一章
黄昏のころ私は叔母と並んで門口に立っていた。叔母は誰かをおんぶしているらしく、ねんねこを着て居た。その時の、ほのぐらい街路の静けさを私は忘れずにいる。叔母は、てんしさまがお隠れになったのだ、と私に教えて、生き神様、と言い添えた。いきがみさま、と私も興深げに呟いたような気がする。それから、私は何か不敬なことを言ったらしい。叔母は、そんなことを言うものでない、お隠れになったと言え、と私をたしなめた。どこへお隠れになったのだろう、と私は知っていながら、わざとそう尋ねて叔母を笑わせたのを思い出す。
私は明治四十二年の夏の生れであるから、此の大帝崩御のときは数えどしの四つをすこし越えていた。多分おなじ頃の事であったろうと思うが、私は叔母とふたりで私の村から二里ほどはなれた或る村の親類の家へ行き、そこで見た滝を忘れない。滝は村にちかい山の中にあった。青々と苔の生えた崖から幅の広い滝がしろく落ちていた。知らない男の人の肩車に乗って私はそれを眺めた。何かの社が傍にあって、その男の人が私にそこのさまざまな絵馬を見せたが私は段々とさびしくなって、がちゃ、がちゃ、と泣いた。私は叔母をがちゃと呼んでいたのである。叔母は親類のひとたちと遠くの窪地に毛氈を敷いて騒いでいたが、私の泣き声を聞いて、いそいで立ち上った。そのとき毛氈が足にひっかかったらしく、お辞儀でもするようにからだを深くよろめかした。他のひとたちはそれを見て、酔った、酔ったと叔母をはやしたてた。私は遥かはなれてこれを見おろし、口惜しくて口惜しくて、いよいよ大声を立てて泣き喚いた。またある夜、叔母が私を捨てて家を出て行く夢を見た。叔母の胸は玄関のくぐり戸いっぱいにふさがっていた。その赤くふくれた大きい胸から、つぶつぶの汗がしたたっていた。叔母は、お前がいやになった、とあらあらしく呟くのである。私は叔母のその乳房に頬をよせて、そうしないでけんせ、と願いつつしきりに涙を流した。叔母が私を揺り起した時は、私は床の中で叔母の胸に顔を押しつけて泣いていた。眼が覚めてからも、私はまだまだ悲しくて永いことすすり泣いた。けれども、その夢のことは叔母にも誰にも話さなかった。
二章
いい成績ではなかったが、私はその春、中学校へ受験して合格をした。私は、新しい袴と黒い沓下とあみあげの靴をはき、いままでの毛布をよして羅紗のマントを洒落者らしくボタンをかけずに前をあけたまま羽織って、その海のある小都会へ出た。そして私のうちと遠い親戚にあたるそのまちの呉服店で旅装を解いた。入口にちぎれた古いのれんをさげてあるその家へ、私はずっと世話になることになっていたのである。
三章
四年生になってから、私の部屋へは毎日のようにふたりの生徒が遊びに来た。私は葡萄酒と鯣をふるまった。そうして彼等に多くの出鱈目を教えたのである。炭のおこしかたに就いて一冊の書物が出ているとか、「けだものの機械」という或る新進作家の著書に私がべたべたと機械油を塗って置いて、こうして発売されているのだが、珍らしい装幀でないかとか、「美貌の友」という翻訳本のところどころカットされて、そのブランクになっている箇所へ、私のこしらえたひどい文章を、知っている印刷屋へ秘密にたのんで刷りいれてもらって、これは奇書だとか、そんなことを言って友人たちを驚かせたものであった。
みよの思い出も次第にうすれていたし、そのうえに私は、ひとつうちに居る者どうしが思ったり思われたりすることを変にうしろめたく感じていたし、ふだんから女の悪口ばかり言って来ている手前もあったし、みよに就いて例えほのかにでも心を乱したのが腹立しく思われるときさえあったほどで、弟にはもちろん、これらの友人たちにもみよの事だけは言わずに置いたのである。
ところが、そのあたり私は、ある露西亜の作家の名だかい長編小説を読んで、また考え直して了った。それは、ひとりの女囚人の経歴から書き出されていたが、その女のいけなくなる第一歩は、彼女の主人の甥にあたる貴族の大学生に誘惑されたことからはじまっていた。私はその小説のもっと大きなあじわいを忘れて、そのふたりが咲き乱れたライラックの花の下で最初の接吻を交したペエジに私の枯葉の枝折をはさんでおいたのだ。私もまた、すぐれた小説をよそごとのようにして読むことができなかったのである。私には、そのふたりがみよと私とに似ているような気分がしてならなかった。私がいま少しすべてにあつかましかったら、いよいよ此の貴族とそっくりになれるのだ、と思った。そう思うと私の臆病さがはかなく感じられもするのである。こんな気のせせこましさが私の過去をあまりに平坦にしてしまったのだと考えた。私自身で人生のかがやかしい受難者になりたく思われたのである。
私は此のことをまず弟へ打ち明けた。晩に寝てから打ち明けた。私は厳粛な態度で話すつもりであったが、そう意識してこしらえた姿勢が逆に邪魔をして来て、結局うわついた。私は、頸筋をさすったり両手をもみ合せたりして、気品のない話かたをした。そうしなければかなわぬ私の習性を私は悲しく思った。弟は、うすい下唇をちろちろ舐めながら、寝がえりもせず聞いていたが、けっこんするのか、と言いにくそうにして尋ねた。私はなぜだかぎょっとした。できるかどうか、とわざとしおれて答えた。弟は、恐らくできないのではないかという意味のことを案外なおとなびた口調でまわりくどく言った。それを聞いて、私は自分のほんとうの態度をはっきり見つけた。私はむっとして、たけりたけったのである。蒲団から半身を出して、だからたたかうのだ、たたかうのだ、と声をひそめて強く言い張った。弟は更紗染めの蒲団の下でからだをくねくねさせて何か言おうとしているらしかったが、私の方を盗むようにして見て、そっと微笑んだ。私も笑い出した。そして、門出だから、と言いつつ弟の方へ手を差し出した。弟も恥しそうに蒲団から右手を出した。私は低く声を立てて笑いながら、二三度弟の力ない指をゆすぶった。
しかし、友人たちに私の決意を承認させるときには、こんな苦心をしなくてよかった。友人たちは私の話を聞きながら、あれこれと思案をめぐらしているような恰好をして見せたが、それは、私の話がすんでからそれへの同意に効果を添えようためのものでしかないのを、私は知っていた。じじつその通りだったのである。
四年生のときの夏やすみには、私はこの友人たちふたりをつれて故郷へ帰った。うわべは、三人で高等学校への受験勉強を始めるためであったが、みよを見せたい心も私にあって、むりやりに友をつれて来たのである。私は、私の友がうちの人たちに不評判でないように祈った。私の兄たちの友人は、みんな地方でも名のある家庭の青年ばかりだったから、私の友のように金釦のふたつしかない上着などを着てはいなかったのである。
裏の空屋敷には、そのじぶん大きな鶏舎が建てられていて、私たちはその傍の番小屋で午前中だけ勉強した。番小屋の外側は白と緑のペンキでいろどられて、なかば二坪ほどの板の間で、まだ新しいワニス塗の卓子や椅子がきちんとならべられていた。ひろい扉が東側と北側に二つもついていたし、南側にも洋ふうの開窓があって、それを皆いっぱいに明け放すと風がどんどんはいって来て書物のペエジがいつもぱらぱらとそよいでいるのだ。まわりには雑草がむかしのままに生えしげっていて、黄いろい雛が何十羽となくその草の間に見えかくれしつつ遊んでいた。
私たち三人はひるめしどきを楽しみにしていた。その番小屋へ、どの女中が、めしを知らせに来るかが問題であったのである。みよでない女中が来れば、私たちは卓をぱたぱた叩いたり舌打したりして大騒ぎをした。みよが来ると、みんなしんとなった。そして、みよが立ち去るといっせいに吹き出したものであった。或る晴れた日、弟も私たちと一緒にそこで勉強をしていたが、ひるになって、きょうは誰が来るだろう、といつものように皆で語り合った。弟だけは話からはずれて、窓ぎわをぶらぶら歩きながら英語の単語を暗記していた。私たちは色んな冗談を言って、書物を投げつけ合ったり足踏して床を鳴らしていたが、そのうちに私は少しふざけ過ぎて了った。私は弟をも仲間にいれたく思って、お前はさっきから黙っているが、さては、と唇を軽くかんで弟をにらんでやったのである。すると弟は、いや、と短く叫んで右手を大きく振った。持っていた単語のカアドが二三枚ぱっと飛び散った。私はびっくりして視線をかえた。そのとっさの間に私は気まずい断定を下した。みよの事はきょう限りよそうと思った。それからすぐ、なにごともなかったように笑い崩れた。
その日めしを知らせに来たのは、仕合せと、みよでなかった。母屋へ通る豆畑のあいだの狭い道を、てんてんと一列につらなって歩いて行く皆のうしろへついて、私は陽気にはしゃぎながら豆の丸い葉を幾枚も幾枚もむしりとった。
犠牲などということは始めから考えてなかった。ただいやだったのだ。ライラックの白い茂みが泥を浴びせられた。殊にその悪戯者が肉親であるのがいっそういやであった。
それからの二三日は、さまざまに思いなやんだ。みよだって庭を歩くことがあるでないか。彼は私の握手にほとんど当惑した。要するに私はめでたいのではないだろうか。私にとって、めでたいという事ほどひどい恥辱はなかったのである。
おなじころ、よくないことが続いて起った。ある日の昼食の際に、私は弟や友人たちといっしょに食卓へ向っていたが、その傍でみよが、紅い猿の面の絵団扇でぱさぱさと私たちをあおぎながら給仕していた。私はその団扇の風の量で、みよの心をこっそり計っていたものだ。みよは、私よりも弟の方を多くあおいだ。私は絶望して、カツレツの皿へぱちっとフオクを置いた。
みんなして私をいじめるのだ、と思い込んだ。友人たちだってまえから知っていたに違いない、と無闇に人を疑った。もう、みよを忘れてやるからいい、と私はひとりできめていた。
また二三日たって、ある朝のこと、私は、前夜ふかした煙草がまだ五六ぽん箱にはいって残っているのを枕元へ置き忘れたままで番小屋へ出掛け、あとで気がついてうろたえて部屋へ引返して見たが、部屋は綺麗に片づけられ箱がなかったのである。私は観念した。みよを呼んで、煙草はどうした、見つけられたろう、と叱るようにして聞いた。みよは真面目な顔をして首を振った。そしてすぐ、部屋のなげしの裏へ背のびして手をつっこんだ。金色の二つの蝙蝠が飛んでいる緑いろの小さな紙箱はそこから出た。
私はこのことから勇気を百倍にもして取りもどし、まえからの決意にふたたび眼ざめたのである。しかし、弟のことを思うとやはり気がふさがって、みよのわけで友人たちと騒ぐことをも避けたし、そのほか弟には、なにかにつけていやしい遠慮をした。自分から進んでみよを誘惑することもひかえた。私はみよから打ち明けられるのを待つことにした。私はいくらでもその機会をみよに与えることができたのだ。私は屡々みよを部屋へ呼んで要らない用事を言いつけた。そして、みよが私の部屋へはいって来るときには、私はどこかしら油断のあるくつろいだ恰好をして見せたのである。みよの心を動かすために、私は顔にも気をくばった。その頃になって私の顔の吹出物もどうやら直っていたが、それでも惰性で、私はなにかと顔をこしらえていた。私はその蓋のおもてに蔦のような長くくねった蔓草がいっぱい彫り込まれてある美しい銀のコンパクトを持っていた。それでもって私のきめを時折うめていたのだけれど、それを尚すこし心をいれてしたのである。
これからはもう、みよの決心しだいであると思った。しかし、機会はなかなか来なかったのである。番小屋で勉強している間も、ときどきそこから脱け出て、みよを見に母屋へ帰った。殆どあらっぽい程ばたんばたんとはき掃除しているみよの姿を、そっと眺めては唇をかんだ。
そのうちにとうとう夏やすみも終りになって、私は弟や友人たちとともに故郷を立ち去らなければいけなくなった。せめて此のつぎの休暇まで私を忘れさせないで置くような何か鳥渡した思い出だけでも、みよの心に植えつけたいと念じたが、それも駄目であった。
出発の日が来て、私たちはうちの黒い箱馬車へ乗り込んだ。うちの人たちと並んで玄関先へ、みよも見送りに立っていた。みよは、私の方も弟の方も、見なかった。はずした萌黄のたすきを珠数のように両手でつまぐりながら下ばかりを向いていた。いよいよ馬車が動き出してもそうしていた。私はおおきい心残りを感じて故郷を離れたのである。
秋になって、私はその都会から汽車で三十分ぐらいかかって行ける海岸の温泉地へ、弟をつれて出掛けた。そこには、私の母と病後の末の姉とが家を借りて湯治していたのだ。私はずっとそこへ寝泊りして、受験勉強をつづけた。私は秀才というぬきさしならぬ名誉のために、どうしても、中学四年から高等学校へはいって見せなければならなかったのである。私の学校ぎらいはその頃になって、いっそうひどかったのであるが、何かに追われている私は、それでも一途に勉強していた。私はそこから汽車で学校へかよった、日曜毎に友人たちが遊びに来るのだ。私たちは、もう、みよの事を忘れたようにしていた。私は友人たちと必ずピクニックにでかけた。海岸のひらたい岩の上で、肉鍋をこさえ、葡萄酒をのんだ。弟は声もよくて多くのあたらしい歌を知っていたから、私たちはそれらを弟に教えてもらって、声をそろえて歌った。遊びつかれてその岩の上で眠って、眼がさめると潮が満ちて陸つづきだった筈のその岩が、いつか離れ島になっているので、私たちはまだ夢から醒めないでいるような気がするのである。
渡部芳紀研究室
(中央大学文学部文学科 国文学専攻)
<弱さの文学>への疑問
太宰文学を<弱さの文学>としたり<滅びの文学>としたりする見方がある。太宰の文学に影響されて自殺する青少年がいるということも聞く。が、はたして大宰治は本当に弱かったのか。大宰文学は人間の弱さを書いた文学なのか。たしかに、太宰文学に弱い部分を持った人間が登場する場合が多いのは否定できない。大宰が弱い面を持っていたのもたしかだろう。が、世の中に強いだけの人間がいないように、弱さだけの人間もいないだろう。太宰のなかには弱い面と同時に強い面が、太宰文学のなかに、弱さの面と同時に強さの側面が、不健康な傾向のなかにきわめて健康なものが、下降せんとする志向とともに上昇せんとする志向が、同時に存在しているのである。
太宰文学を自分の弱さの根拠づけのために弱さの典型にしてしまったり、太宰の生き方を自分の人生の敗北の理由にしたりするのは身勝手というべきである。
太宰は自分の弱い部分に苦しみ悩みながらも、なんとか生き続けようと苦闘したのだ。彼の文学は、その苦闘の反映であり、かつ、読者に対して、苦しくてもなんとか強く生きようとのはげましの思いで綴っているのである。世にいうように、ただ、自分の弱さを愚痴るためだけでどうして、あれだけの分量の小説を書く必要があろうか。
太宰は、全集にして九巻の小説と一巻のエッセイを残した。一巻弱の習作も書いている。それは単なる弱さのあらわれでなく、むしろ、なんとか強く生きようとする太宰のもがぎ苦しんだ姿の象徴なのである。九巻分の小説を描くエネルギーは莫大なものである。太宰の持っている強い生命力の面にも目をやらなければならない。そうでなくては、延べ十六年間にわたる創作活動も維持できなかったであろうし、死後五十年近くにわたって、これだけ多くの読者を得ることもできなかったであろう。
<心の王者>・精神の貴族・愛
人は何を幸福とするのだろうか。金をたくさん得ることか。有名になり名誉を得ることか。衣食住に何不自由のない状態か。美しく賢い相手と結婚し安定した家庭を築くことか。たしかにそれらも幸福の構成要素の一つかもしれない。
が、なによりも大切なことは、幸福は、衣、食、住、金などの物質的なものによっては決して得られない、もっと心や精神と深く関わった問題だということであろう。図式的にいえば、人間の真の幸福は、物質よりも精神の問題にかかっているということである。
太宰は津軽でも屈指の大地主の家に生まれ育った。父親は、衆議院議員、貴族院議負なども勤めた。物質的には何不自由ない生活であった。しかし、そのなかで、どうしても幸福を実感できなかった。幼時から母と離され、母の愛に飢えていた。兄弟のなかにおける疎外感は彼に劣等感を植えつけ、容貌や色黒といったささいなことでも劣等感は助長され心の負担は増した。彼は、幸福が決して物質の中になく、心のなかにあることを感づいていたのである。太宰が、文学の道を選んだというのも、そこに心の幸福、真の幸福を求めようとしたからである。太宰が、生家のいいなりになり、長兄の言に従って、地道に学問を積んでいれば、津軽屈指の大地主一族の一員としての物質的安定は保証されていたであろう。それを、あえて文学の道を選んだのである。この非実用的で無用で、物質的欲望には何の役にも立たない道を。
太宰文学は終始一貫、物質的幸福を否定し、精神の幸福、精神の豊かさを強調している。創作集『晩年』を中心とする前期の文学活動では<ダンデイズム>精神を根底に据えて精神の貴族を目ざしている。『晩年』を代表する「道化の華」は、まさに、<心>を中心にした幸福を描いたのであった。<狂言><虚構><道化>といった<虚>なるもの、無用のもの、空なるものに真善美を見ようとするのである。
同じく『晩年』中の「猿ケ島」で、主人(猿?)公の猿が、猿ヶ島の物質的生活的には安定した環境を捨てて、苦しみと不安があるかもしれないが、真の世界、本当の自由を求めて猿ケ島を脱出していく姿にもそれは出ていよう。その他さまざまに方法を工夫ながら、単なる受身の心の世界でなく、もっと積極的な心の世界、豊かな精神の世界、華美で、夢幻的で、豪華な心と聖心の世界を目ざしていくのである。しかし、その世界の追求にはやる余り、またその方法があまりに斬新すぎたために、物質中心の、功利精神から成り立つ現実社会から復讐され、挫折を味わい、一時沈黙する。
中期の太宰は、一歩後退したところで、<心の王者>を追究していく。物質を重んずる功利的現実へ一歩妥協し、そのなかで精神の貴族を目ざすのである。昭和十四年ころから、明るく健康な愛情のあふれた作品が数多く書かれるようになる。それらは前期の作品のような力みがなく、それだけ反俗姿勢は薄いがほのぽのとした愛情が色濃く流れているのである。
中期のこうした傾向はさらに進んでいくが、従来、太宰のデカダンスの傾向、反俗精神を強調する人々からは、それらはそれほど高く買われていない。しかし、<心の王者>として、心の幸福を目ざす太宰にとっては、それらこそ、一番大切な世界であり、中心的なものなのである。
中期のこうしたヒューマンな傾向、明るく健康な世界の典型が「津軽」なのである。その中で太宰は、自分は<愛情と真理の使徒>であり、<このたびの旅行に於いて、主としてこの一科目を追究した>と述べる。
この一科目とは<人の心と人の心の触れ合ひを研究する科目>すなわち<愛>を研究する科目なのである。太宰が文学の道を選んだのもまさにここにある。<愛>を求め、<愛>の世界の構築のために文学にいそしんでいるのである。そうしてこそ、大宰は、<心の王者>となることができる幸福を手にすることもできるのである。「津軽」は<愛>を目ざす太宰の一つの到達を示す作品といえよう。
反俗の精神・価値の転倒
あるものに対する愛は、あるものに対する憎しみでもある。自然を愛する時、自然を破壊するものは憎しみの対象である。<愛>を<心の王者>を目ざす時、愛なき世界、物質中心の世界は憎しみと批判の対象となる。『晩年』巻頭の「葉」において<芸術の美は所詮、市民への奉仕の美である>といいながら、一方、<われは山賊。うぬが誇をかすめとらむ>といわざるを得ないのである。<心の王者>を目ざすゆえに、それを妨げるものを憎むのである。それは、俗世間の価値観に反抗することであり、反俗の精神となって現われてくるのである。
こうした<愛>と<反俗の精神>とが結びあったところに『斜陽』が位置しているともいえよう。『斜陽』の持っていた<恋と革命>と<没落への挽歌>という二つの主題は、かず子の<愛>と、直治や上原の<反俗の精神>へと平行移動することもできるのである。そして最後の傑作となった『人間失格」は、<愛>よりも<反俗精神>の強い作品であり、その意味では、太宰の従来めざしていた文学からはややはずれた作品だということができるだろう。
以上見てきたように太宰文学は、根底に、精神の貴族、<心の王者>を目ざした積極的側面をしっかりと持ったものなのである。実用性・功利性を重んずる現世の価値観に対して、<ナンセンスの美しさ>(「古典龍頭蛇尾」昭11)をいい、<無用ノ長物>を推賞し、<千代紙貼リマゼ、キレイナ小箱、コレ、何スルノ?ナンニモシナイ、コレグケノモノ、キレイデシヨ?>(「走ラヌ名馬」昭11)と、非実用の世界を強調していく。そこには俗世間の価値観に屈しない太宰の積極的側面が出ているといえる。
<心の王者>は、<詩人>を指す。昭和十五年一月二十五日付『三田新聞」に発表した「心の王者」において、<詩人>は、神の<光>に陶然と酔い、<夢の国>に遊んで<地上の事を忘れてゐた>。しかし<詩人>は<地上の営みに於いては、何の誇るところが無くっても、其の自由な高貴の憧れによって時々は神と共にさへ住めるのです>という。この<詩人>は、太宰自身の目ざすところのものであったということができよう。
今後への展望
このように、世間で思われているよりずっと積極姿勢を持っていた太宰文学なのに、その韜晦的文学方法から多くの誤解を招いている。それは<笑ひながら厳粛のことを語る>(「狂言の神」)、<君不看双眼色、不語似無愁(きみみずやそうがんのいろかたらざれぱうれいなきににたり)>(「虚構の春」)と随所で繰り返される姿勢である。自分の主張をあからさまに展開するのを避け、逆説的に、また、難解に表現することが多かった。それが太宰文学を多くの誤解の中に包んだ一つの原因でもあるだろう。
これからの太宰文学は、大宰の現実生活上のさまざまな伝説にまどわさることなく、作品に素直に接することにより、正しく受容読解されていくことが望まれる。太宰は作品の中で全てを語っている。太宰の作品に虚心に触れあうところから、正しい太宰像と太宰文学像とを築き上げていきたいものである。そうなった時に、太宰文学のために自殺したなどということは起こらなくなるであろう。
太宰の文学修業に費やしたエネルッギーは大変なものであった。古今東西の本を読み、何千枚もの習作を書き捨てた。その上に立って、流暢華麗な文体を持った太宰文学がある。田中英光、小山清といった弟子の作家もいたが、本質的に太宰を引書継いているとはいい難い。現在の多くの作家に、さまざまな影響を与えながらも、真の後継者は一人も出ていないのが太宰である。太宰文学は模倣者を許さぬ個性の強い文学である。もし模倣しても、亜流を出ぬ下品なものになってしまうであろう。そうした意味でも、太宰は天才的な作家であったということができよう。各人各様に、
それぞれ自分自身の手で太宰文学に臨むのが望ましいといえよう。
拙著『太宰治 心の王者』(洋々社)より
渡部芳紀「太宰治資料館」ホームページ
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