生まれた時、大人たちは「赤ちゃんはとっても弱いものだから、頭を触ったり無理に抱いたりしたらいけない。すぐに死んでしまうからね。」と口をすっぱくして言っていた。それを聞いて私たち子供は「赤ちゃんは自分たちより弱くてすぐに死んでしまうかもしれない」と認識し、腫れ物に触るように優しく撫でたりしたものだ。この幼女は無知うえにこの赤ちゃんを死に至らしめてしまったのだろうが、この事件も大人たちが子供に「赤ちゃんは乱暴にしたら死んでしまう」ということを教えてこなかったことに原因があるだろう。幼児期に子供に死ぬということを教えるのは大人の任務ともいえるだろう。その役割を担う作品を、いくつかとりあげたい。

 

 絵本の中で非常にメジャーで、子供にも大人にも人気のある作品、『100万回生きたねこ』(佐野洋子/作・絵)この作品は死ぬということ以上にどう生きるかということを問いかけている素晴らしい作品である。題名の文字通り、猫が100万回生きる話なのだが、それぞれの飼い主が、猫が死ぬとき皆泣くのに、猫は一度も泣かないという話である。しかし、最後に野良猫として生きた時、猫は自分が大好きになり、そして一匹の白猫と夫婦になる。そして子供が生まれ、猫は自分よりその子猫がすきになる。そしてラストに、白猫が死んでしまうと今まで泣いたことのない猫は100万回も泣き、そして白猫によりそって死に、二度と生き返らなかったという話である。これは、宗教の章で述べた輪廻転生や、魂の浄化などに当てはめて考える事もできるが、子供にとってはそんな難しいことではなく、無関心に生きるのではなく、一生懸命誰かを愛して誰かの為に泣くことができる人生を送ることの素晴らしさを教えていると私は思う。友人の子供にこの本を読み聞かせてみたところ、何度も生きかえるところでは反応がなかったのに対し、最後に白猫と一緒に死に、もうけっして生きかえらなかったという文を読んだ時、猫は死んでしまったのに「よかったね」と笑顔で言った。それを聞いてどう生きるかというこのテーマは、やはり子供にも伝わるものなのだと改めて実感した。

 絵本の中で「死」についてこれほどまでに詳しく描かれているものはないだろうと思う作品に、『わすれられないおくりもの』(スーザン・バーレイ/作・絵 小川仁央/訳)がある。みんなに頼りにされているアナグマのおじいさんが死んでしまう。残された仲間たちは長い間悲しみにくれるが、おじいさんに教えてもらった事をみんなで語り合い、おじいさんはひとりひとりに分かれた後でも宝物となるような知恵と工夫を残してくれたことに気付く。そしていつしかみんな、おじいさんのことを話す時はいつも楽しい思い出を話す事ができるようになった、という話である。この作品では、一般的にはカットされている死ぬ直前や死に向かう最中の描写がはっきりと描かれている。アナグマのおじいさんは、足が悪かったはずなのにトンネルの中を力強く走っていて、奥へ行けば行くほど素早く走れるようになり、そしてふっと地面から浮きあがったような気がして、身体がすっかりなくなってしまったように感じる。すっかり自由になったと感じた、という描写である。ここまで死への道のりをはっきり描いた作品は絵本ではあまり見ない。しかし、これによって子供たちが「死ぬということは自由になるってことなんだ」と理解できれば、子供たちの死を恐れる気持ちが少なからず薄れるだろう。そしてアナグマの死後、仲間たちが悲しみながらも、思い出に元気づけられていつまでもその思い出を宝物として胸に抱き続ける後半部分では、死んでもその人との思い出が心の中にずっと生き続けるということにも気がつくだろう。この作品は子供に「死」について教えるとともに、子供の恐怖心や不安感を取り除くのにとても良い作品であると私は思う。

 新見南吉といえば、誰もが『ごんぎつね』を思い出すだろう。『ごんぎつね』もいうまでもなく死に触れた作品である。『ごんぎつね』は、一九七〇年代に入って国語教科書の中でも確固とした位置を占めていくが、絵本でも出版されている。私は幼稚園の頃、姉の目を盗み国語の教科書を持ち出して読んだのがこの作品との出会いだが、悲しくてかわいそうで一人泣いたのを覚えている。「ごん」という子狐が、自分のいたずらの罪をつぐなおうとして、村人の兵十に接近し、最後にその兵十に撃たれて死ぬ。兵十の誤解からとはいえ、ごんが最後に命を落としてしまうという結末が、子供にとってはかわいそうすぎる、救いがないという意見もあるが、既成の「道徳」やあらかじめ約束された「ハッピーエンド」の枠組みにとらわれず、人間の種々層に触れ、人間世界の矛盾、不条理について考える事も重要であると私は思う。兵十と分かり合いたかったごんは、結局誤解され殺されてしまう。兵十も撃ってしまった後でごんが栗をくれたことに気付き途方にくれる。この『ごんぎつね』の与えるある種の「不思議なショック」が、感動であり、「人生へのインタレスト」であるのだ。

 この三つの作品を幼い頃読んだ子供と、こういう作品に触れずに格闘ヒーロー物ばかりを見てきた子供とは、決定的な差がでることは確実だろう。子供はヒーロー物が好きで、それを否定することはできないけれど、悪者だから殺していいという先入観ができてしまうのも非常に懸念されるべき問題だと私は思う。幼児期にこういう心優しい作品に触れることで、幼児形成に大きな影響を及ぼす事は紛れもない事実である。幼児期に触れさせるべき作品として私はこの三つの作品が最もふさわしいと考えた。次章では、絵本から小学校児童文学へフィールドを移し、宮沢賢治の死に触れた作品をいくつか見ていきたい。

 

 

 

 第五章:宮沢賢治の死の世界

 

 これはよく指摘されることだが、賢治文学には、「死」の世界に踏み込んだ描写に独自なものがあるといわれる。しかし、彼はその一方で、あるいはそれ以上に、「生」の、具体的には生命のその「芽生え」の世界を言葉にのせる上で豊かな才能を発揮している。大人は子供を、成長の途上期、一人前になる前の未熟なものと考え、そういう子供に読ませるために書かれた幼稚な文学が童話と思う人は少なくない。しかし、子供もまた自分自身で立っている一個の人格であり、だからこそ子供を相手に書かれた童話には、大人向けの文学よりも少しばかり理想主義に近い思想がなければならないだろう。賢治は自分の精神活動のすべてを童話(と詩)によって表現した。彼の童話は彼の思想の全体を伝えるための装置といっても過言ではない。これから宮沢賢治のバラエティーに富んだ三つの作品を見ていこう。

 

 『銀河鉄道の夜』は賢治の作品の中でも最も有名であるが、この物語は貧しい孤独な少年が夢の中で親友と汽車の旅をする、と一言で要約するにはあまりにも深く悲しく、謎や魅惑に満ちた物語である。夢の旅というと簡単だが、それは死者たちの乗る汽車、その線路はといえば夜の大空を、銀河の流れに沿ってどこまでもどこまでもめぐっていくのであり、同行する親友(カンパネルラ)は旧友を救おうとして溺れたすえの、死出の旅路にある。物語の途中で同乗した姉弟に、青年が言ったセリフは、読者である子供にとっても死への旅路においての不安や孤独をかき消す効果をもたらしている。「わたしたちはもうなんにもかなしいことないのです。わたしたちはこんないいとこを旅して、じき神さまのとこへ行きます。そこならもうほんとうに明るくて匂がよくて立派な人たちでいっぱいです。(略)」(引用:本文一九五頁)

 死んでしまったらどうなるのだろうという恐怖、不安を見事に打ち消し、死んだらもう苦しみや悲しみがなくなるのだというメッセージを賢治は子供たちに伝えている。そして物語の後半では、ジョバンニとカンパネルラは二人きりになり、真の幸について考える。ジョバンニは親友カンパネルラに、「僕はもうあのさそりのようにほんとうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない」(引用:本文二十六頁)と言い、カンパネルラも「僕だってそうだ。」と同意する。これほど深いテーマを童話に持ちこむ作家は恐らく宮沢賢治のほかにはなかなかいないだろう。親友の死に加えてその後、ジョバンニがどう生きていくかという大きなテーマを投げかけている作品である。

 『よだかの星』、この作品も『銀河鉄道の夜』と同じテーマを抱えている。主人公のよだかは「実にみにくい」という外見ゆえに小鳥たちから有形無形のいじめを受け、またその名前ゆえに猛禽中の猛禽である鷹から理不尽な改名を迫られる。名前を奪われるとは自分の本質的存在性を犯されることであり、また「みにくさ」は、よだかが羽虫や甲虫に対する惨殺者という自分の存在性へのはげしい嫌忌と表裏をなしている。よだかのこの苦悩は、全生物がおかれている「食物連鎖」という宿命への意識であり、宮沢賢治がそれを引き受け言葉にのせたものである。「(ああ、かぶとむしや、たくさんの羽虫が、毎晩僕に殺される。そしてそのただ一つの僕がこんどは鷹に殺される。それがこんなにつらいのだ。ああ、つらい、つらい。僕はもう虫をたべないで植えて死のう。いやその前にもう鷹が僕を殺すだろう。いや、その前に、僕は遠くの遠くの空の向こうにいってしまおう。)」(引用:本文三十五頁)よだかはそう思い、夜空を何度も何度も昇ってゆき、そしてそのまま星になる。このよだかの決意と行動は、極めて純粋であり、悲痛であり、そして悲劇的である。また、このよだかの意識のありようは、『銀河鉄道の夜』のジョバンニのそれに通じ合うものを持っているのだ。またもうひとつ、この「食物連鎖」という宿命をテーマとした作品に、『なめとこ山の熊』がある。熊狩りの小十郎がある日殺そうとした熊に、「もう二年ばかり待ってくれ。二年目にはおまえの家の前でちゃんと死んでいてやるからと」頼まれる。そして二年後、本当に熊は小十郎の家の前で死んでいた。熊は熊で、小十郎を憎みもせず、この「食物連鎖」の世界に生きる命を理解しているのだ。小十郎は熊を殺した時、「熊。おれはてまえを憎くて殺したのでねえんだぞ。おれも商売ならてめえを射たなけぁならねえ。ほかの罪のねえ仕事していんだが畑はなし木はお上のものにきまったし里へ出ても誰も相手にしねえ。し方なしに猟師なんぞしるんだ。てめえも熊に生れたが因果ならおれもこんな商売が因果だ。やい。この次には熊なんぞに生れなよ。”」引用:本文八十九頁)という。これは小十郎の心の叫びだろう。自分の存在性に先述のよだかと同様苦悩している。その小十郎は自分が死ぬその時、ちらちら青い星のような光がそこらいちめんに見え、「これが死んだしるしだ。熊ども、ゆるせよ。」(引用:本文九十九頁)と思う。私達はもうずっと、パックに小分けにされた肉や、魚をたべているから、そのひとつひとつに命があることを忘れがちになっている。子供は私達以上にそのことを理解していないだろう。私達人間は、一回の食事にどれだけの命を奪っているのか、そしてその動物や植物のおかげで生きているということをもう一度見なおさなければならないだろう。子供がこの『よだかの星』と『なめとこ山の熊』という作品を読み、「食物連鎖」は全ての生きるものにとって避けられない宿命であるということを理解すると同時に、そのことは決して忘れてはならないことだということを学ぶきっかけとなる作品である。存在性について悩む子供も中にはいるかもしれない。そんな時、数え切れない犠牲の上に自分が生きているのだから、その命を無駄にしてはいけないということに気付かせるきっかけにもなるだろう。私達大人が読むともっと深く読みこんでしまうが、子供が読む時の賢治の作品はまた表情が違う。しかし、子供が読んでもこのメッセージは確実に子供に届くように描かれている点はさすがだとしか言いようがない。賢治の作品は、一概に死んでしまう側が可哀想とういう着眼ではなく、その外にも目が向けられる設定が多いので、子供はただ可哀想ということ以上に考えることができるだろう。それが賢治の作品の最も優れた所であると私は思う。

 

 

 

 第六章:現代社会の問題をテーマにした児童文学作品

 

 最後に、現代社会の問題を直接テーマにした作品を二つ見ていきたい。一つ目は、『ママ ぼくをうたないで』(能勢 理子/文・絵)という絵本である。この作品は、一九九四年十二月、アメリカのミシシッピ―州・ジャクソンという町で起きた、深夜クリスマスツリーをながめていた子どもを養母が強盗と間違えて撃ってしまったという実際の事件をもとにつくられた。 作者がこの本を書くことになった動機のひとつに、人が「拳銃を手にした瞬間、自分が加害者になるかもしれない」という可能性について考えてほしいということがあった。身を守ることも、もちろん大切だが、自分の身を守るために相手を攻撃する武器=拳銃をもつということは、自らの意志にかかわらず、逆に自分が“ひとごろし”になってしまう可能性をも同時に合わせ持つ、という事実がある。アメリカに限らず、近年日本も着実に銃による犯罪が増えていて、そのことに対する警鐘を鳴らす意味もあり、そして銃に限らず武器を持った時点で人を殺してしまう可能性があることをこの作品は伝えている。子供は幼さゆえに、人間がいかに脆いものか理解していない。実際に小学生による殺人事件のデータには、包丁、ゴルフクラブなどの凶器が使われているケースがいくつかある。力の弱い子供でも、武器を持つことで人を殺せるという事実を、子供自身が理解し、そして自分自身に警鐘を鳴らさねばならないという時代になってしまったといえる。この作品は子供に読み聞かせるには衝撃が強過ぎるという難点もあるが、それが現実の世界で起こった事という事実を子供に伝え、考えるきっかけを作る事も非常に重要だと私は考えた。

 もう一つの作品は、『ぼくらは海へ』(那須 正幹/作)という中学年以上対象の作品だ。この作品は一時、八十年代の問題作とまで言われた作品だが、この作品に学ぶ所は多いと思う。少年たちが塾と学校の間の時間を利用し、筏作りをする中で、ひとりの少年が嵐の日、筏を守ろうとして死んでしまう。それぞれの家庭内における苦悩の描写とともに、その少年の死に対しての反応が、現代社会の問題を浮き彫りにした作品だと私は感じた。死んでしまう少年は、働かない父の暴力と貧困に苦しんでいた。その彼の死に直面し、それぞれの反応はかなり冷たいものである。優等生で自尊心が高くリーダー役であった少年は、一時責任や後悔を感じるが、その直後、児童委員としての自らの立場を案じ始める。乱暴者の少年は、仲間の死に対し何の感情の揺れもなく、お腹が空いたから帰ったら何を食べようかという事を考え上の空である。嫌なことをはっきり言えない少年は泣きじゃくるが、その涙は自分がかわいそうだと、仲間の死によって不運が自分に回ってきたという意味のものだった。転勤族の少年は、あと少しで引越しだったのに、よりによって引越し寸前に死ななくてもいいじゃないかとつぶやく。そして、新しい町と新しい友達が待っているから、この町のいやなできごとなどきれいに忘れられるだろうと思う。

 この作品は、周囲の期待が子供に与えるプレッシャー、転勤による子供の精神への影響、学力偏重の社会の傷をありありと描いている。子供は適応能力が非常に優れているため、環境によって考え方や生き方が左右される。この作品中の少年達の反応はひどく冷たいもののように感じるが、それも全て周りが子供に教えてきたことなのかもしれない。確かにこの作品は、それぞれの反応が、被害者の少年に対して冷た過ぎるものではあるが、第三者の立場からこの少年達を眺め、自分がどう生きていくか、どういう人間でありたいのかということを子供に考えさせる力のある作品であろう。

 こうした現代社会の問題を浮きぼりにした作品には、従来の児童文学作品の道徳や概念を超えた表現や考えが描かれる。大人はこれを嫌い、子供には読ませたくないとか、児童文学に生々しい表現を使うなんて…と否定的に受け止めるが、見たくないものに目を向けない、臭いものには蓋というような考えは、もう払拭されるべき時代に来ているのかもしれない。美しい作品だけでは伝えられない事を、こういう作品が伝えている。あからさまな感情や表現を見ることによって、子供たちが考えなければならない暗い部分に光を当てることもまた、児童文学の役割なのだ。子供たちが自分で受け止め考える事で、こうした現代社会の問題を自分自身の力で乗り越えていく力をつけることもまた、子供に必要であると私は考える。

 

 

 

 結論

 

 児童文学における死の概念としていくつかの作品をそれぞれ見てきたが、全てに共通していえることは「死」を見つめる事で「生」を知り、考えるということだと私は思う。若い頃には、ましてそれが子供ともなると、「自分だけは死なないのではないか」という思いに駆られる事もあるだろう。彼らにとってまだ、死は遠いどこかにあり、自分以外の誰かの身の上に起こる不幸だという認識だ。とくに平和な現在の日本では、若くエネルギーに満ち溢れた者が、死を実感として引き寄せるのは難しいことだろう。死を見つめることなくして真の意味で生を知ることは不可能で、ならば、戦争中や、戦後の混乱期に若者であった人々に比べ、今の若者たちの感覚が幼いというの仕方のないことだという結論に至るのかもしれない。親が最後に子供にしてやれる教育は、自分が死ぬ事だという人もいるが、まさにその通りだろう。自分の大切な人が死ぬことで本当に正面から死を見つめ、考えるチャンスを与えられるのは親以外にない。しかしそれより先に教育で「死」について教えることができるのは文学以外に他ならないだろう。死について触れた児童文学を読み、自分にもやがて訪れる 死について考え、そしてどう生きていくかを考えることが子供が成長する上で最も重要な事であると私は思う。道徳的に生きるとか、自分を偽って生きるということではなく、こうした多くの児童文学作品に触れ、子供が真の意味で命の尊さを知り、自分の命を大切に思うことで、他者の命を重んじる事が出来るようになることこそが、今、増え続ける犯罪や子供の精神崩壊に歯止めをかける唯一の手立てとなると私は信じている。

 

 

 

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