「富嶽百景」
○何故御坂に行ったか?
太宰が東京に出て来たのは昭和五年四月東京大学仏文科に入学した時で ある。上京後すぐ井伏鱒二を訪れ弟子入している。それ以前より井伏の 「山椒魚」を読んで感激し尊敬していたからである。しかし、上京後の太 宰は文学よりも左翼運動の方に関わり、数々の失敗を重ねて行く。また芸 妓だった初代と同棲し、生家の兄から家からの除籍を言い渡されたり、そ のショックでゆきずりの女性と心中事件を引き起こし、結局相手の女性が 死んでしまったりする。初代とは昭和五年暮れ、結婚し所帯を持つ。左翼 運動との関係はその後も続き、七年夏身を引くことになる。その後、作家 を目指し、井伏の指導で文学に精進する。昭和十年には卒業も出来ないこ とが判明し結局退学。盲腸炎から麻薬中毒になり、一方、芥川賞をめぐる もめごと(後詳述)などあり、昭和十一年秋には武蔵野病院に入院、麻薬 中毒の治療に当たる。十二年夏、初代と離婚し、一年程下宿生活をする。 その間、友人や後輩が太宰の下宿に入り浸り、生活の荒廃を心配した津島 家出入の商人中畑慶吉、北芳四郎らが井伏に相談し、井伏が自分の滞在し ていた御坂峠に太宰を呼ぶことになる。太宰自身、それ以前の自分の生活 と文学に反省するところがあり、本気で生活を変えようとしていた。井伏 は、生活を返る意味でも新しい結婚を勧めてみた。そうした背景から太宰 は御坂峠に出かけたのである。
○お見合の印象
太宰は昭和五年の暮に一回目の結婚をしている。十二年の夏に結婚を解 消し、それから約一年経過している。作品に出てくるように御坂に来てす ぐ甲府の娘さんと見合をしている。それが後の妻美智子氏である。津島美 智子氏は、『回想の太宰治』で見合の頃を回想している。その中で、見合 の時の服装に関しては、<I先生と太宰とを、水門町の私の実家に案内し てくださった九月十八日、甲府盆地の残暑は大変きびしかった。I先生 は、登山服姿で、和服の太宰はハンカチで顔を拭いてばかりいた。黒っぽ いひとえに夏羽織をはおり、あとでわかったのだが、両方とも風を通さな い交織もので、白いメリンスの長襦袢まで重ねていたのだから暑かった筈 である。>と言い、部屋の様子は、<縁先に青葡萄の房が垂れ下り、床の 間には放庵の西湖の富士と短歌数首が懸かっていた。太宰は御坂の天下茶 屋で毎日いやというほど富士と向き合い、ここでまた軸や写真に囲まれた わけである。>と描写している。
○三ツ峠登山・放庇に関して井伏が抗議
御坂峠について二三日して三ツ峠に登山するエピソ−ドが出てくる。こ れは実際にあったことらしい。ただその中に<井伏氏は、濃い霧の底、岩 に腰をおろし、ゆつくり煙草を吸いながら、放庇なされた。>と書いてあ るのは虚構らしい。井伏の「御坂峠にゐた頃のこと」によれば<可成り在 りのままに書いてある作品だが、「富嶽百景」については一箇所だけ訂正 を求めたい描写がある。それは私が三ツ峠の頂上の霧の中で放庇したとい ふ描写である。私は太宰君と一緒に三ツ峠に登ったが放庇した覚えはな い>という。太宰に抗議したが太宰は「いやなさいました。」と言って訂 正しなかったという。話を面白くするための太宰の虚構と思われるが、そ の虚構が井伏の特色を実にうまく捉えているのはさすがである。井伏文学 のあのとぼけたおかしみからはそんなことがあってもおかしくないような ところがあるのだ。太宰の虚構が単なる面白味だけをねらったものでない ことがわかる。太宰文学は体験をかなり書いているとしても必ずしも百 パ−セント事実ではないことに注意したい。
○御坂で何をしていたか
御坂峠の天下茶屋では「火の鳥」という初の長編小説に取り組んでいた。 自分の作風を変えるとともに今までの自分を反省し総括する意味もあった 。しかし結局この作品は未完に終ってしまい、代わりに、その時の生活を 素直に描いた「富嶽百景」ができたのである。これは、今までの太宰の文 学傾向とはがらりと傾向を異にし、明かるく健康な作品で、いわゆる中期 の太宰の特色が決定したのであった。
○天下茶屋のこと
甲府と河口湖・富士吉田を結ぶ新道八号線が出来たのは昭和五年ころ、 天下茶屋もその頃できたと思われる。甲府からは御坂山地に遮られ富士山 は頂上の部分しか見えない。御坂トンネルを抜けて出るといきなり富士の 全容とその裾に広がる河口湖の風景に接することになり「天下第一」とい う印象を与える。太宰はそのあまりにも完成された美景に抵抗を語ってい るがまた感服もしているのである。
「津軽」
○作品の虚構
相馬正一『評伝太宰治 第三部』によると、「津軽」で最も感動的であ る小泊における主人公とたけとの再会の場面は太宰の虚構だという。たけ が語ったところによれば、実際には、他の人が同席していて二人はあまり 口をきかなかったという。従って、たけとの再会の場面には、太宰の夢が 語られていると言えよう。こうあったらよいのにという場面をそこに作り 出したといえよう。こうした例でもわかるように、「津軽」は、単なる旅 行記ではなく、太宰の、意図が働いている。それは、自分の人生の総括で あり、確認である。太宰は、「津軽」で、自分を語っている。この作品は 、太宰治の自叙伝である。しかも、多くの作品を引用することにより主観 性をなるべく排除し、作品をして語らせるという方法を取っているのであ る。時間の順序はまちまちだが、それぞれの場所場所を通してその土地と かかわった時の自分を語っていく。それらが集まった時、それは自叙伝に 完成されているのである。
○戦時色
「津軽」の背景になっている昭和十九年五月は太平洋戦争の真最中であ る。従って作品中にも戦時色は所々出てくる。しかし、戦争に迎合した発 言はない。それでも戦後「津軽」を再版する時には何ヶ所か削除している 。いくつか例を上げてみる。 初<弘前師団の指令部がある。>↓再版(昭和二十二年)削除 初<けれども、この辺は最近て国防上なかなか大事なところであるから、 里数その他、具体的な事に就いての記述は、いつさい避けなければなら ぬ。>↓再版削除 初<深さなどに就いては、国防上、言はぬはうがいいかも知れないが>↓ 再版削除 初<第八師団は国宝だつて言はれてゐるぢやないか。>↓再版削除 初<日本はありがたい国だと、つくづく思つた。たしかに、日出づる国だ と思つた。>↓再版削除 これらは、一部の例だが、特に戦争に迎合した表現とは言えない。時代 背景が変わったのでそれに合わせて改編した部分も多い。逆にこれらの例 は、太宰がいかに戦争に迎合しないで作品を書いたかの例に上げられるく らいである。
○作品の舞台
「津軽」の舞台は津軽地方全般に渡っている。作品そのものが教科書に 全文取られることもないので舞台も全部を視野に入れる必要はないかもし れない。主たる所としては、たけに会いに行った小泊、生家の金木、N君 のいる蟹田、津軽の最北端龍飛崎、中学校時代を過ごした青森、高等学校 時代を過ごした弘前などであろうか。『解釈と鑑賞』昭和六十二年六月号 は太宰治の特集で津軽を中心に文学アルバムと文学散歩があるので参考に なろう。
○中村貞次郎の回想?
○順序を変えた事
「人間失格」
○長年の懸案
「人間失格」を書くことは太宰の長年の懸案だった。その芽生は昭和十 一年に始まる。昭和十一年十一月十三日、麻薬中毒の治療のため武蔵野病 院の精神病病棟に半ばだまされたようにして(太宰は結核の療養のつもり だった。)入院させられた時から“人間失格”の意識が焼き付けられた。 その入院の体験を素材に書いた「HUMAN LOST」(昭和十二)と いう題目にもそれは表われている。自分は人間とは思われていないのだ、 自分は人間を失格してしまっているのだという意識である。昭和十四年に 発表した「懶惰の歌留多」や「花燭」にも<人間失格>とか<人間の資格 がない>という表現がみえている。昭和十五年に発表した「俗天使」では 、はっきりその思いを語っている。
私は、鳥でもない。けものでもない。さうして、人でもない。けふ は、十一月十三日である。四年まへのこの日に、私は或る不吉な病院か ら出ることを許された。けふのやうに、こんなに寒い日ではなかつた。 秋晴れの日で、病院の庭には、まだコスモスが咲き残つてゐた。あのこ ろの事は、これから五、六年経つて、もすこし落ちつけるやうになつた ら、たんねんに、ゆつくり書いてみるつもりである。「人間失格」とい ふ題にするつもりである。
ただ、その思いを語るには時間が必要だった。力が必要だった。自分の 発言が信頼されることが必要だった。五、六年というのは八年に延びてし まったが今、作家として世間からも一様認められ太宰は命を賭けて「人間 失格」に取りかかるのである。
○「如是我聞」で志賀直哉批判
「人間失格」は、「如是我聞」と対をなす作品である。「如是我聞」は 、『新潮』の昭和二十三年三、五、六、七月に発表された。多くの若い読 者の支持を得ながらも先輩や文壇からは批判や攻撃、嘲笑を受けたエッセ イである。発表を始めるとともに「人間失格」にも取りかかっている。両 者の深い関係が伺われる。「如是我聞」で、太宰は、人間の<俗物性>を 、<奴隷根性>を、<エゴイズム、冷さ、うぬぼれ>を、<頑固。怒り。 冷淡。自己中心>を徹底的に糾弾するのである。そして、その代表として<老 大家>志賀直哉をやりだまにあげるのである。
<この者は人間の弱さを軽蔑してゐる><も少し弱くなれ。文学者なら ば弱くなれ。><君は、代議士にでもなればよかつた。その厚顔、自己肯 定(中略)思ひ上りだけだ。><君について、うんざりしてゐることは、 もう一つある。それは芥川の苦悩がまるで解つてゐないことである。日蔭 者の苦悶。弱さ。聖書。生活の恐怖。敗者の祈り。>
そうした言葉で直哉を糾弾するのである。そこには、太宰の直哉への、 また直哉に代表される世間への抗議があった。そして「人間失格」もまた 同様の主題を扱っていると言ってよかろう。そういう意味でも両者を合わ せ読むとよい。
芥川賞 川端康成とのやりとり
昭和十年、芥川賞が創設された。第一回の候補者は、高見順、衣巻省三 、外村繁、石川達三、それに太宰治であった。太宰の候補作は「逆行」、 参考作品「道化の華」であった。石川達三が受賞し、太宰は、他の候補と 共に次席であった。選考委員の一人川端康成は太宰の作品を評して<作者 目下の生活に厭な雲ありて、才能の素直に発せざる憾みあつた。>と言っ た。それを読んだ太宰は、『文芸通信』十月号に「川端康成へ」を書き、 <たいへん不愉快><憤怒に燃えた><刺す。さうも思つた>と怒りをぶ つける。自分の実験的な新しい小説は川端だけにはわかってもらえると 思っていた太宰は川端の批判にあって逆上したのであった。
川端は「太宰治氏へ芥川賞に就いて」を『文芸通信』十一月号に載せ答 えた。そこでは<根も葉もない妄想や邪推はせぬがよい。(中略)太宰氏 の妄想や邪推も、私への好意の結果ともみられる。(中略)「生活に厭な 雲云々」も不遜の暴言であるならば、私は潔く取消し、「道化の華」は後 日太宰氏の作品集の出た時でも、読み直してみたい。その時は、私の見方 も変わるかもしれないが、太宰氏の自作に対する考へも、また、或ひは変 わつてゐるかもしれないと思はれる。>と冷静に反論した。
その翌年六月、太宰は第一創作集『晩年』を刊行、早速川端に本を送っ た。そろそろ第三回芥川賞が問題にされ始める頃である。その際の川端宛 書簡(昭和十一年六月二十九日付)で太宰は、
<「晩年」一冊、第二回(
注−太宰の勘違)の芥川賞くるしからず生れてはじめての賞金、わが半年
分の旅費、あはてずあせらず、十分の精進 西洋もはじめて可能
労作生涯いちど 報いられてよしと 客観数学的なる正確さ 一点うたがひ申
しませぬ 何卒 私に与へて下さい 一点の駈引ございませぬ
深き敬意と秘めに秘めたる血族感とが 右の懇願の言葉を発っせしむる様でござい
ます(中略)よろめいて居ります 私に希望を与へて下さい 私に名誉を
与へて下さい (中略)「晩年」一冊のみは 恥かしからぬものと 存じ
ます 早く、早く、私を見殺しにしないで下さい きつとよい仕事できま
す。(中略)ちゅう心よりの 謝意と、誠実 明朗 一点やましからざる
堂々のお願ひ すべての運を おまかせ申しあげます
(いちぶの誇張もございませぬ。すべて言ひたらぬこと のみ。)>
と芥川賞を自分にくれと懇願している。
なぜ、そんなに芥川賞に固執したかというと、一つには、当時、麻薬中 毒に陥っていて、その薬代を払うため回りの友人達から五百円近い借金が あり、それを返すのに芥川賞の賞金五百円が欲しかったからだという説が ある。また、一方では、東京に出てきて以来の太宰は芸伎と結婚したり、 左翼運動に係わったり、有夫の女性を心中し相手を死なせてしまったり、 数々の失敗を重ね、故郷の生家に迷惑を懸けた、その名誉の挽回を受賞に よって果たそうとしたからだといわれる。
が結局、この時も芥川賞は貰えず、今度は「創生記」で、佐藤春夫が芥 川賞をくれると約束していたのにと書き、中条百合子から批判されたりす る。回りの者もほっておけず、とうとう太宰の麻薬中毒を治療のため武蔵 野病院に入院させる。その入院が病気を治癒させてその際の様々な経験が 太宰の作風を変化させていく。
十三年秋からは、それ以前の難解な作風から健康で明かるく平易な作風 に転じいわゆる中期の世界に入って行く。昭和十四年四月、「女生徒」を 発表。その際、川端は、『文芸春秋』の五月号の「小説と批評−文芸時評 −」で<「女生徒」のやうな作品に出会へることは、時評家の偶然の幸運 なのである。そのために、賛辞が或ひは多少誇張にわたるのは、文学を愛 する者の当然の心事である。このやうな「偶然の幸運」に励まされて、時 評家は明日へいのちをつないで行き、文芸時評といふ仕事の徒労から辛う じて救はれるのである。>と太宰への声援を送った。両者のわだかまりは 消えたと言えよう。
ビラまき 太宰と左翼運動の関係については、深いと言われたり、軽いと言われた り論者によって分かれる部分だが、筆者は、回りがどうみようと太宰本人 はかなり本気でかかわっていたと考える。単なるアジトの提供と運動への カンパだけのように言われる時もあるが、アジトと言っても、時にはアカ ハタを印刷したり、中央委員会が開かれたり、中央委員(長)を匿ったりと党の 中枢のアジトとして使われていた。逮捕の危険もあったわけで、軽い気持 ちでは行えなかったのではないか。檀一雄の『小説太宰治』によれば、 <太宰が一度丁度この辺から図書館の大建築を見上げながら、「檀くん。 ここの屋上から、星を振らせたことがある?」「星?星って何?」「ビラ さ」「アジビラか?」「うむ」「君、やったの?」「うむ。チラチラチラ チラ、いいもんだ」>と言った場面があって、太宰が、左翼運動をしてい た頃を回想したことを語っている。
犬がにがて 太宰に「畜犬談」という作品がある。犬を恐れるあまり、町を歩く時で も犬に媚びながらあるいていたら次第に犬に好かれてしまい、犬が家まで 付いてきて結局飼うはめになってしまった話である。実際の太宰も犬を嫌 い、恐れていたという。犬が近付くと逃げ出したと言った友人の回想もあ る。
三島に嫌いと言われる
戦後初のベスト−セラ−
渡部芳紀研究室
(中央大学文学部文学科 国文学専攻)
<弱さの文学>への疑問
太宰文学を<弱さの文学>としたり<滅びの文学>としたりする見方がある。太宰の文学に影響されて自殺する青少年がいるということも聞く。が、はたして大宰治は本当に弱かったのか。大宰文学は人間の弱さを書いた文学なのか。たしかに、太宰文学に弱い部分を持った人間が登場する場合が多いのは否定できない。大宰が弱い面を持っていたのもたしかだろう。が、世の中に強いだけの人間がいないように、弱さだけの人間もいないだろう。太宰のなかには弱い面と同時に強い面が、太宰文学のなかに、弱さの面と同時に強さの側面が、不健康な傾向のなかにきわめて健康なものが、下降せんとする志向とともに上昇せんとする志向が、同時に存在しているのである。
太宰文学を自分の弱さの根拠づけのために弱さの典型にしてしまったり、太宰の生き方を自分の人生の敗北の理由にしたりするのは身勝手というべきである。
太宰は自分の弱い部分に苦しみ悩みながらも、なんとか生き続けようと苦闘したのだ。彼の文学は、その苦闘の反映であり、かつ、読者に対して、苦しくてもなんとか強く生きようとのはげましの思いで綴っているのである。世にいうように、ただ、自分の弱さを愚痴るためだけでどうして、あれだけの分量の小説を書く必要があろうか。
太宰は、全集にして九巻の小説と一巻のエッセイを残した。一巻弱の習作も書いている。それは単なる弱さのあらわれでなく、むしろ、なんとか強く生きようとする太宰のもがぎ苦しんだ姿の象徴なのである。九巻分の小説を描くエネルギーは莫大なものである。太宰の持っている強い生命力の面にも目をやらなければならない。そうでなくては、延べ十六年間にわたる創作活動も維持できなかったであろうし、死後五十年近くにわたって、これだけ多くの読者を得ることもできなかったであろう。
<心の王者>・精神の貴族・愛
人は何を幸福とするのだろうか。金をたくさん得ることか。有名になり名誉を得ることか。衣食住に何不自由のない状態か。美しく賢い相手と結婚し安定した家庭を築くことか。たしかにそれらも幸福の構成要素の一つかもしれない。
が、なによりも大切なことは、幸福は、衣、食、住、金などの物質的なものによっては決して得られない、もっと心や精神と深く関わった問題だということであろう。図式的にいえば、人間の真の幸福は、物質よりも精神の問題にかかっているということである。
太宰は津軽でも屈指の大地主の家に生まれ育った。父親は、衆議院議員、貴族院議負なども勤めた。物質的には何不自由ない生活であった。しかし、そのなかで、どうしても幸福を実感できなかった。幼時から母と離され、母の愛に飢えていた。兄弟のなかにおける疎外感は彼に劣等感を植えつけ、容貌や色黒といったささいなことでも劣等感は助長され心の負担は増した。彼は、幸福が決して物質の中になく、心のなかにあることを感づいていたのである。太宰が、文学の道を選んだというのも、そこに心の幸福、真の幸福を求めようとしたからである。太宰が、生家のいいなりになり、長兄の言に従って、地道に学問を積んでいれば、津軽屈指の大地主一族の一員としての物質的安定は保証されていたであろう。それを、あえて文学の道を選んだのである。この非実用的で無用で、物質的欲望には何の役にも立たない道を。
太宰文学は終始一貫、物質的幸福を否定し、精神の幸福、精神の豊かさを強調している。創作集『晩年』を中心とする前期の文学活動では<ダンデイズム>精神を根底に据えて精神の貴族を目ざしている。『晩年』を代表する「道化の華」は、まさに、<心>を中心にした幸福を描いたのであった。<狂言><虚構><道化>といった<虚>なるもの、無用のもの、空なるものに真善美を見ようとするのである。
同じく『晩年』中の「猿ケ島」で、主人(猿?)公の猿が、猿ヶ島の物質的生活的には安定した環境を捨てて、苦しみと不安があるかもしれないが、真の世界、本当の自由を求めて猿ケ島を脱出していく姿にもそれは出ていよう。その他さまざまに方法を工夫ながら、単なる受身の心の世界でなく、もっと積極的な心の世界、豊かな精神の世界、華美で、夢幻的で、豪華な心と聖心の世界を目ざしていくのである。しかし、その世界の追求にはやる余り、またその方法があまりに斬新すぎたために、物質中心の、功利精神から成り立つ現実社会から復讐され、挫折を味わい、一時沈黙する。
中期の太宰は、一歩後退したところで、<心の王者>を追究していく。物質を重んずる功利的現実へ一歩妥協し、そのなかで精神の貴族を目ざすのである。昭和十四年ころから、明るく健康な愛情のあふれた作品が数多く書かれるようになる。それらは前期の作品のような力みがなく、それだけ反俗姿勢は薄いがほのぽのとした愛情が色濃く流れているのである。
中期のこうした傾向はさらに進んでいくが、従来、太宰のデカダンスの傾向、反俗精神を強調する人々からは、それらはそれほど高く買われていない。しかし、<心の王者>として、心の幸福を目ざす太宰にとっては、それらこそ、一番大切な世界であり、中心的なものなのである。
中期のこうしたヒューマンな傾向、明るく健康な世界の典型が「津軽」なのである。その中で太宰は、自分は<愛情と真理の使徒>であり、<このたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追究した>と述べる。
この一科目とは<人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目>すなわち<愛>を研究する科目なのである。太宰が文学の道を選んだのもまさにここにある。<愛>を求め、<愛>の世界の構築のために文学にいそしんでいるのである。そうしてこそ、大宰は、<心の王者>となることができる幸福を手にすることもできるのである。「津軽」は<愛>を目ざす太宰の一つの到達を示す作品といえよう。
反俗の精神・価値の転倒
あるものに対する愛は、あるものに対する憎しみでもある。自然を愛する時、自然を破壊するものは憎しみの対象である。<愛>を<心の王者>を目ざす時、愛なき世界、物質中心の世界は憎しみと批判の対象となる。『晩年』巻頭の「葉」において<芸術の美は所詮、市民への奉仕の美である>といいながら、一方、<われは山賊。うぬが誇をかすめとらむ>といわざるを得ないのである。<心の王者>を目ざすゆえに、それを妨げるものを憎むのである。それは、俗世間の価値観に反抗することであり、反俗の精神となって現われてくるのである。
こうした<愛>と<反俗の精神>とが結びあったところに『斜陽』が位置しているともいえよう。『斜陽』の持っていた<恋と革命>と<没落への挽歌>という二つの主題は、かず子の<愛>と、直治や上原の<反俗の精神>へと平行移動することもできるのである。そして最後の傑作となった『人間失格」は、<愛>よりも<反俗精神>の強い作品であり、その意味では、太宰の従来めざしていた文学からはややはずれた作品だということができるだろう。
以上見てきたように太宰文学は、根底に、精神の貴族、<心の王者>を目ざした積極的側面をしっかりと持ったものなのである。実用性・功利性を重んずる現世の価値観に対して、<ナンセンスの美しさ>(「古典龍頭蛇尾」昭11)をいい、<無用ノ長物>を推賞し、<千代紙貼リマゼ、キレイナ小箱、コレ、何スルノ?ナンニモシナイ、コレグケノモノ、キレイデシヨ?>(「走ラヌ名馬」昭11)と、非実用の世界を強調していく。そこには俗世間の価値観に屈しない太宰の積極的側面が出ているといえる。
<心の王者>は、<詩人>を指す。昭和十五年一月二十五日付『三田新聞」に発表した「心の王者」において、<詩人>は、神の<光>に陶然と酔い、<夢の国>に遊んで<地上の事を忘れてゐた>。しかし<詩人>は<地上の営みに於いては、何の誇るところが無くっても、其の自由な高貴の憧れによって時々は神と共にさへ住めるのです>という。この<詩人>は、太宰自身の目ざすところのものであったということができよう。
今後への展望
このように、世間で思われているよりずっと積極姿勢を持っていた太宰文学なのに、その韜晦的文学方法から多くの誤解を招いている。それは<笑ひながら厳粛のことを語る>(「狂言の神」)、<君不看双眼色、不語似無愁(きみみずやそうがんのいろかたらざれぱうれいなきににたり)>(「虚構の春」)と随所で繰り返される姿勢である。自分の主張をあからさまに展開するのを避け、逆説的に、また、難解に表現することが多かった。それが太宰文学を多くの誤解の中に包んだ一つの原因でもあるだろう。
これからの太宰文学は、大宰の現実生活上のさまざまな伝説にまどわさることなく、作品に素直に接することにより、正しく受容読解されていくことが望まれる。太宰は作品の中で全てを語っている。太宰の作品に虚心に触れあうところから、正しい太宰像と太宰文学像とを築き上げていきたいものである。そうなった時に、太宰文学のために自殺したなどということは起こらなくなるであろう。
太宰の文学修業に費やしたエネルッギーは大変なものであった。古今東西の本を読み、何千枚もの習作を書き捨てた。その上に立って、流暢華麗な文体を持った太宰文学がある。田中英光、小山清といった弟子の作家もいたが、本質的に太宰を引書継いているとはいい難い。現在の多くの作家に、さまざまな影響を与えながらも、真の後継者は一人も出ていないのが太宰である。太宰文学は模倣者を許さぬ個性の強い文学である。もし模倣しても、亜流を出ぬ下品なものになってしまうであろう。そうした意味でも、太宰は天才的な作家であったということができよう。各人各様に、
それぞれ自分自身の手で太宰文学に臨むのが望ましいといえよう。
拙著『太宰治 心の王者』(洋々社)より
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