あなたは、2000.2.13以来人目の訪問者です。
松本清張文学散歩をお届けする。清張は、
<小学校のときから地理が好きだったが、そ
のころの教科書は写真がなく、ほとんど凸版
の絵だった。私はその絵にどれだけ空想をか
きたてられたかしれない。地理の教科書から
旅の魅力を覚えたと言ってよかろう。田山花
袋の紀行文の本にはさすがに写真版が付いて
いた。子供のころから一生遠い旅ができると
は思わなかった私は、旅に憧あこが れを持ちつ
づけていた。>(「半生の記−焚火と山の町
」)
と言っているように、旅を好きだったよ
うだ。自ずから作品でも旅が主要な位置を占
めている。それらを全て取り上げるには膨大
な時間とスペースをようする。今は、「半
生の記」を中心に、その周辺の作品だけに終
わっている。作品の舞台に関しては、徐々に追加して行きたい。なお、訪れた地については、主たる地に止め、講演などで訪れた地は殆ど触れてない。
大洗
「巨人の磯」の舞台。
府中
「小説3億円事件」の舞台。
深大寺
「波の塔」、「喪失の儀礼」の舞台。
大島
「風の息」の舞台。
天城街道
「天城越え」の舞台。
甲府
「甲府在藩」の舞台。
昇仙峡
「地方紙を買う女」の舞台。
鹿島槍
「遭難」の舞台。
上諏訪
「ゼロの焦点」の舞台。
<宿は湖岸から少し離れていた。(中略)雲
の下には低い山の稜線が蒼黒い色で連なって
いた。鵜原憲一は、真向かいの稜線の切れ目
を指して禎子に教えた。「あれが天竜川の取
り口さ。こっちの高い山が、塩尻峠だ。間に、
穂高と槍が見えるのだが、今日は雲があって
見えない」>
金沢
「ゼロの焦点」の舞台。
<この丘陵地帯は、後ろの方に雪をかぶった
白山連峰が見え、前に金沢市街を俯瞰して平
野がひろがっていた。(中略)薄陽の下に、
遠くの内灘あたりの海がわずかに見え、能登
の淡い山が帯のように突き出ていた。>
鶴来
「ゼロの焦点」の舞台。
志賀(高浜)
「ゼロの焦点」の舞台。
<赤住は十五六軒ばかりの半農半漁の部落で
あった。(中略)禎子は断崖への道を歩いた。
それは十分とはかからなかった。閉ざされた
雲の中に陽が沈みかけ、荒涼とした海にわず
かな色彩を投げていた。/断崖の上に立つと、
寒い風が正面から吹きつけて禎子の顔を叩い
た。(中略)その辺は岩と枯れた草地で、海
は遥か下の方で怒濤を鳴らしていた。>
富来
「ゼロの焦点」の舞台。
<「そこはたいへん高い断崖になっておりま
してね。(中略)名前も、能登金剛とつけて
いますがね、その断崖の上から投身したので
す。><禎子は、ともかく夫の自殺したとい
う、その場所に行ってみたくなった。(中
略)乱れて降ってくる雪の中を、断崖の上に
向かって歩いた。(中略)海の方を見ると、
幾つもの岩が立って海に突き出ている。観賞
的に見れば、なるほど能登金剛の名に値しそ
うな景色だったが、今の禎子には海原の墓場
のようにしか見えなかった。>
巌門の南、鷹の巣岩を見下ろすドライブイ
ンの駐車場の縁に
<雲たれてひとりたけれる荒波をかなしと思へり能登の初秋>
と彫った清張歌碑が立っている。
さらに、巌門に下る 遊歩道に入った所に松に囲まれてもう一つの清張歌碑が立っている。
和倉
「ゼロの焦点」の舞台。
<この辺は、観光地だけに、道路は立派だっ
た。島があり、その島の向こうに、白い山脈
が薄く見えた。ここからは、立山が正面に見
えるのである。>
網野町
「Dの複合」の舞台。
奈良
「球形の荒野」の舞台。
明日香
「火の路」の舞台。
吉野
昭和二十三年頃、箒の行商で訪れる。
<吉野に行ったのもその頃だった。橿原神宮
から下市までは貨車に乗せられた。明りは貨
車の扉を少し明けた隙間からくる光りだけで、
乗客は筵(むしろ) の上に腰を下ろしたり立ったり
して運ばれた。(中略)吉野川に沿ってゆく
渓谷は新緑の中で美しかった。>
堺
昭和二十三年頃、箒の行商で訪れる。
<私は、時間の余裕を利用して泉州堺まで足
を伸ばしたりした。城址近くにある、佐野屋
という荒物の小売りを兼ねた小ぎれいな問屋
だった。>(「半生の記−焚き火と山の町」
)
津山
「紐」の舞台。
夜見ヶ浜
<大山だいせんの中腹から見下ろ
すと、天橋立のような夜見ヶ浜の形がよく分
かる。突端の境港と美保関の丘陵(白髪山しら
かみさんと高尾山という。後者に関の五本松があ
った)を分けた海峡は細くて見えず、まるで
地続きのようである。>(「私説古風土記
『出雲国風土記』」)
堺港
<堺港と美保関の狭い海峡は数年
前に大橋が架けられ、車で通行できるように
なった。橋上から見ると左手の安来あたりも
右手の美保神社の森もはるか下のほうに沈ん
でいる。>(「私説古風土記『出雲国風土
記』」)
美保関
<八束水臣津野命が三本縒りの
太綱を島根半島の北端に掛けて夜見の島に太
刀、引き寄せて縫い合わせたのが「闇見くらみ
の国」(松江市本庄町に遺称地)であり、同
じようにして「高志こしの都都つつの三崎みさき 」
から引き寄せたのが、「三穂の崎(美保関)
であり、その綱をしっかり括くくりつけた杭くい
が火神岳(ひのかみだけー大山)である。大山から俯
瞰(ふかん) した者の実感である。>(「私説古風
土記『出雲国風土記』」)
<はじめに出た海岸が千酌(ちくみ) の漁港である。
二つの川が合流する河口の橋を渡る。(中
略)淋しい漁家の通りを海岸に出てみると、
ここも海蝕が激しいらしく、コンクリート製
の防波錐(テドラポット)がならべてあった。右も左も
海岸線は丘陵で、道路はその斜面についてい
る。沖合は茫乎(ぼうこ) としていて漁舟の影一つ
見えない。千酌湊は「隠岐渡(おきのわたり)」である。
>(「私説古風土記『出雲国風土記』」)
島根
<「加賀郷(かがのさと) 」である。(中
略)湾内にある桂島というのが波除けの役目
をしていて、かなり大きな船が碇泊している。
入江をまもる東の岬は玄武岩が露出した断崖
で、その先端にタテに長い洞窟が遠望できる
。「加賀ノ潜戸(くけど) 」である。(中略)この
洞窟のかたちは女陰に似ている。女神が居る
というのもそれによる発想からだ。(中略)
女性の洞窟を矢が射るのは性交を意味する。>。
清張の一行は<三トンくらいの古い発動
機船>(「私説古風土記『出雲国風土記』
」)で潜戸見物に出掛け、波を被ってびしょ
びしょになり帰る。
鹿島
<加賀から西の日御崎(ひのみさき) に至
るまで島根半島の北海岸は岩の断崖が連続し
ている。わたしたちは鹿島町御津(みつ)から南に
道をとって松江市内に入り、宍道(しんじ) 町の旅
館「八雲本陣」に急いだ。というのは潜戸の
会場でズブ濡れとなり、それが下着まで徹(とお)
って早く着替えたかったからである。/その
ため北海岸を西端まで通れなかったが、御津
の南を恵曇(えとも) 港に出て、古浦を通る。古浦
は佐陀さだ川の河口がつくったこの辺唯一のデ
ルタであり砂浜である。>(「私説古風土記
『出雲国風土記』」)
平田
<宇賀郷の「黄泉の坂・黄泉の穴
」は猪目(いのめ) 湾の西側にある洞窟で、(中
略)この岩窟が当時の墓地として知られてい
たから「黄泉の穴」なと呼ばれたのだろう。
(中略)宇賀郷を懐にして、その西北方に突
き出た細長い半島による入江を十六島(ウップルイ )
湾という。宇賀より西の猪目とは湾を隔てて
北に岬の先端が見える。そこが十六島鼻で、
やはり周囲が険しい岩の断崖になっている。
(中略)十六岬の突端にある経島ふみしまも航海
者を守十二神や十六善神がおかれたことがあ
って>(「私説古風土記『出雲国風土記』」
)
松江
「砂の器」では、<長い橋がある。宍道湖(しん
じこ)が夜の中にひろがっていた。湖岸には、淋
しい灯が取り巻いている。>と松江の印象を
描いている。
神魂(かもす )神社
<この神社の石段は大き
な自然石で築かれてたいへんにいい。杉林に
囲まれた神魂神社の境内は寂しく静まり返っ
ている。(中略)ここからは北に中の海が池
のように可愛く見えた。夜見ヶ浜の長い砂嘴
(さし)もその正面の美保関の背後の山もおだやか
な陽の下に小さく輝いていた。>
風土記の丘
<資料館のある「風土記の
丘センター」は前方後円墳をとり入れ、ちょ
うど北の正面に茶臼山(一七一メートル)が
見える。(中略)さらに「丘」の西方には丘
陵越しに神魂神社、千家御殿跡、北島御殿跡
があり、さらに丘陵のはるか西端には八重垣
神社がある。(中略)つまり、資料館のある
場所はこうした古墳や古い神社や風土記の遺
称地や古道に囲まれた文字通りセンターの地
なのである。(中略)「丘」から北正面に見
える茶臼山が神名備(かむなび)山である。>(「私
設古風土記『出雲国風土記』」)
以上、松江。
玉造
<わたしは以前に玉造温泉に泊ま
ったとき、近くの玉作湯神社に行った。そこ
から勾玉の材料になる瑪瑙(めのう )(軟玉)の原
石が出た花仙(かせん) 山を眺めた。>(「私設古
風土記『出雲国風土記』」)
宍道
<わたしたちは鹿島町御津(みつ)から
南に道をとって松江市内に入り、宍道(しんじ) 町
の旅館「八雲本陣」に急いだ。というのは潜
戸の会場でズブ濡れとなり、それが下着まで
徹とおって早く着替えたかったからである。
(中略)わたしは、加賀の潜戸で雨と浪のし
ぶきに濡れた洋服を脱ぎ、旅館の風呂に入り、
新しく買った下着にきかえ、「八雲本陣」の
着物を着て下駄ばきでタクシーに乗つた。>
(「私説古風土記『出雲国風土記』」)
大社
日御崎
<石見国と出雲国との
堺なる佐比売山さひめやま (三瓶山さんべさん )を杭
とし、志羅紀(しらぎ) の三崎(新羅の岬)に大綱
をかけて引き寄せて縫いつけたのが八穂爾支
豆支やほにきづきの御崎みさき (日御崎)>(「私説
古風土記『出雲国風土記』」)
日南
<中国山脈の脊梁(せきりょう) に近い麓
まで悪路を車で二時間以上もかかった。途中、
溝口(みぞくち)などという地名をみると、小さいと
きに聞いた父の話を思い出し、初めてみるよ
うな気がしなかった。/私が生山(しょうやま) の町
を初めて訪れたのは、終戦後間もなくだった。
今は相当な町になっている。近くにジュラル
ミンの原料になる鉱石が出るということで、
その辺の景気が俄(にわか) によくなったというこ
とだった。/矢戸(やど)村というのは、今では日
南町と名前が変わっている。町の中心は戸数
二十戸あまりの細長い家並だが、郵便局もあ
るし、養老院もある。(中略)村の中を日野
川が流れているが、父の想い出話の中には、
必ずこの川の名が出てくる。(中略)トンネ
ルを抜けると、伯耆(ほうき )の国になり、生山駅
につく。/傍(かたわ ら)には「豪渓」という名の
付いた「日野川」上流の渓谷になっている。
雪舟が近くの寺に住んでいたという伝説があ
る。>「半生の記−父の故郷−」。
「父兄の指」の舞台でもある。
生山駅から真っ直ぐ百メートルも行くと町
役場がある。松本清張碑、井上靖記念館と碑
のパンフレットが貰える。清張碑は矢戸の中
心、信号のある三叉路の上の公園にある。
<幼き日夜ごと父の手枕で聞きしその郷里宿い
まわが目の前に在り/松本清張>
と彫ってある。
仁多
「砂の器」の主要舞台の一つ。こ
の地方にズーズー弁が残っていることが事件
を解く重要な鍵となる。
今西は、<出雲三成
の駅におりた。(中略)駅は小さかった。だ
が、仁多の町はこの地方の中心らしく、商店
街も並んでいた。(中略)橋を渡った。(中
略)郵便局を過ぎ、小学校を過ぎると、三成警
察署の前に出た。建物は、この田舎とは思わ
れないくらい立派だった。(中略)白いこの
建物を背景にして、やはり山が迫っている。>。
三成署で、殺された三木謙一の資料を得
たあと、警察の車で三木の勤めていた駐在所
のある。亀嵩(かめだけ)を訪れる。
<出雲三成の駅から四キロも行くと、亀嵩の駅になる。
(中略)川に沿って山狭(やまかい)にはいっていく。
/この川は途中で分かれて、今度は亀嵩川と
いう名になるのだった。亀嵩の駅から亀嵩部
落はまだ四キロぐらいはあった。途中には家
らしきものはない。/亀嵩の部落にはいると、
思ったより大きな、古い町並みになっていた。>
と描いている。特産品の算盤を作っている
桐原小十郎を尋ね三木のことを聞いたあと駐
在所を覗き戻って行く。
現在の亀嵩の駅はそば屋を兼ねるユニーク
な駅。前の国道四三二号線を右(東北)へ四
キロも行くと亀嵩の中心に至る。
亀嵩に近づき亀嵩川を渡ると左に亀嵩算盤
の工場がある。さらに行くと左に農協の建物
とストアがある。その斜め前、消防所の先、
右手に亀嵩駐在所がある。さらに進むと亀嵩
の集落に入る道とバイパスとに分かれる。左
の集落に入って行けば落ち着いた町並みが続
く。集落の中程の左手に桐原家のモデルにな
った家もある。
町並みを抜け、先程のバイパ
スと合流した先の左手に松本清張文学碑があ
る。湯野神社(亀嵩神社)の鳥居の手前に、
大きく「松本清張/小説『 砂の器 』舞台の
地」と書いた標識が立っている。表面には<
小説/砂の器/舞台の地/松本清張>
と大きく横長に彫られ、裏面には、「砂の器」の亀嵩
の部分の文章が彫り出されている。
吉田(湯村)
「火神被殺」の舞台。
<芸備線(広島・岡山県新見間)の備後落合
と宍道の間を木次(きすき) 線というが、その木次
線からかなり南に寄った山間の渓流沿いに湯
村という小さな温泉がある。宿は十軒にも足
りない。古い温泉で『出雲風土記』では仁多
(にた)郡三沢郷となっている。>
広島
昭和二十一年頃、箒の行商に訪れ
る。
<まだ焼け野原の状態だろうと想像していた
広島の街は、すでに相当のバラックが建って
いた。駅前には早朝から闇市が開かれていて、
復員服姿の男たちがうろうろしていた。(中
略)駅の前で訊くと、荒物の問屋は猿猴えんこう
橋を渡って一丁ばかりいったところにあると
いう。/猿猴橋は懐かしい名前だった。母の
妹が行方知れずになったのはこの橋の上であ
る。(中略)その猿猴橋の上に佇たたず むと、
川水は黒く濁っていた。それでも八丁堀のあ
たりまではすでにバラックの町つづきになっ
ていた。(中略)その頃の八丁堀はまだ焼け
たままだった。福屋というデパートの建物だ
けがぽつんと建って、あとは低いバラックが
疎まばらに建っているだけだった。(中略)そ
の日、戦災の広島市内を見て回った。/原爆
の落ちた爆心地は形骸けいがいが残っている銀行
のほか、僅かな建物が半壊であるだけで、こ
の付近にはまだバラックもなかった。銀行の
玄関前の石段は灼や けて黝くろずんでいた。比
治山ひじやまに登ると広島の市街はきれいに焼け
ているが、丘の反対は宇品うじな 方面は古い家
が残っていた。>
<商店の戸が開くまでは市内をうろうろして
いなければならない。朝から金をもらうのが
遠慮でならなかったのである。/電車に乗っ
て宇品に行ったり、比治山に登ったりして時
間を消した。宇品の沖の煮島にのしまが朝日に染
まるのを見るのがいつもであった。>(「半生の記−焚き火と山の町」)
尾道
「内海の輪」の舞台。
防府
昭和二十一年頃、箒の行商で訪れ
る。
<防府は川のほとりに土蔵造りの古い家がな
らんでいる町だった。白壁が川面にかげを落
とし、表通りの店は暗い奥に畳の上に櫺子れん
じ で囲った帳場があり大福帳が下がっていた。
>(「半生の記−焚き火と山の町」)
下関
明治四十三年、小倉より祖父母を
頼って旧壇の浦に移る。
<現在、火ノ山という山にケーブルカーがつ
いて展望台が出来ているが、その場所が旧壇
(だん)ノ浦(うら)といって平家滅亡の旧蹟地(きゅうせきち)に
なっている。そこに一群ひとむれの家が六、七軒
街道にならんでいた。裏はすぐ海になってい
るので、家の裏の半分は石垣からはみ出て海
に打った杭の上に載っていた。私の家は下関
から長府に向かって街道から二軒目の二階屋
だった。>(「半生の記−父の故郷」)
<街道の通行人を相手に商いをしたのが餅屋
であった。>
<家の裏に出ると、渦潮の巻く瀬戸を船が上
下した。対岸の目と鼻の先には和布刈(めかり) 神
社があった。山を背に鬱蒼うつそうとした森に囲
まれ、中から神社の甍(いらか) などが夕陽に光っ
たりした。夜になると、門司の灯が小さな珠
をつないだように燦めく。>(「半生の記−父の故郷」)
<近くの祭礼といえば、赤間宮(あかまぐう) の先帝
祭と、長府の乃木のぎ神社の祭りであった。(
中略)先帝祭の記憶はあまりない。花魁の道
中がおぼろに印象に残っている程度だが、乃
木神社の祭りはかなり強い記憶になっている。
>
<ある冬の晩、(中略)すぐ前の火の山が山
崩れして家のおもてまで破壊した>(「半生
の記−白い絵本」)。
そのため、大正二年、
市内田中町に移る。大正五年四月、市立菁莪
小学校入学。大正六年、小倉に移転。
長門(仙崎)
終戦により釜山から<乗
船した連絡船は夜の海峡を渡った。(中略)
夜明けにひどく風光明媚な港に近づいた。海
の中に尖り立った岩の島が点在している。私
は青海島ではないかと思った。果してその港
が山口県の仙崎だった。(中略)一番の新し
い軍服と、毛布と、軍靴とを詰めた袋を背負
い、混雑する列車で九州に向かった。>(「半生の記−敗戦前後」)
門司
昭和二十四年頃、<行くところの
ない私は、あてもなくバスに乗り、松ケ枝と
いうところで降りて、海岸を歩いた。人のい
ない海辺で、名前を知らない小さな島が一つ
だけ見えていた。/その浜辺に腰を下ろして
沖を眺めたり、松林の間を歩き回ったりした。
家族の多い家に帰るのにうんざりしていたし、
外に出ても行き場がなかった。(中略)苛立
たしい怠惰の中に身をひたしていた。>(「半生の記−泥砂」)
「時間の習俗」の舞台。
小倉
明治四十二年十二月二十一日、市
内(現小倉北区)篠崎に父峯太郎、タニの長
男として生まれる。四十三年、下関に移る。
大正六年、下関より戻り、初め古船場町の銭
湯「亀井風呂」の持家に風呂炊きの老人と同
居。後、柴川に沿った町はずれの中島にバラ
ックの家を借りる。天神島小学校に転校。
<小倉の古船場という町に風呂屋があって、
(中略)住居は風呂の裏手にある六畳二間ぐ
らいの家で、(中略)その一間を私たち親子
三人が間借りすることになった。>
<風呂屋のある市場に近い旦過橋(中略)その年の
暮れから、父は橋の上に立って塩鮭しおざけの立
ち売りをしはじめた。>(「半生の記−臭う町」)
大正十一年四月、小倉市立板櫃尋常高等小
学校(後の清水小学校)高等科に入学。
大正十三年三月、同校卒業。大阪に本社のある川
北電気株式会社小倉出張所の給仕に採用される。
昭和二年、川北電気は倒産。失職。この
頃芥川の作品に心酔。
昭和三年、高崎印刷所
に勤める。さらに、石版印刷所の見習いとな
る。
同所が潰れ、昭和六年、高崎印刷に戻り
昭和十二年まで勤める。一時、博多の島井オ
フセット印刷で図案の勉強をする。
昭和十二年二月、独立し、小倉に新築移転してきた朝
日新聞九州支社の広告版下を受け持つ。
昭和十一年十一月には、内田直子と結婚。
昭和十四年、朝日新聞広告部嘱託になる。
十五年には、朝日新聞西部本社広告部雇員になる。
十七年、正社員となる。
昭和十八年十一月、久留米の四十八連隊に三ヶ月教育召集で入隊。
昭和十九年六月、再召集され福岡の二十四連
隊に入隊。敗戦まで約一年間衛生兵として勤
務。すぐ朝鮮に渡り京城市外の竜山に駐屯
。
昭和二十年、師団軍医部付きとなり金羅北道
井邑に移る。上等兵に進級。
十月末、敗戦により本土送還。佐賀県神崎の妻の実家に帰還。
朝日新聞社に復職。市内黒原営団三七四にも
との兵器厰の工員住宅を見つけ住む。
昭和二八年、朝日新聞本社勤務となり単身上京。
「或る『小倉日記』伝」ほか多くの作品の
舞台になっている。鴎外旧蹟に関しては、「森鴎外文学散歩」(『解釈と鑑賞』平成四年十一月)参照。
鴎外旧居から古船場へいく途中の堺町公園
には、「菊枕」のモデル杉田久女の句碑があ
る。
平成10年8月4日、小倉城の南の地区に松本清張記念館
が開館した。
清張作品の上映・ 同時代パノラマ(清張氏の生涯の年譜とともに、当時のニュース映
像なども織り交ぜて紹介する長さ22mの大型年表。作品誕生の背景を探ります。) ・書斎・書庫・応接間再現展示 (東京都杉並区にあった清張氏の仕事場を再現展示。ガラス越しに見える書斎の約3万冊におよぶ膨大な蔵書は、氏の創作の源を感じさせます。)
など盛りだくさんのようだ。ぜひ、訪れたい。
福岡
昭和八年、島井オフセット印刷で
図案の勉強をする。昭和十九年六月には、再
召集され福岡の二十四連隊に入隊。
「点と線」の舞台。
<鹿児島本線で門司方面から行くと、博多に
つく三つ手前に香椎という小さな駅がある。
この駅をおりて山の方に行くと、もとの官幤
大社香椎宮(かしいのみや)、海の方に行くと博多湾を
見わたす海岸に出る。/前面には「海の中
道」が帯のように伸びて、その端に志賀島(しか
のしま) の山が海に浮び、その左の方には残(のこ)の
島がかすむ眺望のきれいなところである。/
この海岸を香椎潟といった>
久留米
昭和十八年十一月、久留米の四
十八連隊に三ヵ月教育招集で入隊。
<令状どおり三ヵ月の教育期間で一応解除に
なった。/ところが、この兵隊生活は私に思
わぬことを発見させた。「ここに来れば、社
会的な地位も貧富も、年齢の差も全く帳消し
である。みんなが同じレベルだ」と言う通り、
新兵の平等が奇妙な生き甲斐を私に持たせた。>
二日市
武蔵寺(むぞうじ)が「夜光の階段」の舞台。
神崎・千代田
<神崎の町は佐賀平野の
中にある。狭い町を通り越してゆくと、一本
の川の傍らに出る。道はそれに沿って櫨(はぜ)の
木の多い平野に入る。山は遠く、見渡す限り
の田んぼには幾つもの掘割があった。径みちに
は翼の白い鵲が歩き、高い櫨の樹の上にも飛
んでいた。(中略)佐賀地方ではカチカラス
と呼び、普通のカラスとは違った啼き方をす
る。その川に沿った土手路を一里も歩くと、
田んぼの中に一群れの集落がある。そこが妻
の生まれた村だった。(中略)このあたりは
水を湛えた濠が縦横に走り、櫨の木立がなら
ぶ美しい田園である。>(「半生の記−鵲」
)
唐津
「渡された場面」の舞台。
耶馬渓
<戦前には耶馬渓にたびたび行
った。その奇岩怪石の集まるところは、深耶
馬渓の一目八景という場所である。>(「着
想ばなし_−豊後雑想」)
「西海道談綺」の舞台。
安心院(あじむ)
「陸行水行」の舞台。
<四日市の駅で降りると、バスは山路の峠道
を走るが、その峠を越すと山狭が俄に展けて
一望の盆地となる。早春の頃だと、朝晩、盆
地には靄が立籠め、墨絵のような美しい景色
となる。(中略)宇佐神宮の奥宮に当たる安
心院の妻垣神社に行った>。
安心院の中心から北西へ(四日市方面へ)
五六百メートル行くと右手に家族旅行村があ
る。その駐車場の中心のロータリーの中に松
本清張の文学碑が立つている。「陸行水行」
の冒頭の一節が彫られている。
「西海道談綺」の舞台。
日田
昭和五十年頃、鯛生金山より訪れる。
<その夜は、昼間の陰鬱な気分(注−鯛生金
山廃坑を見ての)を忘れるために、三隈川の
鵜飼を見に屋形船に乗った。船中に女性二人
あり、その歌を聞き、踊りを見ながら、同じ
く金山に関連して約二十年前の同じ季節、佐
渡相川の夜の唄と太鼓を思い出したことだっ
た。>(「着想ばなし]−佐渡と鯛生」)
「西海道談綺」の舞台。
天ケ瀬温泉
<昭和十七年頃、応招する
友人と訣れの記念に正月に天ケ瀬温泉に泊ま
って、森(注−玖珠)まで歩いたことがある。
そのときの霧の深さが忘れられない。>(
「着想ばなし_−豊後雑想」)
「西海道談綺」の舞台。
竹田
<岡城址は滝廉太郎の「荒城の月
」の作曲で有名だが、私が行ったときは(中
略)いかにも荒廃した城址のようでよかった。
>(「着想ばなし_−豊後雑想」)
(写真・筆者)(わたべよしのり)
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松本清張記念館
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近代文学関係、特に、太宰治に関する論文、松本清張著作目録などがあります。
象のロケット
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