「 走 れ メ ロ ス 」 論

                                     (渡部芳紀)


 「走れメロス」は、昭和十五年五月号、「新潮」に発表された。
 発表当時、世間は、賛否両論で迎えた。
最も支持したのは、岩上順一である。
<非常に面白かつたし、また非常に立派な作品だと思つて、ノートを取らうとした位であつた。それはこの作品のなかに、非常に高い主題が含まれてゐると思つたからである。(中略)人間性の普遍的な美しい一面が強く生きてゐるのだ。(中略)人間性の最高の美しさが溢れてゐるのだ。(中略)太宰氏の仕事のうちでもつとも注目すべきものであらう(中略)「走れメロス」が、単なる伝説としての力を超えて、もつともつと生々しく胸を打つ現実性を持ち得たのは、実に作者自身の、このやうな血路的な人間愛情の真実がそこにこめられてゐたからであらうと思ふ。>(「太宰治の一面」「三田文学」昭和十六年二月号)

実に強い賛意である。ここに紹介したのはほんの一部で原文はもっとスペースを割いて具体的に魅力を語っている。
岩上ほど強力ではないものの、
無署名<達者な手法の短編>(「新潮」「三田文学」昭和十五年六月号)
K・G<伝説からとつた物語だが、先頃のユダなどより才気がギラギラしないで、数倍愉しい。更に簡潔に書かれてあつたら好小品となつたであらう。>(「作品短評」「文芸」昭和十五年六月号)
といった、支持の言葉もあった。
中村地平<古典的物語の新しい解釈といふよりか、自己の人生感をその物語のなかに仮託して述べようとしたもの、>(「太宰治著『女の決闘』」、「新潮」昭和十五年八月)といった言葉は、旧友の暖かき支援であろう。
一方、
平山吉璋<「走れメロス」以下の三(注−「走れメロス」「駈込み訴へ」「盲人独笑」は、全く認める気がしない。(中略)まつたうな行き方では、決してない。必ず時の淘汰に遭ふ性質を有するものである。>(「太宰治の小説と私」「こをろ」昭和十五年九月)
嵯峨伝<太宰治の「走れメロス」はいふほど のこともない。>(「創作月評」「新潮」昭 和十五年六月号)
のような全く評価しない発言もあった。

 こうした、「走れメロス」に対する高い評価から無視までの反応はそれぞれ作品の一面を突いていると思われる。

 作品発表から五十六年経過した今日では、映画化されたり教科書に掲載されたりと高い評価が下されている。特に中学校の教科書で日本人の大多数の人間が触れることにより太宰治の作品のなかでも最も知られた作品であり、さらには日本の近代文学のなかでも最も読まれている作品の一つとなっているのである。
 今回は、そうした賛否に包まれた作品を素直に読みなおしてみようと思う。数ある作品解釈が已にありそこに付け足すことはできないかもしれないが少しでもヒントになるものが示せれば幸いである。

素材
太宰治の創作の方法の一つに翻案がある。世間に知られた有名な作品を素材に作者一流のデフォルメを施して自分の作品に仕立てるのである。中国の「すいこでん」を使った滝沢馬琴の「南総里見八犬伝」、芥川が日本野古典を典拠に書いた「羅生門」「芋粥」「鼻」ほか日本文学にも例が多い。芥川に文学を学んだ太宰治は「斜陽」「お伽草紙」「西鶴諸国噺」ほか多数の翻案物をものしている。特に、この「走れメロス」の書かれた昭和十五年ころからそれが目立ってくる。
その背景としては、前期(昭和七年〜十二年)に、自己を素材とした私小説(それは多分にデフォルメを加えたものであったが)を書くことで世間の誤解を受け手ひどい打撃を受けた結果、私を素材とする作品をなるべく避けようとしたこと。次第に厳しさを増していった戦時下にあって極力自己を韜晦しようとしたこと。いうなれば生な表現を避けたのである。間接的に他のものを借りて自己表現することが多くなってくるのである。「走れメロス」もそうした側面を持つ作品の一つといえよう。
「走れメロス」の末尾には、太宰治の添え書きで<(古伝説と、シルレルの詩から。)>と記されている。山下肇が「太宰治『走れメロス』」(「教育科学・国語教育」昭和三十八年七月)で指摘して以来、数多くの論者が出典の古伝説とシルレルの詩について触れてきた。それらにより太宰治が典拠とした作品が明らかになってきた。角田旅人が「『走れメロス』材源考」(「香川大学一般教育研究」第二十四号、昭和五十八年十二月)で指摘しているように典拠は、小栗孝則訳「新編シラー詩」(改造社、昭和十二年七月刊)所載の「人質 譚詩」と言ってほぼ間違いないだろう。原文を紹介していると以来の枚数を越してしまうので示せないガ登場人物の名前の付け方、太宰治の使っている表現の各部分から太宰が出典をかなり忠実に、いやむしろ原典に寄り掛かって作品を書いていることが分かる。指導書に紹介されているのかもしてないがそれは必ず小栗訳でなければならない。現在、一番手に入れ易いのは、筑摩書房版の最新の全集の第三巻の山内詳史の「解題」に紹介されているものでろう(もちろん改造差版を参照するに越したことはないが)。大変明晰な訳なので中学の教場においても十分使える。出来れば出典を示して生徒にじかに比較検討させれば作品の作られ方の勉強にもなって一石二鳥であろう。

構成
 作品の構成は読者、享受者が自己の便宜のために仮に設定するものであって決定的な正解というものがあるわけではない。おおよそ皆に共通するものであれば多少の食い違いは許される。指導書にも一つの参考が示されているのであって絶対にそう分けなければならないという訳ではない。教室での指導者が納得のいく構成を採っていいのである。
ここでは、とりあえず、一番分かりやすい四段構成で考えてみる。
第一段(起)・第一日目
第二段(承)・第二日目・三日目
第三段(転)・第四日目
第四段(結)・第四日目夕方
大変すっきりした構成になる。以下少し詳しく検討してみよう。

第一段(起)
 シラクスを訪れたメロスは暴虐な王を殺そうとし捕まる。妹の結婚のため三日間の猶予をもらい親友セリヌンチュウスを身代わりにして村に戻る。

第二段(承)・第二日目・三日目
夜を徹して村に戻ったメロスは妹に翌日結婚式をあげると告げ、その婿を説得し翌日結婚式をとりおこなう。

三段(転)・第四日目
薄明に友の待つシラクスへ殺されるため出発したメロスは川の氾濫や盗賊の襲来という苦難を乗り越える。しかし、疲労のため倒れ身代わりの友を助けることを諦める。

第四段(結)・第四日目夕方 清水を飲んで体力気力を回復したメロスは友を救い自分が殺されるためにシラクスへ向かう。約束の期限ぎりぎりの陽が沈む寸前刑場に到着し友を救う。王は、この世に信実があることを目の当たりにして改心し二人の仲間に入れてもらう。

いじょうのような纏めになろうか。
次に各段落を少し眺めてみよう。

第一段(起)
 まずメロスの激怒とその理由を語る。  その際、主人公のメロスの紹介(肉付け)もする。このあたりは全て太宰の創作である。
冒頭、<メロスは激怒した。>と書いて読者を引きつけるのはさすがである。
 その後、<けふ未明><シラクスの市>にやって来たと時間と場所を示す。何故シラクスに来たかを語りながら、結婚をひかえた十六歳の妹とシラクスに住む親友の石工セリヌンテイウスという二人の重要な登場人物の紹介もしていく。
登場人物紹介の後、メロスが激怒した原因を語り始める。その結びが<メロスは激怒した。「呆れた王だ。生かして置けぬ。」>で、冒頭に戻ることになる。
 以上が第一段の前半であり、全体の導入部となる。

次に、メロスの実際の行動を描写する。暴君デイオニスに向かいメロスは<「人の心を疑ふのは、最も恥づべき悪徳だ。」>と諌めるが王は、<「人の心は、あてにならない。人間は、もともと私欲のかたまりさ。信じては、ならぬ。」>と言いながらも、<「わしだつて、平和を望んでゐるのだが。」>とため息をつきながら言ふ。この部分は作品の条件付けとして最も大切な所でしっかりと押さえて置きたい。<平和をのぞんでゐるのだが。>の言葉は、後の王の改心の伏線である。
メロスは、突然<「ただ、私に情けをかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を下さい。」>と言いだす。あれだけ激怒していたのに突然の依頼である。ここは、<ただ情けをかけたいつもりなら/三日間の日限をあたへてほしい>というとほとんど一致する。出典を特定出来る理由の一つである。友を人質にとメロスが申し出ると、<それを聞いて王は、残虐な気持ちで、そつと北叟笑んだ。>とある。<それを聞きながら王は残虐な気持で北叟笑んだ。>という原文とほぼ同じである。
願いは聞き入れられ親友セリヌンチィウスが呼び出され人質となり<メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。>と第一段を結ぶ。
第一段の最後に、一回り大きな時間<初夏>が示される(もちろんもっと基本的な古代ということは末尾に提示されるのだが)。ここで、何時、何処で、誰が、何をした、という小説の基本的要素が示された事になる。

第二段(承)・第二日目・三日目
 メロスが友を人質に置くことになった原因である妹の結婚式の挙行の部分である。
まず妹に翌日の結婚式を納得させ次に婿の説得にあたる。難航した上やっと納得してもらい翌日結婚式をとりおこなう。<宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆ひ、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すやうな大雨となつた。祝宴に列席してゐた村人たちは、何か不吉なものを感じた>と結婚式の最中に雨が降りだし第三段のだいいちの障害の伏線が示される。
さらに結婚式の最中、メロスは、<しばらくは、王との約束をさへ忘れてゐた。(中略)メロスは一生このままここにゐたい、と思つた。>といった<未練の情>が湧いたりもしたが、<わが身に鞭打ち、つひに出発ぽ決意する。その際、花嫁に<おまへの兄の、一ばんきらひなものは、人を疑ふ事と、それから、嘘をつく事だ。>とメロスの信条が語られる。<信実>の構成要素の一つであろう。
メロスは出発前の眠りにつく。

三段(転)・第四日目
 起承転結の…転に当たる段落である。数々の障害がメロスを襲う。 目がさめたメロスは<約束の刻限までには十分間に合ふ。けふは是非とも、あの王に、人の信実の存するところを見せてやらう。(中略)悠々と身仕度をはじめ><ぶるんと両腕を大きく振つて、雨中、矢の如く走り出た。>
メロスは<私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。身代りの友を救ふ為に走るのだ。王の奸侫邪智を打ち破る為に走るのだ。(中略)メロスはつらかつた。幾度か、立ちどまりさうになつた。えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走つた。>と描かれる。後に信実の権化のようになるメロスだが障害に出くわす前からこのように弱い心が湧いていたのだ。それでこそ血の通った人間といえよう。
そうしたわき上がる弱い心をはねのけてメロスは進んで行った。そこへ二度に渡る災難川の氾濫と盗賊の襲撃に遭遇する。
どうやら勇気をもってそれらをはねのけたが疲労の為ついに倒れてしまい起き上がる気力もなくなる。<もう、どうでもいいといふ、勇者に不似合ひな不貞腐れた根性が、心の隅に巣喰つた。><友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝>と思いつつも<正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、くだらない。(中略)どうとも、勝手にするがよい。>といった投げやりな心が湧いてきて眠ってしまう。
メロスのなかの弱い心を提示した部分である。こうした弱さを克服してこそ真の信実が実現するのだろう。

第四段(結)・第四日目夕方
 清水を飲むことで体力と気力を回復したメロスが信実を遂行するため刑場に到達、友を救い王をして<おまえらは、わしの心に勝つたのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかつた。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。>と人を信じられぬせかいから解放された様子を写して作品を終わる。

まとめ
このように、人の信実を描くにあたってもただ表面的、一方的に主張するのでなく、その背後の弱さ、相反する心の世界も摘出し立体的な姿で浮かび上がらせているのである。弁証法を学び、また前期、理想を追いながらも相反する方向へと走ってしまった体験、また前期の終わりに友や先輩や妻に裏切られた体験を踏まえて、人の世の信実というものへ夢、祈りをこの作品を通して語ったのである。
                   (『月刊国語教育』1996年5月号) 



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渡部芳紀研究室


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「心の王者・太宰治ーわたしの太宰治観」
                     渡 部 芳 紀


    <弱さの文学>への疑問
太宰文学を<弱さの文学>としたり<滅びの文学>としたりする見方がある。太宰の文学に影響されて自殺する青少年がいるということも聞く。が、はたして大宰治は本当に弱かったのか。大宰文学は人間の弱さを書いた文学なのか。たしかに、太宰文学に弱い部分を持った人間が登場する場合が多いのは否定できない。大宰が弱い面を持っていたのもたしかだろう。が、世の中に強いだけの人間がいないように、弱さだけの人間もいないだろう。太宰のなかには弱い面と同時に強い面が、太宰文学のなかに、弱さの面と同時に強さの側面が、不健康な傾向のなかにきわめて健康なものが、下降せんとする志向とともに上昇せんとする志向が、同時に存在しているのである。

   太宰文学を自分の弱さの根拠づけのために弱さの典型にしてしまったり、太宰の生き方を自分の人生の敗北の理由にしたりするのは身勝手というべきである。
 太宰は自分の弱い部分に苦しみ悩みながらも、なんとか生き続けようと苦闘したのだ。彼の文学は、その苦闘の反映であり、かつ、読者に対して、苦しくてもなんとか強く生きようとのはげましの思いで綴っているのである。世にいうように、ただ、自分の弱さを愚痴るためだけでどうして、あれだけの分量の小説を書く必要があろうか。
 太宰は、全集にして九巻の小説と一巻のエッセイを残した。一巻弱の習作も書いている。それは単なる弱さのあらわれでなく、むしろ、なんとか強く生きようとする太宰のもがぎ苦しんだ姿の象徴なのである。九巻分の小説を描くエネルギーは莫大なものである。太宰の持っている強い生命力の面にも目をやらなければならない。そうでなくては、延べ十六年間にわたる創作活動も維持できなかったであろうし、死後五十年近くにわたって、これだけ多くの読者を得ることもできなかったであろう。

      <心の王者>・精神の貴族・愛
 人は何を幸福とするのだろうか。金をたくさん得ることか。有名になり名誉を得ることか。衣食住に何不自由のない状態か。美しく賢い相手と結婚し安定した家庭を築くことか。たしかにそれらも幸福の構成要素の一つかもしれない。
 が、なによりも大切なことは、幸福は、衣、食、住、金などの物質的なものによっては決して得られない、もっと心や精神と深く関わった問題だということであろう。図式的にいえば、人間の真の幸福は、物質よりも精神の問題にかかっているということである。

 太宰は津軽でも屈指の大地主の家に生まれ育った。父親は、衆議院議員、貴族院議負なども勤めた。物質的には何不自由ない生活であった。しかし、そのなかで、どうしても幸福を実感できなかった。幼時から母と離され、母の愛に飢えていた。兄弟のなかにおける疎外感は彼に劣等感を植えつけ、容貌や色黒といったささいなことでも劣等感は助長され心の負担は増した。彼は、幸福が決して物質の中になく、心のなかにあることを感づいていたのである。太宰が、文学の道を選んだというのも、そこに心の幸福、真の幸福を求めようとしたからである。太宰が、生家のいいなりになり、長兄の言に従って、地道に学問を積んでいれば、津軽屈指の大地主一族の一員としての物質的安定は保証されていたであろう。それを、あえて文学の道を選んだのである。この非実用的で無用で、物質的欲望には何の役にも立たない道を。

 太宰文学は終始一貫、物質的幸福を否定し、精神の幸福、精神の豊かさを強調している。創作集『晩年』を中心とする前期の文学活動では<ダンデイズム>精神を根底に据えて精神の貴族を目ざしている。『晩年』を代表する「道化の華」は、まさに、<心>を中心にした幸福を描いたのであった。<狂言><虚構><道化>といった<虚>なるもの、無用のもの、空なるものに真善美を見ようとするのである。

 同じく『晩年』中の「猿ケ島」で、主人(猿?)公の猿が、猿ヶ島の物質的生活的には安定した環境を捨てて、苦しみと不安があるかもしれないが、真の世界、本当の自由を求めて猿ケ島を脱出していく姿にもそれは出ていよう。その他さまざまに方法を工夫ながら、単なる受身の心の世界でなく、もっと積極的な心の世界、豊かな精神の世界、華美で、夢幻的で、豪華な心と聖心の世界を目ざしていくのである。しかし、その世界の追求にはやる余り、またその方法があまりに斬新すぎたために、物質中心の、功利精神から成り立つ現実社会から復讐され、挫折を味わい、一時沈黙する。

   中期の太宰は、一歩後退したところで、<心の王者>を追究していく。物質を重んずる功利的現実へ一歩妥協し、そのなかで精神の貴族を目ざすのである。昭和十四年ころから、明るく健康な愛情のあふれた作品が数多く書かれるようになる。それらは前期の作品のような力みがなく、それだけ反俗姿勢は薄いがほのぽのとした愛情が色濃く流れているのである。

   中期のこうした傾向はさらに進んでいくが、従来、太宰のデカダンスの傾向、反俗精神を強調する人々からは、それらはそれほど高く買われていない。しかし、<心の王者>として、心の幸福を目ざす太宰にとっては、それらこそ、一番大切な世界であり、中心的なものなのである。
 中期のこうしたヒューマンな傾向、明るく健康な世界の典型が「津軽」なのである。その中で太宰は、自分は<愛情と真理の使徒>であり、<このたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追究した>と述べる。
 この一科目とは<人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目>すなわち<愛>を研究する科目なのである。太宰が文学の道を選んだのもまさにここにある。<愛>を求め、<愛>の世界の構築のために文学にいそしんでいるのである。そうしてこそ、大宰は、<心の王者>となることができる幸福を手にすることもできるのである。「津軽」は<愛>を目ざす太宰の一つの到達を示す作品といえよう。

   反俗の精神・価値の転倒
 あるものに対する愛は、あるものに対する憎しみでもある。自然を愛する時、自然を破壊するものは憎しみの対象である。<愛>を<心の王者>を目ざす時、愛なき世界、物質中心の世界は憎しみと批判の対象となる。『晩年』巻頭の「葉」において<芸術の美は所詮、市民への奉仕の美である>といいながら、一方、<われは山賊。うぬが誇をかすめとらむ>といわざるを得ないのである。<心の王者>を目ざすゆえに、それを妨げるものを憎むのである。それは、俗世間の価値観に反抗することであり、反俗の精神となって現われてくるのである。
 こうした<愛>と<反俗の精神>とが結びあったところに『斜陽』が位置しているともいえよう。『斜陽』の持っていた<恋と革命>と<没落への挽歌>という二つの主題は、かず子の<愛>と、直治や上原の<反俗の精神>へと平行移動することもできるのである。そして最後の傑作となった『人間失格」は、<愛>よりも<反俗精神>の強い作品であり、その意味では、太宰の従来めざしていた文学からはややはずれた作品だということができるだろう。

   以上見てきたように太宰文学は、根底に、精神の貴族、<心の王者>を目ざした積極的側面をしっかりと持ったものなのである。実用性・功利性を重んずる現世の価値観に対して、<ナンセンスの美しさ>(「古典龍頭蛇尾」昭11)をいい、<無用ノ長物>を推賞し、<千代紙貼リマゼ、キレイナ小箱、コレ、何スルノ?ナンニモシナイ、コレグケノモノ、キレイデシヨ?>(「走ラヌ名馬」昭11)と、非実用の世界を強調していく。そこには俗世間の価値観に屈しない太宰の積極的側面が出ているといえる。
 <心の王者>は、<詩人>を指す。昭和十五年一月二十五日付『三田新聞」に発表した「心の王者」において、<詩人>は、神の<光>に陶然と酔い、<夢の国>に遊んで<地上の事を忘れてゐた>。しかし<詩人>は<地上の営みに於いては、何の誇るところが無くっても、其の自由な高貴の憧れによって時々は神と共にさへ住めるのです>という。この<詩人>は、太宰自身の目ざすところのものであったということができよう。

   今後への展望
 このように、世間で思われているよりずっと積極姿勢を持っていた太宰文学なのに、その韜晦的文学方法から多くの誤解を招いている。それは<笑ひながら厳粛のことを語る>(「狂言の神」)、<君不看双眼色、不語似無愁(きみみずやそうがんのいろかたらざれぱうれいなきににたり)>(「虚構の春」)と随所で繰り返される姿勢である。自分の主張をあからさまに展開するのを避け、逆説的に、また、難解に表現することが多かった。それが太宰文学を多くの誤解の中に包んだ一つの原因でもあるだろう。
 これからの太宰文学は、大宰の現実生活上のさまざまな伝説にまどわさることなく、作品に素直に接することにより、正しく受容読解されていくことが望まれる。太宰は作品の中で全てを語っている。太宰の作品に虚心に触れあうところから、正しい太宰像と太宰文学像とを築き上げていきたいものである。そうなった時に、太宰文学のために自殺したなどということは起こらなくなるであろう。

 太宰の文学修業に費やしたエネルッギーは大変なものであった。古今東西の本を読み、何千枚もの習作を書き捨てた。その上に立って、流暢華麗な文体を持った太宰文学がある。田中英光、小山清といった弟子の作家もいたが、本質的に太宰を引書継いているとはいい難い。現在の多くの作家に、さまざまな影響を与えながらも、真の後継者は一人も出ていないのが太宰である。太宰文学は模倣者を許さぬ個性の強い文学である。もし模倣しても、亜流を出ぬ下品なものになってしまうであろう。そうした意味でも、太宰は天才的な作家であったということができよう。各人各様に、 それぞれ自分自身の手で太宰文学に臨むのが望ましいといえよう。
         拙著『太宰治 心の王者』(洋々社)より


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