よしもとばなな論
昼 〇一E一一〇三〇一三H 中島雅子
目次
(1)経歴
(2)よしもとばななと漫画
(3)作品の特徴
@文体の簡潔さ
A後味の良さ
Bトリップ感
C四つのキーワード
(1)『ムーンライト・シャドウ』
@作品概要
A「デス」について
B「オカルト」について
C柊の中性性
D時間の流れについて
(2)『High and dry(はつ恋)』
@作品概要
A「ラブ」について
B「ライフ」について
「よしもとばなな」、小説を普段読まない人でも聞いたことがある名前だろう。『キッチン』でデビュー後、刊行された単行本六冊すべてがベストセラーとなり、八九年には新聞や雑誌に〈ばなな現象〉として取り上げられた現代を代表する作家の一人である。
私がよしもとばななの作品を初めて読んだのは、高校三年生の夏である。その頃この大学の推薦入試を控え、有名な作品を中心にたくさんの本を読もうと手に取ったのが『キッチン』だった。話し言葉をそのまま書いたような簡単でわかりやすい文章にとても驚いた。それまで読んできたものは堅苦しく、飛ばし読みすることが多かった。その度にわからなくなり、前のページに戻って読むこともしょっちゅうだったが、これは戻らずに「まっすぐ進める」小説だった。「キッチン」は高く評価されていて話題にもなったが、それよりも単行本『キッチン』に収録されている「ムーンライト・シャドウ」に感銘を受けた。
それ以来、「よしもとばなな公式サイト」のよしもとばなな自身の日記を読むことが毎日の日課になった。作品だけでなく、彼女自身の考え方も共感する部分が多く、ますます興味が増した。
公式サイトのメールコーナー(質問などによしもとばななが答えてくれるというもの)を見ていると、若い女性からの投稿が多く、「つらい時や苦しい時によしもとばななの小説を読んで前に進むことができた」というような声の多さに驚かされる。なぜこれほど多くの人に受け入れられ、決して明るいとは言えないよしもとばななの小説が前に踏み出すきっかけを与えてくれるのか、その魅力を考察したい。
(1)経歴
吉本ばなな(本名:吉本真秀子)は一九六四年七月二四日、詩人・評論家である吉本隆明の次女として東京に生まれた。幼い頃は左目が弱視だったので、治療のために右目に眼帯をし、ほとんど目の見えない状態の時期があった。しかしこの体験がのちの作品に影響を与えることとなる。というのも、「その時、空想の世界にリアリティを感じなければ、こんなに感覚が敏感にならなかった」(『B級BANANA』より)からである。これは、吉本の作品に多く登場するオカルト的な出来事(幻覚や超常現象、予知夢など)を、リアルな現実として、日常感覚でごく自然に描く作風の元になっていると言えよう。
吉本が作家になろうと思ったのは五歳くらいからだったそうだ。絵がうまい姉(漫画家のハルノ宵子)に影響されて漫画家になりたい時期もあったようだが、姉には勝てないと思い「それなら私は文章だ」と自然に思うようになったという。
一九八七年に日本大学芸術学部文藝学科を卒業し、卒業制作の「ムーンライト・シャドウ」が芸術学部長賞を受賞する。同年十一月には、第6回海燕新人文学賞受賞作品の「キッチン」(八九年に映画化)でデビューし、『うたかた/サンクチュアリ』とともに芸術選奨新人賞を受賞する。また単行本『キッチン』に収録されている「ムーンライト・シャドウ」で第十六回泉鏡花賞、『TUGUMI―つぐみ―』で第二回山本周五郎賞を受賞する。この作品は出版から一年後、市川準監督によって映画化された。ストーリーはほぼ原作どおりだが、つぐみがつけヒゲをつけて町を歩くなどその強烈なキャラクターがさらに強調されている。その後も『哀しい予感』『白河夜船』『アムリタ』などを出版、ほとんどがベストセラーになる。海外では、九一年にイタリアで『キッチン』が刊行されたのを機に二十カ国以上で刊行され、その後も多くの作品が翻訳され出版されている。九三年にイタリアのスカンノ賞、九六年にはフェンディッシメ文学賞を受賞する。
私生活では、二〇〇〇年に結婚し子供が生まれる。その子供の名前を姓名判断で付ける際、自分の名前こそがよくないとわかり二〇〇二年出版の『王国』以後「吉本ばなな」から「よしもとばなな」に改名する。
この「ばなな」というユニークなペンネームは、アルバイト先の喫茶店で見たバナナの赤く巨大な花に惹かれて付けたのだという。外国人にとってもこの「BANANA」という名前はなじみやすく、後に海外でも多くの読者を獲得する一因となる。
最近の著作物には、「これが書けたので小説家になってよかった」という『デッドエンドの思い出』(二〇〇三年)や、『海のふた』(二〇〇四年)、『High and dry(はつ恋)』(二〇〇四年)、『なんくるない』(二〇〇四年)などがある。
(2)よしもとばななと漫画
よしもとばななの作品は、高橋源一郎氏をはじめとして、口語的な表現などから「少女漫画的な小説」と言われることが多い。確かに、よしもとばなな自身、漫画から受けた影響は大きいと語っている。先にも述べたように、幼少期ほとんど目の見えない時期があり、その後眼帯が取れた時に夢中になったのが『オバケのQ太郎』(藤子・F・不二雄)だった。その「あくまで日常に密着して起こる不思議な出来事、箱庭的世界観、はかない性、家族意識の強さ」(『吉本ばなな イエローページ』より)などが、ばななの作品にも反映されている。そのほかにも『怪物くん』や水木しげるの『ゲゲゲの鬼太郎』など、藤子・F・不二雄の言うところのSF(SUKOSHI FUSHIGIな物語)を好んだ。一方、手塚治虫のような、どこをとっても現実だけでリアリズム以外の何ものでもない作品は苦手とした。「この世はただでさえつらくて大変なのに、わざわざ作品にしてまでそんなこと書いてどうするんだという思いが常にあった」と『本日の、吉本ばなな』で話している。小学生になると、大島弓子の『ジョカへ・・・』や岩館真理子の『ふたりの童話』を熟読するようになる。これらの漫画に共通することは〈現実〉との闘争を描いていないことである。よしもとばななの作品も、たとえ対立があっても憎しみや暗さのある闘争はない。一人称で描かれているため、他の登場人物の考え方はある程度以上は入れられないという理由もあるが、対立や闘争に興味がないのはこれらの漫画の影響があると考えられる。この点について、松田良一氏は「吉本は仮想現実を体験するような快感を藤子不二雄のマンガから味わい、与えられた現実と荒々しく闘うことを避け、内面の重層的世界をソフトに描いた岩館真理子のマンガに惹かれた」と述べている。
小説をあまり読まなかったよしもとばななは、漫画以外にも映画や音楽から大きな影響を受けている。マニアックなほどに大好きなホラー映画からは、その裏に描かれた人間模様や心理的な圧縮だとか、作品の中の「オカルト」につながるようなものを。そして音楽からは、そこから思い描くことのできる「映像」のようなものを。作家というと、静かな別荘で黙々と書いているイメージだったが、よしもとばななは音楽を聴きながら小説を書いたりするくらい音楽に強い関心がある。【3 作品】で取り上げる二作品からもわかるように、作品のタイトルの元になったりと、その影響もまた大きいと言える。
(3)作品の特徴
初めてよしもとばななの作品を読んだ時、今までの作家とは違うと感じた。それは一体どういう違いなのか、作品の特徴を通して考えてみたい。
@文体の簡潔さ
『FRUITS BASKET』の中で干刈あがた氏は、『キッチン』を読んだとき「現実はすごい」とか「引越しはパワーだ」という、自分が知らないうちに避けてきた「小説では使っちゃいけない言葉とか表現」みたいなものに驚いたと言っている。松本孝幸氏は、このようなよしもとばななの小説を「フツー≠ニいう無意識」という言葉で表現し、次のように述べている。
吉本ばななの小説には、現代の「フツー(普通)」の無意識が加担していると思う。「フツー」に感じることを「フツー」に表現することが、鋭敏な感受性を持って凝りに凝った文章で描写することでかえって堅苦しくなってしまった既成の「文学」の表現上のタブーや枠組みを、鮮やかに打ち破ってしまったのだ。(『吉本ばなな論』より)
松本氏が言う「表現上のタブー」というのは、私たちが国語の時間に文章を書く際よく言われてきた「面白かった」とかそういう抽象的な言葉やくだけた表現など、使っちゃ「いけない」もののことだ。その「いけない」は、よしもとばなな作品においては存在しないのだと思う。よしもとばななにとって小説を書くということは、そういったタブーを気にしながら構えて表現することではなく、日常を切り取るのに近い気がする。例えば景色や部屋の描写を読んでいると、私は、超能力者の力を借りて行方不明者を探す番組を思い出す。超能力者が行方不明者につながる景色を語る時の、大雑把だけど目の前にその風景が浮かぶような臨場感と、普通の人なら一番最初に目がいきそうな点がところどころ抜けている感じに似ている。このことは清田益章氏が「念写」と表現している。よしもとばななは、小説を書く際の手順として「映像があって、それを文章に訳す感じ」(公式サイトより)と説明しているので、「念写」のように感じるのは当然かもしれない。
「フツー≠ニいう無意識においては、表現と日常が別の時間ではない」という松本氏の言葉は、よしもとばななのこういった描写の仕方や表現から理解することができる。文学的な表現ではなく、日常をそのまま切り取ったような表現なので私たちはひっかかることなくすっと読める。だからあっという間に一冊読めて気持ちがいい。その点について平田俊子氏は、「わりと短めだという物理的な理由と小説の進むべき距離と方向を作者自身がちゃんと心得ていて見晴らしがいいからだ」と指摘している。
よしもとばななはあるインタビューで、自分の小説が世界的に受け入れられたことについて「結局、どこの国でだれが読んでもわかるってことでしょう。そのためにこちらもあらゆる手段を尽くして小説の世界を作り上げている。日本人の特定のグループにしかわからないもの、というのが一番嫌い」(『読売新聞』より)と語っている。このことについて、木股和史氏は〈低く飛ぶ〉、松本孝幸氏は〈まなざしは低く、志は高く〉という表現で、よしもとばなな自身が自らに課している方法を指摘している。よしもとばななは小説を人一倍読んでその書き方を学んだというわけではないので、「簡潔に描く」ということは比較的容易なのかもしれない。しかし、父・吉本隆明の影響も少なからずあるだろうし、もっと「文学的」に書けるところをあえて誰でもが理解できるよう意識的に簡潔な描写をしていると言える。以前、「字を読み始めた人でもわかるように、ということを心がけて書いている」と言っていたことがあるが、実際読者は『キッチン』刊行時に中学生でよしもと作品にはまった人や、今も、若い年齢層が多い。また、日本語を学ぶ外国人にとっても読みやすく理解しやすい日本語で、その現代的なストーリーも日本文化を映すポップカルチャーとしての役割があることは頷ける。
A後味の良さ
よしもとばななの小説は、読んだ後の後味がいい。エッセイ『FRUITS BASKET』でよしもとばななは、小説を書く基本的な願いが自分にはあって、一つは「読んで気持ちがいいもの」を書きたいと言い、そのためには「とにかく終わりは感動的にしたい」と言う。二つ目には、超能力者とか、そういう歪んでしまった人が出てくる分、主人公はどんな極限状態になっても、意地でも人間らしいことをこころがけていること。そして三つ目には、普通の生活では人を恨むとか、好きとか嫌いとか、またお金のこととか雑多なことがたくさんあるけれど、そうしたことに自分はまったく興味がなく、それとはちがったことを小説で書きたいと言う。
一つ目の「読んでいて気持ちがいいもの」についてだが、たしかによしもとばななの作品は気持ちよく読める。死など決して明るいとは言えないストーリーでも最後は感動的で、作中の登場人物にも、読者の私たちにも人生の深みを与えてくれるような気がする。この死を扱っていながらも読者を暗い気分にさせない理由≠ヘ、次の【Bトリップ感】と【3 作品/(1)『ムーンライト・シャドウ』のA「デス」について】で詳しく述べる。
二つ目の「主人公が人間らしいこと」も三つ目の「雑多なこと以外を書く」ということも、「読んでいて気持ちがいい」理由である。よしもとばななの作品に登場する人たちの中に、悪い人というのはいない。みんなほどよく節度をわきまえていて、自分の感情や考えを他人に押し付けたりはしないし、家族や恋人であっても必要以上に馴れ合わない。よしもとばななの初期の作品に特に多い「親しい人の死」のような極限状態でも、自暴自棄になったりせず、耐える時には耐え、誰かに頼りすぎたりしない。周りの人に支えられながらも芯のところでは自分をしっかり持ち、必死に問題に向き合うような強さがある。そして、人を本気で恨んで嫌ったりといった人間関係のどろどろが出てこないので、読んでいて嫌な気持ちにならないのが作品の魅力だろう。
Bトリップ感
よしもとばななは『B級BANANA』の中で、小説を書くときに心がけているものはトリップ感だと答えている。主人公たちが苦悩から抜け出すのは周りの現実が変わったからではない。日常を見つめるまなざしが変わったのだ。そのきっかけになるのが「トリップ」である。やはり人間は外的な要素なしには変われない。このことに関して松田良一氏は、次のように分析している。
吉本ばななの小説が新しく感じるのは、彼女の小説が目指しているものがそれまでの小説といくらかちがうからだ。たとえば、従来のリアリズム小説は、人生上の課題と闘う人間の姿を繰り返し描いてきた。失恋、親子の対決、病気、死、貧乏、家庭の崩壊、または家庭の再生、社会との相克などを素材に人間の生きる姿を見つめてきた。作中人物がそうした課題にぶつかってもがき、苦しみ、そして作品の最後でそれなりに彼らが内的に成長し前を進むのを見て、読者はカタルシスを得る。
しかし、吉本ばななが描くのは、そうした重い課題ではない。いうならば、一種の〈トリップ感覚〉である。心の傷を負った人が、何かをキッカケにして、世界がそれまでとちがって見えてくる。その風景の中で傷ついた心が洗われてよみがえってゆく。つまり、吉本ばななは「悲しい場」から「優しい気分となる場」「愛に満ちた気分でいられる場」へトリップする感覚を描く。
よしもとばななの作品の中で、見方・考え方を変えるキッカケである「トリップ感」とは、「オカルト」を指すと言える。つまり、現実的な日常ではなく「非日常」である。これは全く新しい描き方ではなくて、今までの文学作品にもいくつか見ることができる。例えば『銀河鉄道の夜』(宮沢賢治)には、現実の体験ではなく幻想的な体験によって、ジョバンニがほんとうの幸≠だんだんと意識するようになる、という心の変化が描かれている。
この「トリップ感」は、よしもとばなな作品の大きな特徴である「死などの重いテーマを明るく軽く書く」ための方法でもある。作品の中に晴れ晴れとした明るさはないのに、読み終わった後「しこり」みたいな暗さは不思議と残らない。それは、作品中の暗く重い日常に、「オカルト」という非日常が導入されて描かれることによって、その暗さや重さが緩和されるからだと考えられる。
このことは作品の中だけに言えることではなく、読者もよしもとばななの小説を通し、作品の「非日常」空間に「トリップ」することで、日常の悩みや苦しみが緩和されているのではないだろうか。
C四つのキーワード
『吉本ばなな自選選集』全四巻のタイトルにもなっているテーマに、「オカルト」、「ラブ」、「デス」、「ライフ」がある。この選集のくくり方や目次はよしもとばなな自身が決めたものである。よしもとばななの作品にはそれぞれ明確に印がついていて、それを四つに分類して表すとこの「オカルト」「ラブ」「デス」「ライフ」になる。それぞれの巻に収録されている作品を次に挙げる。
『一 オカルト』新潮社(二〇〇〇年十一月)
「アムリタ」(一九九四)、「ある体験」(一九八九)、「血と水」(一九九一)、「ハードボイルド」(一九九九)、「血の色」(書き下ろし)
『二 ラブ』新潮社(二〇〇〇年十二月)
「白河夜船」(一九八九)、「ハチ公の最後の恋人」(一九九四)、「ハネムーン」(一九九七)、「大川端奇譚」(一九九三)、「ミイラ」(二〇〇〇)、「バブーシュカ」(書き下ろし)
『三 デス』新潮社(二〇〇一年一月)
「キッチン」(一九八八)、「満月―キッチン2」(一九八八)、「ムーンライト・シャドウ」(一九八七)、「N・P」(一九
九〇)、「ハードラック」(一九九九)、「野菜スープ」(書き下ろし)
『四 ライフ』新潮社(二〇〇一年二月)
「TUGUMI」(一九八九)、「とかげ」(一九九三)、「おやじの味」(二〇〇〇)、「新婚さん」(一九九一)、「ひな菊の人生」(二〇〇〇)、「哀しい予感」(一九八八)、「ある光」(書き下ろし)
この四つのキーワードは、よしもとばなな作品を考察する上でとても重要なものである。身近な人の突然の死、つまり「デス」は、特に初期の作品に多く見られた。そして、ほとんどの作品に見られる「オカルト」は、これまでの文学作品のように日常とは全くかけ離れた世界ではなく、日常の一部として描かれているという点で興味深い。私たちは「オカルト」というと、どうしても霊的なおどろおどろしいものや宗教的な恐ろしいものを想像してしまいがちだが、よしもとばなな作品の「オカルト」には、超能力や超常現象から、見えないものを見る力、さらには夢といった日常的なものまでもが含めれている。「新興宗教やUFO、霊界現象、スプーン曲げなどの世界」(『山田詠美 愛の世界』より)のように「人間社会と対置し、非日常的な感覚を売り物にし、それらを特殊能力の誇示、異次元世界の存在証明、科学批判、現実批判の手立て」にするのではなく、「人間世界の内側で起こる」現実として表現していることに、よしもとばなな作品の「オカルト」の特徴がある。読者がその「オカルト」の場面で興ざめせずに自然と受け入れられる理由は、よしもとばななの描く超能力を持った人々がその力を誇示しないこと、周りの人々もそれを自然に受け入れている、というところにあるのかもしれない。
次の章では、「デス」「オカルト」について『ムーンライト・シャドウ』を、「ラブ」「ライフ」については『High and dry(はつ恋)』を通して考えてみたい。
(1)『ムーンライト・シャドウ』
@作品概要
マイク・オールドフィールドの同名の曲がこの作品の原型になっていて、彼女が最後に彼を見たのは、「月の影」へと連れ去られてゆくその姿≠ニいう歌詞が「ムーンライト・シャドウ」というタイトルの由来である。この歌は銃で撃たれて死んだ彼が川辺に姿を現し、そして消えていくというもの。よしもとばななの作品の中では、死んだ彼が川辺(橋)に姿を現すのは早朝になっていて、「月の影」という時間帯は彼を亡くす時間として描かれている。
よしもとばななの処女作であり、「死んだ人間に会う」というオカルトめいた点や親密な他者の死、大切な人を亡くす苦しみといったモチーフはよしもと作品の原点とも言えるだろう。自選集では『デス』に収められているが、そのほかの三つのキーワード(「オカルト」色が強く、さつきと等の「ラブ」、大切な人を亡くすという「ライフ」)も見ることができる作品である。あらすじは以下のようなものだ。
さつきは「死ぬほど愛していた」恋人・等を突然の交通事故で亡くし、等の弟・柊は同じ事故で兄と恋人のゆみこをいっぺんに亡くした。二人は恋人の死という、「人によっては一生に一度もしなくていいこと」を経験してしまい、もがき苦しむ。その苦しみを、さつきは早朝のジョギング、柊はゆみこの制服を着ることでなんとか紛らわせようといている。ある朝、さつきはジョギングの折り返し地点の橋で不思議な女性・うららに出会う。突然うららに声をかけられたさつきは、いつも橋に着いたら飲む熱いお茶の入った水筒を落としてしまう。手元に残ったふたに入っているお茶をうららにふるまうと、彼女はそこで起こるであろう「百年に一度の見もの」について暗示的に語る。ある日の真昼、さつきの電話番号を知らないはずのうららから電話があり、百貨店の水筒売り場に呼び出される。風邪で体調が悪いさつきだったが、出掛けていくとうららは代わりの水筒を買ってくれ、あさっての朝あの橋である種のかげろうが見えるかもしれないと言う。さつきの風邪は悪化し、その夜もまた等の夢を見る。さつきは「なんだかとてつもなく巨大なものと戦っているような気」がして、自分は負けるかもしれないと生まれて初めて思う。そこへうららが訪ねてきて「今が一番つらいんだよ。死ぬよりつらいかもね。でも、これ以上のつらさは多分ないんだよ。」という含みのある言葉をかけて帰っていく。何かが見えるという朝、さつきがあの橋に行くとうららがいて「声を出したり橋を渡らないで」と忠告する。やがてその時が来ると、さつきが以前なんの気なしに等にあげた思い出の鈴の音が聞こえてきた。橋の川向こうには等がいて、ただ見つめ合うことしかできない。そして等は、笑って何度も手を振って消えていった。この現象をうららは死んだ人の残留した思念と、残された者の悲しみがうまく反応した時にああいうかげろうになって見える=u七夕現象」だと言った。柊も同じ時、部屋に入ってきて制服を持ち去っていくゆみこを見た。
「あの幼い私の面影だけが、いつもあなたのそばにいることを、切に祈る。
手を振ってくれて、ありがとう。何度も、何度も手を振ってくれたこと、ありがとう。」
そうして、さつきは新しい始まりへと歩き出す。
A「デス」について
「死」はよしもとばななの作品の多くで扱われており、四つのキーワードの中でも作者が最も関心を持っていることだと言える。よしもとばななは、自分がほとんど病的に親しい人やペットの死を恐れているところがあると告白したことがある。楽しい時間を一緒に過ごしていても、その人、その子(ペット)がいつかいなくなってしまうのだと思うと、「その時がきたら、今のことを思い出して悲しくなるから」と、少し引いてしまうという言葉が印象的だった。それなのに、なぜこんなにも死を扱うのだろうか。それは死がどうしても避けられない身近なことであり、残された者がそれをどう乗り越えていくのかに興味があるからだという。
よしもとばななの作品には事故死や自殺が多く病死が少ないのが特徴で、その人が亡くなるという心の準備ができない分、周囲の人たちの喪失感は大きい。「死っていうのは死んだ人間の問題ではなくて生きている人間の問題だ」(『吉本隆明×吉本ばなな』より)とよしもとばななは言う。それゆえ、死までの過程や死の場面をテーマに描くことはない。例えば『キッチン』で、唯一の肉親が亡くす場面を「先日、なんと祖母が死んでしまった。びっくりした。」の二文で表しているように、あっけないほどにあっさりと死んでしまい、そこから残された者たちの苦悩を中心に話は進んでいく。
よしもとばななは『キッチン』のあとがきでこう書いている。
「克服と成長は個人の魂の記録であり、希望や可能性のすべてだと私は思っています。」と。
つまり、近親者の死のような苦しみは、周りの者を成長させ、生きるということの希望や可能性をより実感させるということだ。他人の死を通して自分の人生も限りあるものだと改めて実感し、無駄にはできないと気づく≠ニいう成長を、読者も作品を読むことで疑似体験する。そうすることで、この世の中には嫌な事がたくさんあるけれど、生きることはそう悪いことじゃない≠ニいうよしもとばななのメッセージが伝わってくるような気がする。そこが、死という重いモチーフを扱いながらも読み終わった後希望のようなものが湧いてくる一つの原因だと思う。
B「オカルト」について
この作品でオカルトとして挙げられるのは、「七夕現象」とうららの存在である。
まずは「七夕現象」について考えてみたい。この出来事は、さつきが等のいない「今」に留まらずに未来へと歩み始めるきっかけとして登場する。この現象の前にさつきは風邪をひき、よしもとばななが言うところの「『これはまずいな』というときに考える死って、ふつうにピンピンしてる時に考える死と全然違う」(『日々の考え』より)状態になる。うららが風邪のお見舞いにやって来た時に言った、「今が一番つらいんだよ」という含みのある言葉からわかるように、風邪の苦しみは等のいない苦しみとも重なる。そのため、この風邪はさつきに改めて等を亡くしたことを痛感させ、その「死」を今までより近くに感じさせるきっかけとなる。だからこそ、そのあまりの辛さに「自分は負けるかもしれない」と生まれて初めて思うのだ。しかし、等の姿をしたかげろうによって、自分と等は決定的に橋の向こうとこっち(死と生)に分けられてしまっていることに気づき、止められない時間の流れを切なく思いながらも前に進むことを決心させる重要な場面である。「死者と再会する」という、一歩間違えば現実味がなく読者を興ざめさせてしまうような場面だが、ここの場面に至るまでの間に読者は、さつきがどれほど等を亡くして辛いかを知り、さつきの想いの強さが伝わってくるからこそすんなりと受け入れることができる。また、この七夕現象が「いつもの朝のマラソンコース」と「朝一番のドーナツショップ」というリアルな現実にはさまれて描かれることで、現実とかけ離れた出来事ではなく、現実の一部として地続きに受け止めることができるのである。
次にうららの存在についてだが、電話番号を教えていないのに電話をかけてきたり家に訪ねて来るなど、不思議(オカルト的)な力を持った人物である。その登場の場面から普通とは違う存在であることがうかがえる。
自分よりも歳上だということはわかったが、なぜだか歳は見当もつかなかった。しいていえば二十五くらい……短い髪にとても澄んだ大きい瞳をしていた。薄着に白いコートをはおり、少しも寒さを感じないようにさりげなく、本当にいつの間にか彼女はそこに立っていた。
「歳は見当もつか」ず、空気がしんと冷えているほどの時期に「少しも寒さを感じない」で、「いつの間にか」いるという彼女の存在は人間味がなく、七夕現象をさつきに教えるために異次元から来たような感じさえする。この「うらら」という春を思い起こさせる名前も、七夕現象を境にして、さつきに等を亡くした季節冬≠抜け出させることを暗示するようだ。
七夕現象を教える以外にも、うららにはもう一つ重要な役割がある。彼女もまた大切な恋人を亡くしていて、七夕現象を通してもう一度その彼に会うため、さつきの住む町へやって来た。つまり、「大切な人を失う」という同じ境遇によって、さつきと悲しみを共有し支えている柊と同様の役割があると言える。この七夕現象がさつきを変えるきっかけになったのは明らかだが、苦しみから抜け出せたのはうららと柊の支え≠ニいう下地があったからだ。
C柊の中性性
オカルトではないが、もう一つこの作品に奇抜な印象を与えているのは、セーラー服を着た柊の存在である。なぜ、柊は「死人は戻らないし、モノはモノだ」と言いながらも亡くなったゆみこの制服を着るのか。柊は、兄・等が「あんまりにもあいつ変わってるから」、「会ったら、なんか俺まで嫌われそう」と、さつきと会わせるのを一瞬躊躇したくらいの弟である。だから、さつきにとっての「ジョギング」は柊にとってそのくらい個性的でないといけないのかもしれない。その点をさつきも、「今はよくわかる。彼のセーラー服は私のジョギングだ。全く同じ役割なのだ。私は彼ほど変わり者でないので、ジョギングで充分だっただけのことだと思う。彼はそのくらいではインパクトに欠けて自分を支えるのにはもの足りないのでバリエーションとしてセーラー服を選んだ。どちらもしぼんだ心にはりを持たせる手段にすぎない。気をまぎらわせて時間をかせいでいるのだ。」と言っている。また、もう一つの理由として、さつきとの間に性的な要素のない精神的な関係を築くために、中性的な存在になっているとも考えられる。このような役割や性別の入れ替えは、よしもとばななの作品ではそう珍しくない。よしもとばななは村上龍との対談(「「76」から「88」へ」『FRUITS BASKET』)の中で、『キッチン』に登場する「えりこさん」(唯一の肉親を亡くして一人ぼっちになったみかげを引き取ってくれたうちのお母さん。実はおかまでお父さん。)は、初め本当に女のお母さんだったと言っている。しかし、それだと二人の会話が女の子と姑のような、何を話しても裏がありそうな生々しいものになってしまうし、お父さんだと男二人とみかげの生活が性的ないやらしいものになってしまいそうなので「じゃあ男のお母さんにしちゃえ」ということで「えりこさん」が生まれたと明かしている。よって『ムーンライト・シャドウ』に関しても、さつきとの性的な関係を避けるために柊が中性的でなければならない、ということは十分に考えられる。こんなふうに男だとか女だとかにこだわらずに、自由に書いてしまうところもよしもとばなな作品の魅力だと言える。
D時間の流れについて
この作品からは、特に「時間の流れ」に逆らえない苦しみのようなものを感じる。さつきは等を失った苦しみからいつか抜け出せる日がくることを望む一方で、等を真昼に思い出しても泣かずにいられるようになったことを悲しんでいる。以下、「時間の流れ」が感じられるところを抜き出してみる。
生命にあふれ出すきれいな光景の中で、私の心は冬枯れの街や、夜明けの川原を恋しく思う。このまま、こわれてしまいたいと思う。
真昼にこうしてふと思い出しても、泣かずにいられるようになったことが、妙にむなしい。果てしなく遠い彼が、ますます遠くへ行ってしまうように思える。
等。私はもうここにはいられない。刻々と足を進める。それは止めることのできない時間の流れだから、仕方ない。
このように、苦しみからいつか抜け出せる、そのいつか≠ェ来るのを切望しながらも、そんな「時の流れ」を切なく想っているような箇所がいくつかある。さつきが精神的に楽になるいつか≠ヘ、等がもっともっと遠い場所に行く≠アとや等がいないことが当たり前になる≠アとを意味するからだ。それは、ただ淋しいということだけではなくて、忘れる罪悪感のようなものもあるのかもしれない。よしもとばななは、昔から物事が止まらないで流れていく不思議な感じを書きたかったのだと言う。
例えば誰かが死ぬみたいなすごいことがあっても〈その時〉にはずっといないわけだから。(中略)その時間が流れてしまう≠ニいうことを、私は全然素晴らしいことだと思っていない。まあ、ある意味では素晴らしいと思ってるんだけど、『なんで流れていくんだ』という感じがいつも基本にあるですよね。その辛さは、自分がどういうわけかベースに持ってるものなんですよ。その、なんか納得いかない感じをすごく小さい時から持っていて、そこに動物が死ぬ(注: よしもとばななは幼い頃からたくさんの動物を飼っている)とかいろんな体験がつけ加わって、ひとつの確立された思想ができるわけですよ、きっと。だから、どの小説もそのことしか書いていないし。(『日々の考え』より)
ペットを失った悲しみはまた次のペットを飼うことでしか癒されないし、親が死んでしまう悲しみを薄めるために人は子供を産む、とよしもとばななは考えている。それはある意味悲しみの連鎖で、ペットについて言えば飼わなければ経験しなくてすんだ悲しみだけれども、それはきっと無駄なことではないし、時間が流れていってしまうから仕方ないのだ。そういう連鎖を繰り返させる「時間の流れ」に対してよしもとばななは不思議な感じを抱き、その連鎖を止められないことへの悲しみがあるのだと思う。
(2)『High and dry(はつ恋)』
@作品概要
よしもとばなな自身も「私には珍しく、とても幸せな小説を書いた」と言うくらい、今までの作品とは異なっている。十四歳の少女が初めて恋をするという内容で、よしもとのテーマで分類すれば「ラブ」に当たる。しかし、夕子とキュウくんやそのお母さんは不思議な生き物が見えたりと、超自然的なある種の「オカルト」も含まれていると言っていいだろう。まずはあらすじを紹介する。
十四歳の夕子は、道で半透明な人(この世にいない人)が見えたり、極小の蜂だとかありえない生き物を見たりする不思議な力がある。けれど、お母さんがその力を深刻に心配したりしないでくれたおかげで、自分が変なのではないかと思わずにすんでいた。お父さんは経営するアンティーク雑貨店の買い付けに忙しく、ほとんどをアメリカで過ごしている。母子家庭のような状態の中で、このままお父さんとお母さんが別れてしまうのではないかと夕子は不安に思っている。そんな時、日常の中で唯一がんばって通っていた絵画教室で久倉先生(キュウくん)と出会う。ある秋の午後、二人は月下美人の植木のわきから小さな人間が走り出ていくのを目撃する。この奇跡みたいな出来事をキュウくんと共有したのをきっかけに、夕子はキュウくんに初恋をする。先生と生徒、離れすぎた年の差、キュウくんの気持ちが定まらないことから、二人は恋人として付き合うのでもなくたまに会う関係を続ける。そして、キュウくんとそのお母さんとの関係などを通して、夕子はお父さんの不在という悩みも考え方次第だということに気がつく。キュウくんも夕子に出会ったことで無くしそうになっていた大事なものを取り戻すことができ、二人の気持ちは通じ合う。
A「ラブ」について
よしもとばななは『日々の考え』の中で「ラブ」を描くのは苦手だと言っている。恋愛している時の切ない気持ちを長引かせることや、思いつめて「グッとなってる感じ」が重くて苦手なのだという。つまり、よしもとばなな自身が恋愛のどろどろした部分(浮気を疑うとか)や相手にのめりこんでいる状態が嫌いで、自分はそうならないようにしているから、そういった普通の恋愛にはありがちな内容の恋愛小説を書くことに苦手意識があるのかもしれない。しかし、だからといって冷めた恋愛を描いているわけではない。
小説に書くときは「この恋愛は至上の恋愛だ」という気持ちで書かなきゃだめでしょう。少なくとも小説の中で恋愛してる者同士はそう思ってないと。私の書き方だったら、一人称だから主人公が「もうこれは最後の恋愛だ」と思っているようなことを書かないと、あんまり意味がない。・・・・・グッと思いつめてる状態を書かないとつまらないかな、とまずひとつ思うんですけど。ただ、なかなかそのグッと≠ワでいくテーマがないなっていうのが苦手な理由のひとつ。(『日々の日記』より)
このように、「『もうこれは最後の恋愛だ』と思っているようなことを書かないと、あんまり意味がない」と言っているが、この『High and dry』ではそうではなさそうところが見受けられる。例えば、夕子の次のような言葉だ。
そう、だって、今のままいられるわけがないもの、と私も時々思う。そして、この気持ちが、何か現実的なものに結びつくはずがないのだ。結婚とか、なんとか、そういうものに。いつか木の実が落ちるように終わってしまう日が来る。どんなすてきなことでも変わっていく。
十四歳だとは、その上初恋だとは思えないほど冷静に、恋の終わりを予感している。しかしその一方で、キュウくんを好きになりすぎて「後戻りができないくらいになってしま」い、「心配なくらい」でもある。そして、初恋の相手のキュウくんもこんな風に言う場面がある。
君にはわからないよ。僕はいつでも、君に好かれている自信なんかもてないから、絶対に離れていくといつでも感じているから。ほんとうの僕に失望して、『夕子命!』みたいな奴とつきあうんだろう、そうしたら僕はさぞかししょげるだろう、と想像してしまうんだ。
まだ夕子のことを完全に好きになってはいない段階でのこの言葉は、初めから別れを予感して距離を置いているように感じる。別れを予感している時点で、若いキュウくんにとって夕子は「最後」じゃないということになってしまうが、真剣に想ってくれていることは伝わってくる。二人のこれらの言葉は、「最後の恋愛だ」という想いには結びつかない気もするが、恋愛は遊びではなく真剣じゃないと意味がないというよしもとの考えが反映されていると言える。
キュウくんが言った「絶対に離れていく」という言葉は、この本のタイトル「High and dry」の元になっていると考えられる。このタイトルはイギリス・オックスフォード出身の五人組バンド・Radioheadの同名の曲からきている。High and dry≠ノは船が岸に乗り上げた≠ニいう意味があり、見捨てる≠ニ訳される。サビの「Don’t leave me high,don’t leave me dry」(highとdryが分けられているが、どちらも僕を見捨てないで≠ニいうような意味) は、この場面のキュウくんの言葉を思い起こさせる。
もう一つ、よしもとばななが「ラブ」を描くのが苦手な理由として次のように述べている。
私が書きたいのは、この世全般の生命力についてであって、男女が恋愛をして盛り上がったというようなこととは別ジャンルなんですよ。たぶん、恋愛を中心に書きたいと思っているほかの作家の方は「恋愛をした自分を通して、この世に流れている生命力を感じたことであるよ」というのを書きたいんだと思うんだけど、私にとっては厳然と違うように見えるから、人間同士の恋愛が生命の神秘を描く窓口にどうしてもなりえない。それも苦手の原因じゃないかな。(『日々の考え』より)
性的なもの≠ヘ「生命力」「生命の神秘」(ライフ)の中に含まれていて、恋愛(ラブ)の中にあるのではないということだ。つまり、よしもとばななにとっては恋愛と性的なものは延長線上になくて、それらを通して何かを伝えたいという思いがないから苦手なのだ。このことについては次の【Bライフについて】で詳しく述べる。
B「ライフ」について
前で述べたように、よしもとばななは恋愛と性的なものは結びつかない≠ニいう独特な考えを持っている。これは『キッチン』の頃から批評家によって指摘されてきたことだが、よしもとばななの小説には描くことを避けているかのように男女の性的な描写がほとんど出てこない。この考えは、『不倫と南米』(二〇〇〇年・幻冬舎)の取材旅行で南米を訪れてからさらに強くなった。南米ではこの世のすべての衝動が性的なものから来ている≠ニいうことがすごく理解でき、性的なものは生命力そのもので、男女の恋愛はそれとは違うもののような気がしたという。そういった意味では、自選集『ラブ』に収められている作品も恋愛≠ニいうよりは生命力=Aつまり「ライフ」を扱っていると言える。
『High and dry(はつ恋)』も一見少女の初恋を描いた恋愛小説のようだが、実は、親がする小さいことや小さい不仲や、ちょっとした息抜きとしての別居などが、子供には大きくのしかかるさまを描きたかったのだという。だからこそ、主人公は「親のすることの影響を受ける最後の時期である」とよしもとばななが考える十四歳≠ナなければならなかった。その大きくのしかかったものを、お父さんがそばにいないという状況を変えるのではなく、自分の考え方をアメリカでの生活がお父さんの日常で、私はもうその中にいないから悲しいのではなく、私中心の状況でないという幼い気持ちをお父さんの不在に重ね合わせて大げさに悲しんでいただけなのだ≠ニ変えることで乗り越える。それには、考え方を成長させてくれる大人との交流が必要である。そのために、年の離れたキュウくんとの恋愛が副題として描かれているのではないだろうか。
今の人たちはとにかく疲れすぎていて不眠や拒食に陥ったり、新興宗教に走ったり、あるいは過度な健康を期待したり。心身のいろんな不健康さを改善する役に立ちたい。作家の社会的責任、使命感みたいなものは常に意識しています。日常生活では決して繋がれない、疲れ切った人たちを、せめて本の中では一体でいたいし、どこもでも面倒をみてあげたい。(『読売新聞』より)
これは『とかげ』という作品のテーマ、「癒し」についてよしもとばななが語った言葉である。この作品に限らず、よしもとばななの作品は全て、読者である私たちの生活や心の奥を見据えて描かれているような気がする。弱視だった幼い頃のことを聞くインタビューでの、「そのときにオバQなどに助けられなっかたら、世の中のつらい人に、私が創作した人物がなにかできるかも、というこういう性分はなかったかもしれない」という言葉からもわかるように、常に「自分の小説が少しでも何かを与えられるように」との想いを込めて描いているのだろう。だからこそ、よしもとの小説は重いテーマを扱っていても温かい余韻を残していて、読んだあと「気持ちがいい」よう意識的に作られている。少なくとも彼女の小説を読んでいる間だけは、日常の雑多なことから離れるトリップ感を味わうことができる。それが、読者に前へ進むきっかけのようなものを与えてくれる理由ではないだろうか。
『B級BANANA』の中で、よしもとばななは「流れゆく時代の中で小説を書く」ということについて次のように語っている。
――昔を懐かしがっても懐かしがりすぎることがないくらい、何もかもが速く変わってゆくだろう。
私は思ったことしか書けない。
でもそれが時代とずれていってしまうという心配はなぜかない。自分がとことんかっこ悪いことをしてしまうという危惧もない。うまく生き延びられると思うし、やりたいこともある。私自身も変わり続けるし。
こういう時代に生きてものを書くなら、何か、大きいことがしたい。見た目は小さくてもひそかに巨大なことが。
『アムリタ』(一九九四年刊行)以前を「第一期吉本ばなな」と自ら言っているように、よしもとばななの作品は流れる水のように変化し続けている。『アムリタ』刊行の一年後にカルト教団について書き始めた作品『ハネムーン』(一九九七年・中央公論社)は、執筆中に起きた地下鉄サリン事件に大きな衝撃を受けて描き方が変えられ、三年かかってようやく出来上がった。この時期は、このオウムの事件と阪神淡路大震災がよしもとばななに多大な影響を与えたのだと言える。今までは周りからの依頼に応えるため、あまりじっくりは考えずに小説を生み出してきたそうだが、この二つの事件をきっかけに自分のペースで創作活動をするようになったという。その結果、よしもとばななは「書きたいもの」が書ける状態に近づいた。そういう意味で「第一期吉本ばなな」は終わったが、書き方が変わったのであって、今までのテーマが全く変わってしまったわけではない。書きたいものというのはずっと一貫していて、それを深く掘り下げて書くことが「第二期よしもとばなな」の、自身に課した課題のようだ。(→資料1)
時代背景、また自身の年齢や経験によって、よしもとばななの書きたいもはどんどん変わっていくだろう。しかし、ただでさえ嫌なこともたくさんあるこの世の中で、小説でまで同じような世界を描くことはない≠ニいうよしもとばななの考え方のもとでなら、彼女の小説は常にその時代を生きる私たちに明るい何かを与え続けてくれるだろう。
(四〇〇字詰原稿用紙四十五枚分)
参考文献
吉本ばなな『キッチン』福武文庫(一九九一・七)
よしもとばなな『High and dry(はつ恋)』文藝春秋(二〇〇四・七)
松本孝幸『吉本ばなな論』JICC出版局(一九九一・七)
banana yoshimoto at work,2001『本日の、吉本ばなな』新潮社(二〇〇一・七)
木股和史『吉本ばなな イエローページ』荒地出版社(一九九九・七)
松田良一『山田詠美 愛の世界 ―マンガ・恋愛・吉本ばなな』東京書籍(一九九九・十一)
平田俊子「大ざっぱに見た吉本ばなな」『国文学 解釈と教材の研究』学燈社・第39巻・3号(一九九四・二)
吉本ばなな『FRUITS BASKET』福武文庫(一九九三・四)
吉本ばなな『B級BANANA』福武文庫(一九九五・三)
対談集『吉本隆明×吉本ばなな』ロッキング・オン(一九九七・二)
「常に時代と接し常に作家を意識」『読売新聞』大阪本社版一九九三・六・一
「吉本ばななさんに聞く」『読売新聞』東京夕刊一九九三・五・十三
『よしもとばなな公式サイト』http://www.yoshimotobanana.com/jp/index.html
資料1 モチーフから見たばなな作品の流れ(注: 作品全てではなく、主に単行本から代表的なもの)
注: 役割の入れ替え・・・叔母だと思っていたら姉だったとか。/拡張する家族: 血縁関係のないつながり。
