札幌(名作のふるさと)
渡 部 芳 紀
北大植物園

有島武郎は、「北海道についての印象」で
<私は前後十二年北海道で過ごした。而かも私の
生活としては一番大事と思はれる時期を
、最初の時は十九から二十三までゐた。
二度目の時は三十から三十七までゐた。
それだから私の生活は北海道に於ける自
然や生活から影響された点が中々多いに
違ひない(中略)北海道といっても(中
略)主に私の心の対象となるのは住み慣
れた札幌とその付近だ。>と言っている。札幌と有島との関わりは深い。有島と札幌の関わりを中心に、札幌を歩いてみよう。
札幌では先ず札幌駅北西にある北海道大学を訪れよ
う。
正門を入りやや右よりに真直進むと
クラ−ク像にいたる。農学部の右手にあ
る白壁の平屋は北大が永久保存と決めて
いる農学校時代の校舎である。法文経の
校舎のあたりに有島が寮監をしていた恵迪
寮(けいてきりょう)があった(文末資料編参照)。この建物は現在札幌郊外野幌の「開拓の村」に移築復元されている。また、大学前の地下鉄北十二条駅
の北西角には有島の家があった。現在芸術
の森に移築されている。あとで訪れよう。
北大を見たら、南へ歩いて、北海道道庁や北大農学部付属植物園を経て、大通公園へ出よう。
まずは公園の西のはずれにある札幌市資料館を訪れたい。ここは北海道文学館と言ってもいいもので北海道に関わりのある文学者の詳細な展
示がされている。有島武郎記念室もある
。館内では有島や北海道の文学資料も手
に入るので大変便利である。
資料館展示

有島と札幌との関わりをおおよそ身につけたら、大
通り公園を東へ歩こう。五百メ−トルも
行くと(西九丁目)右手に有島武郎文学
碑がある。
有島武郎碑

<小さき者よ。不幸なそして
同時に幸福なお前たちの父と母との祝福
を胸にしめて人の世の旅に登れ。前途は
遠い。そして暗い。しかし恐れてはなら
ぬ。恐れない者の前に道は開ける。行け。
勇んで。小さき者よ。>
と武者小路実篤の筆で「小さき者」の末尾の一文が彫られている。昭和三十七年九月有島武郎記
念会によってたてられたもの。
さらに東へ進んだ噴水のあたり(西三丁目)には
石川啄木像と歌碑、吉井勇歌碑などがあ
る。
啄木像と歌碑

吉井勇歌碑

公園から西二と西三丁目の間の道を
北へ二百メ−トルも行くと有名な時計台
がある。ここが農学校の跡で時計台は明
治二十一年建てられたもの。場所は百メ−
トル程移されているが昔の姿を留めてい
る。もとの演武場で大正十一年七月有島
は講演もしている。
大通り公園の東端にあるテレビ塔の所から南へ五百メ−トルも行き国道三十六号に出たら左(東)へ
六百メ−トルも進んだ東四南四丁目には
中央勤労青少年ホ−ムがある。遠友夜学
校の跡である。
三十六号にもどればすぐ豊平川に掛かった豊平橋だ。橋を渡った左(北)が菊水一条1丁目、有島の家のあった所である。現在標識が立って居る。
この川のあたりは「幻想」「お末の死」
などの舞台である。建物は開拓の村に移
築されている。
北海道開拓の村は市内東
端の野幌(もより駅は森林公園)にある。
旧札幌停車場の入口を入りまっすぐ進み
百メ−トルも行った交差点を左に曲がり
五十メ−トルも行くと左角にある。建物
内部も見物できる。木田金次郎も訪れて
居る。「生まれ出る悩み」の場面など思い出しながら見学したい。
有島旧居

もとの交差点を東へ行けば恵迪(けいてき)寮に至る。有島が寮監をしていた建物。寮の雰囲気が偲べる。
支笏湖へ行く途中、南区常盤の札幌芸
術の森には、北十二条西3丁目の家が移
築されている。駐車場から芸術の森にゆ
く右にある。有島武郎記念館と言っても
いいもので多くの資料が展示されている。
ぜひ訪れたい。「小さき者」の舞台であ
る。
有島邸

芸術の森もきれいな彫刻が多いので
見てみたい。
資料編
有島武郎と札幌
明治二十九年九月、有島は札幌農学校
予科五年級に編入学、新渡戸稲造教授の
官舎(北三條西一丁目一番地)に寄宿
する。
明治三十年五月三日、十月五
日、新渡戸療養のため札幌を去る。引続
き官舎に住む。
十一月三日、マツカリベツ
(狩太、現ニセコ町)に借地のできたこ
とを知る。
三十三年秋頃よりキリスト教の遠友夜学校(現・南四條東四丁目、中央勤労青少年ホ−ム)に出向く。
十二月三十日、仲間と定山渓におもむき、十九世紀最後の日を過ごす。
三十四年四月北三條東四丁目御料地内、山本富貴方
に転居。
四十年八月十二日、五年ぶりに訪れる。
明治四十一年一月六日、農科大学赴任のた
め着任。北六條西一丁目の森本厚吉方に寄寓。
四十一年三月六日〜十月十日恵迪
(けいてき)寮の舎監として住みこむ。
この建物は現在札幌郊外野幌の「開拓の
村」に移築復元されている。
十月十日寮を出て北二條東三丁目九番地(現・北二
條東六丁目付近?)に移る。
明治四十二年四月十日頃、豊平館(現・中島公園内)で結婚の披露をする。
四十三年五月一日(上)白石町二番地(現・白石区菊水一條一丁目)に転居。<豊平川の右岸にして豊平橋を去
る三丁ばかり林檎園を切開きたる中に建
てられし貸家>であった。この家も野幌の「開拓の村」に移築復元されている。
十一月十一日、札幌女子高等尋常小学校で
第三回黒百合展を開く。
「生まれ出る悩み」のモデル木田金次郎は武郎の絵に心ひかれ、この月下旬、武郎を訪れる。
その時の様子は「生まれ出る悩み」で
<私が君に始めて会つたのは、私がまだ札幌に
住んでゐるころだつた。私の借りた家は
札幌の町はずれを流れる豊平川といふ川
の右岸にあつた。その家は堤の下の一丁
歩ほどもある大きなりんご園の中に建て
てあつた。そこにある日の午後君は尋ね
て来たのだつた。君は少しふきげんさう
な、口の重い、癇(かん)で背たけが伸
び切らないといつたやうな少年だつた。>
と書いている。
四十四年七月以前北八條
東二丁目十二番地(現・北八條東六丁目
付近)に転居。四十五年五月十八日、北
三條東三丁目 第二御料地内(現・北三
條東五丁目)に転居。十月頃北十二條西
3丁目三番地の「小さな家」に移り家屋
の新築を待つ。
大正二年八月十日、北十二條西三丁目三番地に武郎が設計新築した西欧風の家に移る。マンサ−ド(腰折れ)屋根の木造二階建、延床面積二百六
十平方メ−トル。隣に上田寅次郎(石上
玄一郎の父、「小さき者へ」のU氏のモ
デル)が住んだ。
北十二條西三丁目の家は地下鉄北十二條駅の前、現在北販(北海道酒類販売)の倉庫の所に有った。現
在建物は札幌芸術の森(南区常盤七十五)に移築されている。
大正四年三月十四日住居の後
片付けに訪れる。三月二十九日、札幌を
去る。
大正五年十月二十四日頃訪れ、二十九日まで滞在。この間、黒百合会展覧会に岸田劉生の絵を届け、講演などもする。
六年十一月六日頃訪れ、十日農科大
学の文武会弁論部で愛について講演。
九年十月二十一日講演。二十三日まで滞在。
この間「卑怯者」を書く?
十一年七月十九日、農場解放の後訪れ、アイヌ教化団後援会の求めで時計台演武場で「独り行く
もの」の題で講演。
二十日森本らの友人に会い夕刻去る。
(この項、筑摩書房版「有島武郎全集」の年譜(山田昭夫・内田満編著)に大変お世話になった。記して感謝いたしたい。)
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