「駈込み訴へ」論
                         渡部芳紀
 一
 「駈込み訴へ」は重要な作品である。
 この作品は<十四年の十二月、炬燵に当つて、盃を含み乍ら、全部口述して出来た>(津島美智子「御崎町から三鷹へ」八雲書店版全集第四号附録、昭23・12)という。翌昭和十五年、「中央公論」二月政変号に発表になった。同号には新人創作特選が編まれ、石上玄一郎、北原武夫、大田洋子、壷井栄らとともに、太宰も新人として、この作品を発表したわけである。
 既に昭和十年九月、第一回芥川賞に次席となり、十一年六月には、第一創作集『晩年』を刊行していた太宰であったが、文壇内においては、まだ新人扱いであった。
 昭和十四年四月、「黄金風景」によって「国民新聞」の短篇小説コンクウル賞を受賞、「文学界」四月号には、「女生徒」を発表し大変評判が良く、ようやく作家としての位置が安定して来ていた。それに続いて、当時最も有力な雑誌の一つであった「中央公論」に作品を掲載ということで太宰としても力を入れて取り組んだことであろう。
 発表当時、<太宰治氏の「駈込み所へ」(中央公論)は昔も昔、大昔のユダの裏切りに現代心理の光りをあてて、才気煥発。だが太宰氏には矢張り現代人を相手にして貰ひたい>(高見順「新人論−明暗と混合1」、「文芸連盟」昭15・2)とか、
<太宰治の「駈込み所へ」はキリストを売るイスカリオテのユダの独白調にも、太宰独得の冴え冴えしたものは見当らない。本人は奇をてらはうとしてゐるのでもあるまいが、少し考へたはうがよいと思ふ>(嵯峨伝「創作月評」、「新潮」昭15・3)
と言ったような、作品の翻案小説の一面に触れた言及などが見られたが、それほど高い評価は与えられていない。
 その中で、無署名で「三田文学」(昭15・3)の「今月の小説」に載せられた<太宰治の「駆けこみ訴へ」はいよいよ太宰治独自の文学に驀進する光景がありありと見える。太宰はもう新人でない。新文学一方の旗頭で、このごろの流行作家たちを瞠着たらしめる筆力をもってゐる>という意見は、積極的にこの作品を評価したものとして注目されよう。
 しかし、これらはいずれも、文芸時評的なものとして、ごく表面的に作品に触れただけのものであって、本格的な分析をともなうものではなかった。
 それが、昭和十六年二月「三田文学」に発表になった岩上順一の「太宰治の一面」では、前後の作品に触れつつ、かなり本格的に作品の位置づけが行われた。
 そこでは、特に「走れメロス」(「新潮」昭15.5)と対比しつつ、「走れメロス」の<素朴な純粋な友情と信頼の貫徹>に<ギリシア的な、素朴にして強健な、開放的な人間性>を見、そこに、作者の<自由な、清爽な、空気と光に溢れたおほらかな世界を欲する心>をとらえるに対し、対称的に「駈込み訴へ」の中には、<暗い酷薄と不信のヘブライ的世界>を、作者の<自己を含めて人間に対する、底知れぬ恐しい不信と絶望>を見ている。なかなか卓見である。しかし、「駈込み訴へ」に、筆者の言うほどの<息詰まる自己呵責>(傍点渡部)がこめられているかどうかは、やや疑問である。それは、もう少し自嘲的な虚無を漂わせた自己批判だったのではなかろうか。このことは、後に論じてみたい。このように、初出の段階でいくらかの反応を呼び起こした作品であったが、この作品は、その後、創作集『女の決闘』(河出書房、昭15.6)に収められ、さらに、昭和十七年一月には、月曜社から、私家版『駈込み訴へ』とLて刊行された。太宰の刊行した数ある単行本の中で、私家版を出したのは、これだけであり、世評はともあれ、太宰自身の作品に対する大きな自負がそこにはうかがえるのである。
   二
 その後、この作品はどのように受け取られているのであろうか。
 臼井吉見は、「太宰治論」(筑摩書房『現代日本文筆全集第49巻』解説、昭29・9)において、この作品に言及し、ユダの裏切りに関して次のように論じている。

 太宰の文学は、なんらかのかたちで、人間への愛情を基調としていないものはない。だが、直接愛情をとりあげている作品でも、愛清が愛情として、正面きって現われるような、そういうたちの愛情は滅多に描かれない。正面きっての愛情のなかに、むしろエゴイズムを見出さざるをえず、憎悪のなかに、むしろ愛情を発見する。(中略)キリストを売ったイスカリオテのユダのなかに、むしろ真にはげしいキリストヘの愛を見出している(中略)。愛情はたえず憎悪に転化しつつあるもの、憎悪はつねに愛情に転化しつつあるもの、むしろ愛情のなかにのみ憎悪があり、憎悪のなかにのみ愛情があるというようたかたちでのみ見出されるものだ。
 (中略)太宰の倫理の構造そのものが、そういう弁証法的性格をおびているのだ。

 ここで、論者は、作品の一つの重要な特色を指摘している。作品の最初から最後まで、ユダの「旦那さま」に対する訴えかけの形を借りて話が展開しているのだが、そこに綿々と述べられるユダのキリストヘの愛憎の情が的確に把握されているのである。ほとんど段落も設けず、次々と吐き出されるユダのキリストヘの思いを把えることは極めて難しい。読者の側が混乱してしまうこともありそうな語り口である。それをみごとにとらえたことぱと言えよう。
 亀井勝一郎は、筑摩書房版全集第四巻解説(昭35・2)において、やや違った角度からこの作品に言及している。
 そこでは、まず、この作品の背景として<青年期における左翼非合法運動からの離脱と、そこでの心
理的体験がおそらく基礎となっているのではないか><その折の一種の狂気の思い出を、ユダに託したのではなかったか>という推測をする。
 昭和五年から七年にかけて太宰が非合法運動に接触し、それから身を引いたことをかなり重視しての発言である。運動から身を引いた時に感じた<「裏切り」とは何かという問題><人間の心の複雑で微妙な動きを、荒れ狂うような表現で伝えようとしている>とする。それを、「裏切り」をめぐっての愛憎、その時の心の複雑で微妙な動きという点だけにしぼって考えれば、臼井吉見の意見とも通じてくるものである。ただ、左翼の運動と、それほどかかわらせてよいものかどうか。その形においては確かに似た面も多いが、必ずしも、それほど具体的に関連させなくても良いように思う。
 さらに亀井は、<「駈込み所へ」は、この信頼と愛を求めたものの挫折の悲劇>であり、その対照的な位置に来るのが、「走れメロス」であると主張する。きわめて、漠然としたあいまいな言い方で、どうにでもとれる問題だが、「走れメロス」とある意味で対蹠的であることは、岩上順一なども言っているように間違いないことであろう。
 佐古純一郎は『太宰治におけるデカダンスの倫理』(春秋社、昭35・7)において、

 表面的にはユダの裏切りというテーマを取り扱った作品であるが、あそこで太宰が描こうとしたことは、太宰自身のなかにあったキリストヘのイメージではなかったろうか。ユダは巧みにだしに使われたかっこうなのである。

と述べている。<太宰自身のなかにあったキリストヘのイメージ>を読み取ることは正しい。しかし、ユダをして、単に<だし>としか見ないのは間連いである。この作品においては、ユダとキリストは対等であり、ユダの方が中心であるとさえいえるのである。そのことは後に詳説したい。
 奥野健男は筑摩書房版全集第三巻解説(昭37・5)において、<迫力あるたたみこむような独白体の中に、ユダのキリストヘの愛憎の心理が大きく揺れ動く>といった指摘や、<ユダの小人的、現実的な目からのキリスト批判も正確>という指摘をしている。前者は、臼井や亀井などの意見と共通するものであり、後者は、佐古の意見よりは、ユダの位置を正確にとらえていると言えよう。奥野は、さらに、<キリストとユダの関係は「右大臣実朝」の実朝と公暁の関係で再び追求される>と言及している。
 山田晃は、奥野とは逆に「作品におけるナショナリズム『右大臣実朝』」(「解釈と鑑賞」昭46・6)において、実朝・公暁の原流としての<イエスとユダとの緊張関係>に言及している。そこで山田は、

 ひたすら俗耳にさからう言説をはきながら滅びの道をたどるイエスと、イエスを愛し、専一にイエスらの台所むきの諸事をとりしきりながら、イエスを高踏から俗世へとひきもどそうとするユダ。イエスの魂の美しさと、自己の低俗とを知りながら、しかもイエスに厭われ、裏切り者と名ざされ、ついに自らの手で愛する師を滅亡へいざなうユダ。ここに、一時期の太宰の内面の揺れが語られているのは明らかである。

とする。。ユダとキリストの対応関係、その中に、当時の太宰の心の投影を見ようとするところなど、ことばは短いが実に良く「駈込み所へ」の核心にせまった言及である。

 以上、昭和の二〇年代から四〇年代にかけ「駈込み所へ」に関する諸家の意見を見て来たのであるが、それらは、作品論として正面から論じたものではなかった。作家論や、作家とキリスト教との関わりをさぐるためのものや、解説、他の作品との関連などによりわずかに触れたものであった。そこに、「駈込み訴へ」という作品の今まで置かれていた位置も反映しているわけであるが、それでも、以上の論及の中に、作品の主要な問題点は指摘されている。次に、もう少し問題点をしぼって作品を分析して行こうと思う。

   三
 二章で見て来た諸家の意見に多く共通するのは、ユダのキリストヘの愛憎の思いである。「駈込み訴へ」は、周知のように、新約聖書をもとにした翻案小説である。新約聖書の数多い話の中でも、最も有名な話の一つであるユダの裏切りの部分を取り上げ、マタイ伝やヨハネ伝を中心に話を作りあげたものである。原作においてはユダの裏切りは単純明快である。三十銀(約六万円)を得るためや、サタンが身にはいった故に自分の師を裏切り敵に売ったのである。が、そのあと良心に目ざめて自ら縊れて死ぬのである。
 この有名な話をとりあげて太宰が一編の小説を作りあげた。なぜ、この話を小説にしたのだろうか。
 「駈込み訴へ」が、ユダの裏切りに対する太宰の解釈であることは間違いあるまい。
 なぜ、一般に良く知られているユダの裏切りに新しい解釈を与えようとしたのか。そこで浮かび上がって来るのが、彼自身のなした数々の裏切りである。
 
 昭和五年から十一年にかけての太宰の生活は極端に言えば裏切ることの連続であった。昭和五年十月、青森より恋人の小山初代が出奔上京して来る。十一月末には、銀座のバアの女給と心中し相手を死なせる。昭和七年七月には、左翼運動から身を引く。昭和八〜十年ごろは、大学へ通学しているふりをして生活する。それらのことがらは、ある時は、青森の保守政治家として活躍していた長兄文治を中心と
する故郷への裏切りであり、初代への裏切りであり、友人への裏切りであった。
 こうした数々の裏切りを通して、太宰は、人を裏切る時の錯綜Lた心理を幾度となく味わった。その時の悩みと苦しみ、心の葛藤を、ユダの裏切りの中に投影させたのではなかろうか。そういう点では、先にあげた亀井勝一郎の意見もある程度は的をえたものと言うことができよう。ただ、その裏切りの思いは、数々の裏切りの体験から出て来たもので、特に左翼運動と限定する必要はないだろうと思うのである。
 このように諸家によってく弁証法的性格>(臼井)とか<人間の心の複雑で微妙な動き>(亀井)とか、<愛憎の心理が大きく揺れ動く>(奥野)とか言われるユダのキリストを裏切るさいの気持ちの変化には、太宰の現実の体験の裏打ちがあると推測することができる。
 が、そうした帰納的な見方と同時に、太宰が、この作品に、そうした錯綜した愛憎の表現を取り入れた背景として次のようなことも考えられないことはない。
 臼井吉見のことばを使えば<弁証法的>と言ってもいいのだろうが、太宰が、意識的にそうした弁証法的方法−相互浸透なり否定の否定なり-を取り入れていたとは充分に考えられる。
 昭和十三年十月号「新潮」に発表した「姥捨」には<反立法としての私の役割>とか<アンチテーゼ>といったことばが生きる姿勢の意味に使われており、昭和十五年「新潮」九月号の「近衛内閣へ望むもの」というアンケートで<唯物史観の徹底検討>といった言い方をしたり、唯物弁証法に対する理解は深かったと思われる。そこから、物事を絶対的な固定したものととらえるのでなく、相対的な運動をするものとしてとらえる姿勢もできていたと考えられる。念々と動く人間の心理をも、そうした位置から把握し表現していったのではなかろうか。
 さらに飛躍して関連づければ、アンドレ・ジイドの「ドストエフスキー論」などの影響も、そうした方法に取り入れられているのではなかろうか。
 早く昭和十年五月「日本浪曼派」に発表の「道化の華」を書くに当たり、その方法の上に「ドストエフスキー論」が大きな影響を与えたことは「川端康成へ」(「文芸通信」昭10.11)に明言されている事である。「ドストェフスキー論」の何が太宰に影響を与えたかは、はっきりと抽出はできないが、「道化の華」の大庭葉蔵と僕という二人の登場人物を合わせ鏡のように使って、主人公の全的な姿を表現しようとしたところなどにその影響は著しいと思われる。また、<美しい感情を以て、人は、悪い文学を作る>ということばの繰りかえしも、「ドストエフスキー論」の生まな反映であろう。そして、さらに、次の一文などは、「駈込み訴へ」にも通じる好個の例だと思われる。

 なにもかもさらけ出す。ほんたうは、僕はこの小説の一齣一齣の描写の間に、僕といふ男の顔を出させて、言はでものことをひとくさり述べさせたのにも、ずるい考へがあってのことなのだ。僕は、それを読者に気づかせずに、あの僕でもつて、こつそり特異なニユアンスを作品にもりたかつたのである。それは日本にまだないハイカラな作風であると自惚(うぬぼ)れてゐた。しかし、敗北した。いや、僕はこの敗北の告白をも、この小説のプランのなかにかぞへてゐた筈である。できれば僕は、もすこしあとでそれを言ひたかつた。いや、この言葉をさへ、僕ははじめから用意してゐたやうな気がする。ああ、もう僕を信ずるな。僕の言ふことをひとことも信ずるな。(「道化の華」)

 この不定さはどうだろう。ここには絶対ということはない。すべてが不安定に次々と移って行く。この移ろいは、「駈込み訴へ」のユダの、愛憎の移ろいにも通じるものであるだろう。こうした不定さは、「ドストエフスキー論」の説くところでもある。
 ドストエフスキーの特色をあげてジイドは言う。

 ドストエフスキーは思想を表白して了ふと、直ぐ自分の思想に対して方向を転換Lない事は稀だ(中略)。彼の思想は殆ど決して絶対的ではない。それ等はそれを表白する人物に殆ど常に相対的である。更に言ふならぱ、之等の人物に相対的であるのみならず、之等の人物の人生の一瞬間に対して相対的である。それ等の思想は、謂はば、之等の人物の特殊的で又瞬間的な状態によつて獲得される。(小西茂・武者小路実光訳)
 さらに、この思想や感情の相対性の上に、ジイドは、<感情の二重性>を指摘して行く。すなわち、瞬間々々に次々と変化して行く思想、感情が、単に、別々の時間に違った形を表わすだけでなく、同時に表われさえもするということを。
 ラスコーリニコフについて言う。

 <彼の内には二つの相反した性格があって、全くの所それが代る代るに現れるとでも言へるだらう>
<そして若し之等の性格が、交互にしか現れないとしたら、万事うまく行くだらう。併し我々はそれ等が同時に現れる事が度々あるのを見た>と。
 
 このように、「ドストエフスキー論」においては、ドストエフスキーの方法上の特色として、思想・感情の相対性と二重性が強調されているのである。そして、必ずしも、その影響とは言い切れないかも知れないが、太宰文学にも、同じような指摘が、「駈込み訴へ」以外にも随所でできるのである。

 男は、あの決闘の時、女房を殺せ!と願びました。と同時に、決闘やめろ!拳銃からりと投げ出して二人で笑へ、と危く叫ぼうとしたのであります。(中略)卑しい願望が、ちらと胸に浮ぶことは誰にだつてあります。時々刻々、美醜さまざまの想念が、胸に浮んでは消え、浮んでは消えて、さうして人は
生きてゐます。その場合に、醜いものだけを正体として信じ、美しい願望も人間には在るといふ事を忘れてゐるのは、間違ひであります。(「女の決闘」)
 
 数年前、私は或る雑誌社から「故郷に贈る言葉」を求められて、その返答に曰く、
汝を愛し、汝を憎む。(「津軽」)

 そして、そうした方法上の特色が、前面に押し出されたのが、この「駈込み訴へ」だと言うことができるのである。「旦那さま」のところに駈込んで来て、べらべらとキリストヘの思いをしゃぺり始めてより、その憎しみと愛との交錯した感情の起伏は、まさにその典型と言っていいであろう。このように、この作品の一つの中心となるのは、裏切り者ユダの、キリストヘの愛と憎しみの交錯した感情のみごとな表現であるということができるのである。

   四
 前章ではユダのキリストヘの愛憎を中心に作品を見て来たのであるが、本章では、ユダとキリストとの比較対照をしてみたい。
 ユダは、キリストを<美しい人><神の御子>と呼びとても愛していた。それはキリストが<精神家>で、<子供のやうに慾が無く><優し>く、<正し>く、<貧しい者の味方>で、<いつでも光るぱかりに美しかつた>からであった。が一方、<あの人は傲慢だ><青二才だ>とも思っている。そして、自分がキリストを愛しているのに、キリストは、自分を<軽蔑>し<賎しめ、憎悪して>おり、<きら>っていると思っている。そして、結局、キリストを裏切るにいたるのであった。
 このキリストとユダの間には一体、どういう溝があったのか。何ゆえに、その溝がついには二人を引き裂いたのかを考えてみたい。

 ユダは、<火と水と。永遠に解け今ふ事の無い宿命が、私とあいつとの間に在るのだ>という。キリストとユダとを、決定的に断ち切っているものは何か。それは、両者の生きる姿勢の違いによっているのである。
 ユダは現実主義着であり、現世における生活を大事にして生きて行こうとしている生活者である。彼は<今の、此の、現世の喜びだけを信じる>人間であり、<この世に暮して行くからには、どうしても誰かに、ぺこぺこ頭を下げなけれぱいけないのだし、さうして歩一歩、苦労して人を抑へてゆくより他に仕様がない>と思っている人物である。
 彼はそのように、現世の幸せを大事にし、生活を大事にしようとしている人間であるが、キリストの<美しさ>に対しても魅かれている。
 キリストの<美しさ>は、<精神家>の美しさであり、理想主義者の美しさである。キリストは<子供のやうに慾が無く>、ユダが差し出した<広い桃畠>を持った<小さい家>で<よい奥さま>と<一生、安楽に>暮らすという、つつましやかな幸福をも拒否するのである。キリストにとっては生活上の幸福、外面の幸福はとるに足らぬものなのである。そうした幸福を求めるあまり<外は美しく見ゆれども、内は死人の骨とさまざまの穢(けがれ)とに満>ちてしまったパリサイ人のよう人間になってしまうことを拒むのである。
 この現実主義者と、理想主義者、自分の外に王国を築こうとする者と、自分の内に真の王国を築こうとする者との違いが両者を決定的に隔ててしまっているものなのである。
 このように両者は全く違った価値観を持っているのであるが、ユダは、精神の美しさへの憧憬を完全には捨て切っていないのである。それが、この作品の一つのキイポイントである。徹底した現実主義者・生活者にユダがなりきってしまっていたら、初めからキリストなどは相手にしなかったであろう。そして、ユダがキリストを裏切るというような悲劇も起こらなかったであろう。
 が、ユダは、まだ徹底した生活者になりきっていなかった。精神の貴族に憧れていた。そして、キリストのうちにそれをみとめて、<あんな美しい人はこの世に無い>と思うくらいに愛を感じ、<あの人から離れたくないのだ。ただ、あの人の傍にゐて、あの人の声を聞き、あの人の姿を眺めて居れぽそれでよい>と思うのであった。が同時に、生活者ユダの目から見れば、生活というものを全く問題にせず、生活能力がないという風に見えるキリストが<青二才>ともとれるし、自分の信奉する現世の幸せという価値観に見むきもしないキリストを<傲慢>とも思うのである。
 心の一方に、生活に巧みな人間の、そうした傲慢な、キリストヘの思いがある反面、逆に、まだ不徹底な生活者であるユダの内面には、キリストの価値観の方が自分のそれよりも上ではないのかという不安、劣等感が広がって来るのである。そのひけ目が、<金銭ゆゑに、私は優美なあの人から、いつも軽蔑されて来た><あの人は私を賎しめ、憎悪して居ります。私は、きらはれて居ります>という思いを胸に抱いてしまうのである。そして、この劣等感が、ユダの心の中の猜疑心を、嫉妬心を増長させ、ついには愛するキリストを敵に売るにまで至るのである。
 このように、この作品においては、キリストとユダが、それぞれ、理想主義者・精神の貴族・内的充実をめざす人と、現実主義者・生活者とを象徴的に表わしていると考えられるのである。
   五
 三章においては、ユダのキリストに対する愛と憎しみの錯綜する状態を論じ、四章においては、ユダとキリストがそれぞれ生活者と理想家を象徴していることを論じたのであるが、この二つは、作品の縦糸と横糸を構成するところの重要な要素である。すなわち、ユダのキリストヘの思いを縦糸として作品の上に通しながら、そこに、ユダとキリストとの対比対照という横糸を織りなして行ったのである。しかも、そこに、実は巧みに、太宰自身の姿が織り出されているのである。

 太宰の姿は作品にどのように織りこまれているであろうか。
 まず、横糸であるユダとキリストとの対照の中に太宰の姿をさぐってみると、ユダもキリストも実は太宰なのだということがわかる。
 すなわち、太宰の内にある理想に向かって高く羽ばたき、より高き精神の美しき高所に至ろうとする姿がキリストに託され、太宰の内の、生活にかかずりあい、現に生きている人間である面がユダに託されているということが言えよう。
 そしてさらに言えば、いわゆる前期(昭八〜十二)の太宰の姿が前者に、中期(昭十三年末〜)の太宰の姿が後者に投影しているのだとも言えるだろう。
 前期の太宰は、自己の生活上の束縛をはらいのけ、理想を目ざし、純粋な生き方をめざして邁進して行った。そこでは、へんに生活を顧慮したりすることもなかった。「猿ケ島」(「文学界」昭10・9)の<ここはいいところだよ。日が当るし、木があるし、水の音が聞えるし、それにだいいち、めしの心配がいらないのだよ>という、生活上の幸福の誘惑の呼び声を拒否して動物園から脱走する猿の姿は鮮明に前期の太宰の生の姿勢を語っている。
 そうした太宰は、結局は、現実の壁にぶつかって挫折してしまった。十三年の秋以降の太宰の中には、生活とある程度妥協してでもともかく強く生きて行こうという姿勢が出て来る。
 <純粋を追うて、窒息するよりは、私は濁つても大きくなりたいのである。いまは、さう思つてゐる。なんのことはない、一言で言へる。負けたくないのである。>(「瀬惰の歌留多」、「文芸」昭14・4)ということぱははっきりとそういう姿勢を示している。しかし、キリストが前期の太宰を、ユダが中期の太宰を象徴的に表わしているとだけ言っても不充分である。そこに、先の、ユダのキリストヘの愛憎を組み合わせた時、当時の太宰の苦渋が浮かび上がって来るのである。

 三章に述べたように、この作品におけるユダのキリストヘの愛は錯綜している。その愛は憎しみとの二重性において同時に存在し、かつ、瞬間々々に相互に入れかわっている。こうした、ユダのキリストヘの思いも、そこに、生活者と理想家、中期と前期の太宰というものを考え合わせて来ると、非常に鮮明になって来る。
 中期的世界へはいっていった太宰は、すぐに完全な生活者に変貌したのではなかった。生活を大事にするという生き方を実践しつつ、その背後には、生活を大事にすることへの逡巡を常に感じていた。理想に向かう心も完全には捨て切れないで、常に、さめた眼を心の内に持っていた。その理想を忘れまいとするさめた眼差しは、結局戦後にまで保持されて、中期の生活重視は、完全なる生活者太宰を作りあげたわけではなかったことが後にははっきりして来る。そんな訳で、昭和十四、五年頃の太宰の生活への志向は、まだまだ逡巡をともなうものであった。そういう迷いがこの作品にもにじみ出ているのである。
 当時の太宰の胸の内には二つの思いが錯綜していたと考えられる。
 一つは、今まで(前期)の、自分の理想をめざしての純粋無垢な生き方を良しとし憧れつつ、それが感傷的・感覚的過ぎ、傲慢で叡知を忘れたものであったことを反省し批判する思いであり、一つは、現在(中期の初め)の、現実にある程度妥協し生活者として堅実に生きて行くことを肯定しつつ、それを不純なもの、今までの生き方への裏切りであると批判し現実に妥協することを息苦しく感じる思いである。
 当時の太宰の気持ちは、この両者の間を揺れ動いていたということが言えるだろう。
 
 つくづく私は、この十年来、感傷に焼けただれてしまつてゐる私自身の腹綿の愚かさを、恥づかしく思つた。叡智を忘れた私のけふまでの盲目の激情を、醜悪にさへ感じた。(「新樹の言葉」昭14・5)

 謙譲といふこと、ほんとうの謙譲といふこと、少しわかつてまゐりました。やつとわかりました。自分のちからの限度を知りまLた。(中略)いままでの自身の傲慢が、恥かしくて、たまりません。(山岸外史宛書簡、昭14・5・4)

 ここで忍従の鎖(くさり)を断ち切り、それがために、どんな悲惨の地獄に落ちても、私は後悔しないだらう。だめなのだ。もう、これ以上、私は自身を卑屈にできない。(中略)
 めちやなことをしたい。思い切つて、めちやなことを、やつてみたい。(「八十八夜」、「新潮」昭14・8)
 なんの放埒(はうらつ)もなくなつた。勇気も無い。たしかに、疑ひもなく、これは耄碌(まうろく)の姿でないか、ご隠居の老爺それと異るところが無い。(「八十八夜」)

 右に引用したいくつかの文は、そうした当時の太宰の揺れ動く思いの一端を写し出したものと言うことができるだろう。
 そして、その二つの錯綜する太宰の思いが「駈込み訴へ」における、ユダのキリストに対する愛と憎しみという錯綜した思いへと反映していると考えられるのである。 ユダのキリストを賛美し愛する思いは、太宰の内の前期の自分の生き方の純粋性への思いであり、キリストを<青二才>と批判する思いは、前期の己れの<感傷>と<叡智を忘れた>生き方を批判する思いの反映であろう。
 また、ユダが、キリストから<軽蔑>され<賎しめ>られていると感じるのは、中期的な道を歩み始めた自己に対する太宰の自己批判、自潮の思いをにじませたものであると見ることができるであろう。

 このように、愛と憎しみとの間を転々と揺れ動くユダのキリストヘの思いは、当時の太宰の自己の生きる姿勢に対する気持ちの揺れを反映させていると読むことができるのである。そして、そうした迷いのあげく、ユダは、キリストを殺す決意を固める。キリストの道が、結局は十字架に突き進むことを理解しているが故に、それを他人の手でなく自分でなそうとする。
 前期のような自分の生き方が、結局、現実の壁にぶつかって挫折することを知ったゆえに、生活を完全に無視した純粋な理想家などは、現実遊離もはなはだしく、存在不可能だということを知ったゆえに、太宰も、自分の中の理想家をめざす心を殺すのである。
 しかしそれは、心からの憎しみ、心からの軽蔑ゆえのものではなかった。心底ではそれをたたえ、それをあがめ、愛していながら、やむなく殺すのである。だから、そこには自嘲的な虚無の匂いが漂っているのである。現実の生活の上で、生活者の道を歩み始めた太宰が選べるそれが唯一の道だったのである。太宰は、おのれの中のキリストに別れを告げた。ユダがキリストを愛しつつ彼を敵に売ったように。ユダが訴えに走る夜道で鳴きさわぐ小鳥の声は、そうしたユダの胸内の良心のさえずりだったのであろう。

 これは、そっくりそのまま「火の鳥」(『愛と美について』所収、昭14・5)に使われているかたちでもある。
 「火の鳥」においては、女主人公の高野幸代が前期の太宰の理想を託されていると考えられ、高須隆哉が、中期の太宰の代弁者と見ることができるが、そこで高須は
<僕は、さちよを愛してゐる。愛して、愛して、愛してゐる。誰よりも高く愛してゐる>としながら、<あのひとの苦しさは、僕が一ばん知つてゐる。あのひとはいいひとだ。あのひとを腐らせては、いけない。ばかだ、ばかだ。(中略)死ね!僕が殺してやる>と、幸代を殺す決意を固めるのである。
 この昭和十四年と十五年に発表された作品(執筆で言えぱちょうど一年をへだてて書かれた)に、同じような、前期の自己の生き方への思いが語られていると見ることができるだろう。

 六
 このように、ユダのキリストヘの裏切りを描いたこの小説には、ユダのキリストヘの愛憎という一つの軸と、ユダとキリストとの対照というもう一つの軸を中心に一つの世界が作り出され、そこに、前期の純粋な、生活などには目もくれぬ、精神の王者をめざした太宰の姿と、中期の、生活に妥協を始めた太宰の姿とが投影され、結局、中期の世界に踏み入り、前期の己れを断ち切る様子が極めて象徴的に語られているということができるのである。
 その後の太宰は、もうしばらく生活者の道を歩いて行く。己れの新しい道を求めて。ただし、その生活に妥協したという程度が、一般俗人のそれでなかったのは勿論である。そうした太宰の前に、一つの到達点としての『正義と微笑』(錦城出版社、昭17・6)の世界が生まれるのである。
 <人間には、はじめから理想なんて、ないんだ。あつてもそれは、日常生活に即した理想だ。生活を離れた理想は、-ーああ、それは、十字架へ行く路なんだ。さうして、それは神の子の路である。>
 <人間なんて、どんないい事を言つたつてだめだ。生活のしつぽが、ぶらさがつてゐますよ。「物質的な鎖と束縛とを甘受せよ。我は今、精神的な束縛からのみ汝を解き放つのである。」これだ、これだ。みじめな生活のしつぽを、ひきずりながら、それでも救ひはある筈だ>
 <努めなければならぬ。十字架から、のがれようとしてゐるのではない。自分の醜いしつぽをごまかさず、これを引きずつて、歩一歩よろめきながら坂路をのぽるのだ。>
 「神の子」にはやはり一線を画しながらも、ここには、ユダとキリストとが歩み寄る姿が見られるのである。

  注@A拙著「太宰治論−中期を中心として」(「早稲田文学」昭46・11)参照。
(東郷克美・渡部芳紀編『作品論 太宰治』昭和49・6、双文社出版刊)所収。

「太宰治資料館」ホームページ


渡部芳紀研究室
(中央大学文学部文学科 国文学専攻)


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「心の王者・太宰治ーわたしの太宰治観」
                     渡 部 芳 紀


    <弱さの文学>への疑問
太宰文学を<弱さの文学>としたり<滅びの文学>としたりする見方がある。太宰の文学に影響されて自殺する青少年がいるということも聞く。が、はたして大宰治は本当に弱かったのか。大宰文学は人間の弱さを書いた文学なのか。たしかに、太宰文学に弱い部分を持った人間が登場する場合が多いのは否定できない。大宰が弱い面を持っていたのもたしかだろう。が、世の中に強いだけの人間がいないように、弱さだけの人間もいないだろう。太宰のなかには弱い面と同時に強い面が、太宰文学のなかに、弱さの面と同時に強さの側面が、不健康な傾向のなかにきわめて健康なものが、下降せんとする志向とともに上昇せんとする志向が、同時に存在しているのである。

   太宰文学を自分の弱さの根拠づけのために弱さの典型にしてしまったり、太宰の生き方を自分の人生の敗北の理由にしたりするのは身勝手というべきである。
 太宰は自分の弱い部分に苦しみ悩みながらも、なんとか生き続けようと苦闘したのだ。彼の文学は、その苦闘の反映であり、かつ、読者に対して、苦しくてもなんとか強く生きようとのはげましの思いで綴っているのである。世にいうように、ただ、自分の弱さを愚痴るためだけでどうして、あれだけの分量の小説を書く必要があろうか。
 太宰は、全集にして九巻の小説と一巻のエッセイを残した。一巻弱の習作も書いている。それは単なる弱さのあらわれでなく、むしろ、なんとか強く生きようとする太宰のもがぎ苦しんだ姿の象徴なのである。九巻分の小説を描くエネルギーは莫大なものである。太宰の持っている強い生命力の面にも目をやらなければならない。そうでなくては、延べ十六年間にわたる創作活動も維持できなかったであろうし、死後五十年近くにわたって、これだけ多くの読者を得ることもできなかったであろう。

      <心の王者>・精神の貴族・愛
 人は何を幸福とするのだろうか。金をたくさん得ることか。有名になり名誉を得ることか。衣食住に何不自由のない状態か。美しく賢い相手と結婚し安定した家庭を築くことか。たしかにそれらも幸福の構成要素の一つかもしれない。
 が、なによりも大切なことは、幸福は、衣、食、住、金などの物質的なものによっては決して得られない、もっと心や精神と深く関わった問題だということであろう。図式的にいえば、人間の真の幸福は、物質よりも精神の問題にかかっているということである。

 太宰は津軽でも屈指の大地主の家に生まれ育った。父親は、衆議院議員、貴族院議負なども勤めた。物質的には何不自由ない生活であった。しかし、そのなかで、どうしても幸福を実感できなかった。幼時から母と離され、母の愛に飢えていた。兄弟のなかにおける疎外感は彼に劣等感を植えつけ、容貌や色黒といったささいなことでも劣等感は助長され心の負担は増した。彼は、幸福が決して物質の中になく、心のなかにあることを感づいていたのである。太宰が、文学の道を選んだというのも、そこに心の幸福、真の幸福を求めようとしたからである。太宰が、生家のいいなりになり、長兄の言に従って、地道に学問を積んでいれば、津軽屈指の大地主一族の一員としての物質的安定は保証されていたであろう。それを、あえて文学の道を選んだのである。この非実用的で無用で、物質的欲望には何の役にも立たない道を。

 太宰文学は終始一貫、物質的幸福を否定し、精神の幸福、精神の豊かさを強調している。創作集『晩年』を中心とする前期の文学活動では<ダンデイズム>精神を根底に据えて精神の貴族を目ざしている。『晩年』を代表する「道化の華」は、まさに、<心>を中心にした幸福を描いたのであった。<狂言><虚構><道化>といった<虚>なるもの、無用のもの、空なるものに真善美を見ようとするのである。

 同じく『晩年』中の「猿ケ島」で、主人(猿?)公の猿が、猿ヶ島の物質的生活的には安定した環境を捨てて、苦しみと不安があるかもしれないが、真の世界、本当の自由を求めて猿ケ島を脱出していく姿にもそれは出ていよう。その他さまざまに方法を工夫ながら、単なる受身の心の世界でなく、もっと積極的な心の世界、豊かな精神の世界、華美で、夢幻的で、豪華な心と聖心の世界を目ざしていくのである。しかし、その世界の追求にはやる余り、またその方法があまりに斬新すぎたために、物質中心の、功利精神から成り立つ現実社会から復讐され、挫折を味わい、一時沈黙する。

   中期の太宰は、一歩後退したところで、<心の王者>を追究していく。物質を重んずる功利的現実へ一歩妥協し、そのなかで精神の貴族を目ざすのである。昭和十四年ころから、明るく健康な愛情のあふれた作品が数多く書かれるようになる。それらは前期の作品のような力みがなく、それだけ反俗姿勢は薄いがほのぽのとした愛情が色濃く流れているのである。

   中期のこうした傾向はさらに進んでいくが、従来、太宰のデカダンスの傾向、反俗精神を強調する人々からは、それらはそれほど高く買われていない。しかし、<心の王者>として、心の幸福を目ざす太宰にとっては、それらこそ、一番大切な世界であり、中心的なものなのである。
 中期のこうしたヒューマンな傾向、明るく健康な世界の典型が「津軽」なのである。その中で太宰は、自分は<愛情と真理の使徒>であり、<このたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追究した>と述べる。
 この一科目とは<人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目>すなわち<愛>を研究する科目なのである。太宰が文学の道を選んだのもまさにここにある。<愛>を求め、<愛>の世界の構築のために文学にいそしんでいるのである。そうしてこそ、大宰は、<心の王者>となることができる幸福を手にすることもできるのである。「津軽」は<愛>を目ざす太宰の一つの到達を示す作品といえよう。

   反俗の精神・価値の転倒
 あるものに対する愛は、あるものに対する憎しみでもある。自然を愛する時、自然を破壊するものは憎しみの対象である。<愛>を<心の王者>を目ざす時、愛なき世界、物質中心の世界は憎しみと批判の対象となる。『晩年』巻頭の「葉」において<芸術の美は所詮、市民への奉仕の美である>といいながら、一方、<われは山賊。うぬが誇をかすめとらむ>といわざるを得ないのである。<心の王者>を目ざすゆえに、それを妨げるものを憎むのである。それは、俗世間の価値観に反抗することであり、反俗の精神となって現われてくるのである。
 こうした<愛>と<反俗の精神>とが結びあったところに『斜陽』が位置しているともいえよう。『斜陽』の持っていた<恋と革命>と<没落への挽歌>という二つの主題は、かず子の<愛>と、直治や上原の<反俗の精神>へと平行移動することもできるのである。そして最後の傑作となった『人間失格」は、<愛>よりも<反俗精神>の強い作品であり、その意味では、太宰の従来めざしていた文学からはややはずれた作品だということができるだろう。

   以上見てきたように太宰文学は、根底に、精神の貴族、<心の王者>を目ざした積極的側面をしっかりと持ったものなのである。実用性・功利性を重んずる現世の価値観に対して、<ナンセンスの美しさ>(「古典龍頭蛇尾」昭11)をいい、<無用ノ長物>を推賞し、<千代紙貼リマゼ、キレイナ小箱、コレ、何スルノ?ナンニモシナイ、コレグケノモノ、キレイデシヨ?>(「走ラヌ名馬」昭11)と、非実用の世界を強調していく。そこには俗世間の価値観に屈しない太宰の積極的側面が出ているといえる。
 <心の王者>は、<詩人>を指す。昭和十五年一月二十五日付『三田新聞」に発表した「心の王者」において、<詩人>は、神の<光>に陶然と酔い、<夢の国>に遊んで<地上の事を忘れてゐた>。しかし<詩人>は<地上の営みに於いては、何の誇るところが無くっても、其の自由な高貴の憧れによって時々は神と共にさへ住めるのです>という。この<詩人>は、太宰自身の目ざすところのものであったということができよう。

   今後への展望
 このように、世間で思われているよりずっと積極姿勢を持っていた太宰文学なのに、その韜晦的文学方法から多くの誤解を招いている。それは<笑ひながら厳粛のことを語る>(「狂言の神」)、<君不看双眼色、不語似無愁(きみみずやそうがんのいろかたらざれぱうれいなきににたり)>(「虚構の春」)と随所で繰り返される姿勢である。自分の主張をあからさまに展開するのを避け、逆説的に、また、難解に表現することが多かった。それが太宰文学を多くの誤解の中に包んだ一つの原因でもあるだろう。
 これからの太宰文学は、大宰の現実生活上のさまざまな伝説にまどわさることなく、作品に素直に接することにより、正しく受容読解されていくことが望まれる。太宰は作品の中で全てを語っている。太宰の作品に虚心に触れあうところから、正しい太宰像と太宰文学像とを築き上げていきたいものである。そうなった時に、太宰文学のために自殺したなどということは起こらなくなるであろう。

 太宰の文学修業に費やしたエネルッギーは大変なものであった。古今東西の本を読み、何千枚もの習作を書き捨てた。その上に立って、流暢華麗な文体を持った太宰文学がある。田中英光、小山清といった弟子の作家もいたが、本質的に太宰を引書継いているとはいい難い。現在の多くの作家に、さまざまな影響を与えながらも、真の後継者は一人も出ていないのが太宰である。太宰文学は模倣者を許さぬ個性の強い文学である。もし模倣しても、亜流を出ぬ下品なものになってしまうであろう。そうした意味でも、太宰は天才的な作家であったということができよう。各人各様に、 それぞれ自分自身の手で太宰文学に臨むのが望ましいといえよう。
         拙著『太宰治 心の王者』(洋々社)より


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