渡部芳紀
原爆死没者慰霊碑
「黒い雨」の舞台は後程述べるように広範 に渡っている。そのコ−スをみな歩くのは大 変である。ここではまず原爆の落された相生 橋の南に広がる平和記念公園を回り、次に広 島城の西にある中央公園あたりを散策するこ とにし、それらの地と関連して「黒い雨」に も触れて行きたい。
平和記念公園は広島駅から南西に約二キロ、 太田川と元安川に挟まれた中洲の北の一角に ある。中洲の北の端、太田川と元安川の分岐 点にT字型にかかった相生橋を北端とし、南 は市内を東西に走る平和大通りに区切られた 長三角形の地帯が平和記念公園になっている。 二十数万の犠牲者を出したという広島の最も 被害のひどかった地域にあたる。園内には、 原爆慰霊碑、原爆供養塔、平和の灯、平和記 念資料館、平和記念館ほか、多くの慰霊と平 和祈念の像や碑が建てられている。広場を南 から北へとたどってみよう。
平和祈念大通りは平和祈念公園の南に接し、 市内中央部を東西に貫く延長四キロ幅員百メ− トルの公園道路である。街路内の緑地帯には 平和を希求する市民の願いを込めた各種の祈 念碑や像が建てられている。昭和二十六年に 命名された。
平和大通りが公園に接する南東の端、元安 川にかかった橋が平和大橋、南西の角、太田 川を渡るのが西平和大橋である。堀田善衛が 原爆を扱った小説「審判」の舞台である。主 人公ポ−ルは、鬼の面をつけて、<ワタクシ ハ……、オニデス>と叫びながら、公園を抜 け<川底の小さな手の骨>に招かれて平和大 橋から見を投げる。
平和記念公園では最初に平和記念資料館を 見学しよう。祈りの泉の北、園内の南域にあ る。
東西に広がる建物に原爆の悲惨さを語る 三千点の資料が展示されている。昭和三十年 八月に開館。入館料は五十円。休館日は十二 月二十九日から一月二日。午前九時から午後 六時(十二月から四月までは五時)まで開館。 資料館の東には平和記念館がある。平和に 関する数々の催しが行なわれ、資料も展示さ れている。
資料館で原爆の恐ろしさ悲惨さ、被爆者の
悲しみと怒りの一端を知ったら、園内の祈り
の碑や像を回ろう。
資料館の南には祈りの泉
があり、その南側に「嵐の中の母子像」があ
る。本郷新が広島市婦人会連合会の依頼で作っ
たもの。
そこから平和通りに沿って西に行く
と、芝生の中に、平和を祈念する原子物理学
者湯川秀樹の言葉を刻んだ少女と子鹿の像が
たっている。
さらに西に行くと、芝生の中に、
折鶴に足もとを覆われて「原爆犠牲国民学校、
教師と子供の像」がある。その台座の背後に
は<太き骨は先生ならむ/そのそばに/小さ
きあまたの骨/あつまれり>と正田篠枝の歌
が彫られている。
正田篠枝は平野町の自宅で
被爆。原爆の歌百首を収録した歌集『さんげ』
を昭和二十二年三月に出版。『さんげ』には
<大き骨>をあり、『耳鳴り−原爆歌人の手
記』には<太き骨>とある。
原爆資料館の北、平和記念公園の中央には
原爆慰霊碑がある。原爆の犠牲になった人々
の霊を慰めるため、昭和二十七年につくられ
たもの。碑は埴輪の馬の鞍をかたどっている。
馬鞍型の碑の下中央には、十万人の原爆死没
者の名前を記した過去帳を奉納した御影石の
箱が安置されている。その手前の側面には
<安らかに眠って下さい/過ちは/繰返しま
せぬから>という言葉が記されている。
その
先には平和の灯の向こうに爆心下だったとい
われる原爆ド−ムが立っている。
この慰霊碑
の前で記念撮影をする観光客も多いが、せめ
て祈りを捧げてから写真を撮りたい。
堀田の
『審判』のクライマックスの舞台でもある。
毎年八月六日、この慰霊碑の前で平和記念式
典が行なわれる。
原爆慰霊碑の東南、平和記念館の北、原爆 梧桐(あおぎり)の北の林の中に、蔓薔薇に 囲まれて峠三吉の詩碑がある。
『原爆詩集』
の「序」詩
ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ
わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ
にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ
が、白い字でくっきりと彫り込んである。
裏
面には大原三八雄訳の英訳詩が彫られている。
この碑の北、慰霊碑の北東の木立の端に子
を抱いた父母からなる「祈り」の像がある。
像の足下には「平和を祈り/御霊を鎮めん」
(原題「みたまよ、地下に哭くなかれ」)と
題した大木惇夫の詩碑がある。<山河に歎き
はみちて/叫ぶ声あり、戦ひは/げに人類の
恥辱やと/ああ、奪ひ起て挙り立て/心つな
ぎてつつましく/世界の平和 祈らばや(以
下略)>と彫ってある。
大木惇夫は広島市天満町出身。
原爆慰霊碑の北には、浅い水が張られた池 があり、その北の端近く、平和の灯がともさ れている。昭和三十九年八月一日に点灯され たもの。世界から核兵器が無くなった時に消 されることになっている。
原爆慰霊碑の西、平和の灯の池の南西端の
西側に円鍔勝二作の幼子を抱いた母の平和祈
念像が立っている。昭和五十二年八月、全国
の児童生徒の浄財によって作られたもの。
そ
の足下に、「平和祈念像に寄せて」と題され
た草野心平の詩が浮き彫りされている。
<天
心の三日月の上に/幻でない母と子の像/そ
れとも永遠の平和の/象徴/童をよ母の愛に
て育みて/金のトランペット吹き鳴らせ(以
下略)>
と平和祈念像への言葉を寄せている。
平和の灯の北へ行くと道を越した左に小さ な広場がある。そこに「原爆の子」の像がある。 一九五八年五月五日、広島平和をきずく児童 生徒の会によりたてられたもの。塔の中央下 部の碑文は
これはぼくらの叫びです
これは私たちの祈りです
世界平和を
きずくための
とある。原爆症で亡くなった佐々木禎 子さんを弔うものでもある。園内で一番折鶴 の多い所。
原爆の子の像の北西には原爆供養塔がある。 今なお身元の判明しない数万柱の遺骨を納め てある。
供養塔の東北、道の右側に平和の鐘がある。 <すべての核兵器と戦争のない、まことの平 和共存の世界>への悲願を込めて、昭和三十 九年九月に作られたもの。
平和の鐘の北、相生橋の中央橋の南袂に平 和の時計塔がある。昭和四十二年年十月、広 島鯉城ライオンズクラブによって作られたも の。毎朝、原爆の落された八時十五分、ノ− モアヒロシマの思いを込めてチャイムが鳴る。
平和の時計塔の北、平和記念公園の北の端
に相生橋がある。川の両岸と真中の中洲を結
びT字型をしている。特殊な形の橋なので原
爆投下の目標になったと言われる。
「黒い雨」
で主人公の閑間重松が八月六日、自宅から広
島の北方の古市へと避難する途中この橋を渡
る。その時は<続々と川面を死体が流れ、橋
脚に頭を打ちつけ>と書いている。八月十日、
閑間重松が広島市内に戻った時には橋の袂で
蛆虫のたかった死体を見、蛆虫と死体を歌っ
た詩人を思い出し
<馬鹿を云うにも程がある。
八月六日の午前八時十五分、事実において、
天は裂け、地は燃え、人は死んだ。「許せな
いぞ。何が壮観だ、何が我が友だ」僕は、はっ
きり口に出して云った。荷物を川のなかへ放
りこんでやろうかと思った。戦争はいやだ。
勝敗はどちらでもいい。早く済みさえすれば
いい。いわゆる正義の戦争よりも不正義の平
和の方がいい。>と戦争への怒りを激しく吐
き出している。
相生橋の中央の橋を渡り突当りを右に渡る
と右手、元安川の左岸(東岸)に平成8年世界遺産に登録された原爆ド−ム
がある。旧産業奨励館の建物で、この真上で
原爆が炸裂したという。
相生橋の東袂の岸辺
に鈴木三重吉の碑がある。ここは三重吉の生
まれ育った所なのである。
ド−ムに近づいて
行くと、ここで犠牲になった殉職者たちの慰
霊の歌碑がひっそりとたっている。<原爆の
/いけにへとなりし/人びとは/なごみゆく
世の/いしず/ゑにして/阿部一郎>とある。
原爆ド−ムの東、周辺広場の端に、ド−ムに
背を向けて原民喜の詩碑がある。腰ぐらいの
高さの小さな碑だ。
<遠き日の石に刻み/砂 に影おち/崩れ堕つ 天地のまなか/一輪の 花の幻>とあるのは、遺書の末尾に綴った 「碑銘」と題する詩である。<一九五一年七 月十三日夜><佐藤春夫記す>と、ド−ム側 の背面に<原民喜詩碑の記>が彫られている。
原爆ド−ムの南側には動員学徒慰霊碑があ
る。動員学徒達の姿を彫ったレリ−フや、
「ほのお果てては」の歌などもともなってい
る。北は青森から南は沖縄、海外の新京など
全国からの動員学徒が犠牲になっている。
「黒い雨」の冒頭も<広島の第二中学校奉仕
隊は、あの八月六日の朝、新大橋西詰かどこ
か広島市中心部の或る端の上>で被爆し全員
死亡した話から始まっている。
相生橋から原爆ド−ムとその北にある広島
球場との間の大通りを東へ五百メ−トルも行
くと紙屋町の交差点に出る。市内でも最も賑
やかな交差点の一つで、ビルが林立している。
「黒い雨」の閑間重松は妻シゲ子と姪の矢須
子と共にこの交差点を南の鷹野橋から猛火の
中を避難して来、北の広島城の方へと逃げて
行く。
その時の様子を<紙屋町の停留所に辿
りついた。ここは電車の交叉点であるだけに、
切れた架線や電線が入り乱れて垂れさがり、
(中略)まばらに行き交う避難者たちも、垂
れた架線の下を匍伏前進の要領で潜りぬけて
いた。僕は左の端を行って相生橋から左官町
に出ようとしたが、とても余燼の火照が熱く
て進めそうもない。>と辺りの惨状を叙して
いる。
閑間重松は交差点を北へ抜けて五百メ−ト
ルも行き広島城にぶつかりその西側の道を北
へ避難して行く。
<天主閣は天主台を離れ去っ
て、一町ばかり向こうの濠の端に行って崩れ
ていた>という。また人から聞いた話として
<天主閣はその姿のまま、さっと東南に飛び
ながら空中に立っていたそうだ>と原爆の爆
風の激しさを語っている。ここは同じく原爆
をも扱っている広島出身の作家阿川弘之の
「春の城」の舞台でもある。
城の南西、濠を隔てて西には中央公園が広
がっている。園内の東の林の中に「広高の森」
の碑がある。旧制広島高等学校があったゆか
りによる。
この碑の近くに中島光風の歌碑
<出で征きし/教え子どもの誰彼れが/心に
乗て朝な夕なに>がある。中島光風は旧制広
島高校の国語教師。阿川弘之の恩師でもある。
「春の城」では矢代先生として登場し、原爆
にうたれ街を彷徨し、九月の末に原爆病で亡
くなっている。
公園の西南隅、周囲道路の外
側の芝生の中に、自然石を組合せて、大田洋
子の文学碑がたっている。黒い石に白字で、
<少女たちは/天に焼かれる/天に焼かれる
/と歌のやうに/叫びながら/歩いて行った>
と、「屍の街」の一節が彫り込まれている。
碑の後ろは太田川の土手だ。閑間重松は城の
西側を北に進み三篠橋から横川へ出ようとし
たが橋が落ちていて、太田川沿いに土手の道
を北から南の相生橋へと避難して行く。
その 相生橋を西へ渡り二百メ−トルも行って左 (南)に入った十日市町に日蓮宗妙頂寺があ る。門を入り右手に行くと墓地がある。ここ に「作家大田洋子の墓」と彫った墓がある。 原爆作家と呼ばれるのを嫌った洋子の気持ち が込められた墓である。
閑間重松は、相生橋を渡った後、北の寺町 を通り、横川橋を渡り、火を避けて川の中を 進んだ後、横川の北に出、途中から電車に乗 り北の古市の勤務会社へ避難して行く。
「黒い雨」の背景として平和記念公園から 中央公園を中心に辿って来た。ここでもっと 具体的に歩きたい人のために閑間重松の避難 したコ−スのおおよそを示す。
八月六日。横川駅(被爆)→国鉄沿いに広 島駅へ→駅南の大正橋から→比治山の東沿い に南下→専売公社(日本たばこ)広島工場前→ 御幸橋→千田町(閑間重松の家があった所。 作品の主要舞台の一つ。町内の広島地方貯金 局で赤ん坊が生まれる場面を描いたのは栗原 貞子の「黒い卵」である。原爆病院もこの町 内にある。)→宇品→千田町→鷹野橋→市役 所前→白神社→紙屋町交差点→広島城→三篠 橋→相生橋→寺町→横川橋→山本→古市(避 難終了)。
なお、八月十日には、会社の用事 で大体六日のコ−スを逆に辿るかたちで市内 にでているが省略する。
以上、「黒い雨」を中心にその跡を辿って
みた。この作品は数ある原爆文学の中でも最
高のものと思う。が平和を祈る気持ちは他の
作品も同様と思い、原爆を扱っている作品に
はできるだけ触れてみた。
なお広島城の東、
広島駅の西にある泉邸(縮景園)も原民喜の
「夏の花」や細田民樹の「広島悲歌」の舞台
であるので、時間の余裕のある時は訪れたい。
なお今回は「黒い雨」への私見は極力抑え
て書いた。できれば拙論「『黒い雨』論」
(『現代国語研究シリ−ズ 十一 井伏鱒二
』昭和五十六・五、尚学図書)を御参照いた
だければ幸いである。(写真・筆者)
松屋産業のホームページ
原爆ドームの在りし日の姿がCGで再現されています。
渡部芳紀研究室
中央大学文学部文学科国文学専攻