渡部芳紀
渡 部 芳 紀
阪急京都線桂駅の東北に桂離宮がある。川
端康成の『虹いくたび』の「生の橋」の舞台
である。建築家水原の娘ヒロイン麻子は、姉
百子の死んだ婚約者の弟の夏二と桂離宮を訪
れる。
<京都としては、このあたりが平たひら
にひらけた土地で、近くの嵐山、小倉山おぐらや
ま の向うの愛宕山あたごやま 、それから遠くの比
叡山まで、北山がつらなって見晴らせるので
あつた。東山は霞んでゐた>とあたりの風景
を叙し、離宮は<桂離宮は竹の生垣にかこま
れてゐる。その竹垣が竹林のやうに見える。
>と描く。離宮の御幸御門から御中門を経て、
お庭、鼓の滝、小石敷、松琴亭、卍亭、月波
楼と丁寧に廻って歩く。
離宮の次は、西北二キロほどにある苔寺西 芳寺を訪れよう。川端の『美しさと哀しみ と』の「石組み 枯山水」の章の舞台であ る。女流画家上野音子は、<絵かきの心で、 梅雨あけから、西芳寺の裏の石庭を見に通つ てゐた。(中略)石庭としてはもつとも古い し、また力強くもあるのではないか>と上の 石庭を描く。「火中の蓮華」の章では、<苔 寺の庭では、濡れて色鮮やかな青苔に、あし びの小粒の花が白く散り敷き、その青の上の 白のなかに赤い椿が一輪落ちてゐたりした。 椿は花の形を崩さないで上を向き、そこに咲 き浮かんだやうであつた。>と苔の庭を写す。
苔寺から阪急嵐山線に沿って北へ二キロも
行くと嵐山渡月橋である。阪急の嵐山の駅か
ら渡月橋に向かい、左側の石段を西に登ると
法輪寺がある。子供が十三になったときの十
三参りで有名な寺だ。
『虹いくたび』では、
<橋の向かふに小高く、その法輪寺の多宝塔
が、これだけは鮮あざや かな色の塗り立てのや
うに浮き出てゐた。>と渡月橋の北からの様
子を描いている。百子と青木は渡月小橋を渡
り、大堰川の右岸を川沿いに北へ歩いてゆく。
芥川竜之介は、大正八年五月十六日の深
夜、渡月橋を訪れている。
〈十七日 午前二時祇園梅垣にて〉と付された小島政二郎宛絵
葉書には〈只今酔狂な連中と夜半タキシイを
走らせて渡月橋まで月見にいつてかへつた所
〉と書き、五月二十二日付け和気律次郎宛書
簡では〈夜の十二時過ぎに自働車で嵐山へ河
鹿を聞きにいつたのは風流でした但し春寒料
峭しゅんかんれうせう として渡月橋の上でいくら麦酒
びーる を飲んでも酔はなかつたんだから悲惨で
す〉と書いている。
渡月橋を北へ渡れば嵯峨野である。橋の付 近はお土産屋や人家で立て込んでいる。『虹 いくたび』の最後で百子が腹違いの妹若子と 会う茶屋“ほととぎす”は、川沿いを遡った 所に設定されている。作品『美しさと哀しみ と』で主人公の大木は、<亀山公園の裾へゆ く、こちら側の川岸の道を登つて行>き、< 山の原の木立に埋もれたやうな><厚い茅ぶ きの屋根>の<料理屋>で食事をし、音子と けい子は、<渡月橋を少しのぼつた川岸のう どん屋>に入り、けい子と太一郎は吉兆庵で 食事をしている。
嵯峨野は南の天竜寺から北の化野念仏寺へ
と辿ってみよう。
天竜寺は、足利尊氏が建てた名刹。枝垂桜
が美しい。天竜寺北門から出て右(東)へ小
道を辿ればすぐ左に野宮神社がある。『古
都』で<伊勢神宮につかへる斎宮さいぐう・内親
王が、ここに三年、清浄無垢せいじょうむく の身を
こもつて潔斎けっさいした、宮居みやい のあととい
ふ。皮のついたままの黒木の鳥居とりい 、そし
て小柴垣こしばがき で知られてゐる。>と紹介さ
れている。
門前の道を北へ行くと山陰線の線
路を渡る。きれいな竹林の中を真直北へ進む。
途中から道は北へとカーブするが、道なりに
進むと常寂光寺・落柿舎の標識がある。常寂
光寺へ進むと右手(北)の田圃の向うに藁屋
根の建物が見える。あとで訪れる落柿舎だ。
田越しの姿が良い。常寂光寺に参詣し落柿舎
を訪れよう。
向井去来の寓居。芭蕉も訪れている。西裏 には芭蕉や虚子の句碑がある。落柿舎の西裏 の道を北へ進むと右に去来の小さな墓がある。 墓の所からさらに百mも北へ行くと二尊院の 総門前に出る。
二尊院は『美しさと哀しみと』の「湖水」
の章の重要な舞台である。けい子は国文学者
で定家の研究をしている太一郎の案内で二尊
院を訪れる。
<二尊院の総門は伏見桃山城か
ら、慶長十八年に、時の豪族角倉氏かどくらし が
ここに移したのだといふ。>
<総門のなか
の広い参道には、松の影が濃く落ちてゐた。
みごとな赤松の並木だつた。(中略)この道
の果てが石段になる上に築地塀が見えて来る
と>道の左脇に高浜虚子の<散紅葉こゝも掃
きゐる二尊院>と彫った句碑がある。
総門前の道を北へ二百mも行くと祇王寺へ
の曲り角に到る。祇王寺の反対の東(右)へ
百五十mも入ると厭離庵がある。『美しさと
哀しみと』で太一郎が定家の住んだ地と言わ
れると紹介し<定家の荼毘だび塚と言ひ伝える、
小さい塔がありますが>と語っている所。さ
き程の曲り角を厭離庵とは逆の西(左)へ行
けば、二百mほどで祇王寺に着く。けい子と
太一郎は、二尊院から<角倉家の墓の前を通
つて山をおりると、祇王寺へ行つた>と直接
訪れている。
『古都』で千重子の父佐田田吉
郎が籠もった尼寺は祇王寺を模しているのだ
ろうか。映画『古都』では祇王寺が舞台に使
われている。
祇王寺の南隣の滝口寺も訪れよ
う。『平家物語』や高山樗牛の『滝口入道』
の所縁の寺である。滝口入道や横笛の像が安
置されている。境内には新田義貞の首塚もあ
る。
もとの道に戻り北へ五百mも行くと化野念
仏寺である。『古都』では<古びた石段を、
左手の崖に二体の石仏のあるあたりまでのぼ
つた(中略)。いく百とも知れぬ,朽ちた石
塔の群れは、無縁仏とか言はれる。>と描か
れる。
南から歩いて来たこの嵯峨の一体を『古
都』の千重子は<野々宮や、二尊院の道や、
化野が、うちは好きどす>と言っている。な
るべく静かな時期に歩いてみたいものである。
なお念仏寺から北へ二百mも行くと広い道に 出る。その鳥居本のバス停からシーズンの日 曜日のみ有料道路の嵐山高雄パークウェイ経 由で高雄行きのバスがある。乗用車の場合及 び日曜日にはこのコースで『古都』の舞台北 山杉の里へ行ける。平日は仁和寺前からバス に乗ることになるので後に触れたい。
次に嵯峨野を嵯峨釈迦堂から仁和寺さらに は光悦寺、大徳寺、上賀茂神社、植物園と京 都北西部から北部へと辿ってみよう。
嵯峨釈迦堂(清涼寺)は二尊院の近くまで 戻って東へ三百mも行った所。鳥居本のバス 停からは三つ目のバス停が釈迦堂前である。
釈迦堂の東のT字路から東へ三百mも行け ば嵯峨御所大覚寺門跡に出る。そこから北へ 五百mほど参道を辿ると大覚寺である。
大覚寺から東へ一キロも行くと広沢池に出 る。『美しさと哀しみと』では<広沢池を通 つて、向ふの岸の水にうつる姿の美しい松山 をながめた>と書く。池の東の池の畔に大き な桜の木が多い。
広沢池の南沿いの道をさらに東へ二キロも 行くと仁和寺に着く。大覚寺前の京福北野線 嵐山駅から電車で九つ目の御室駅の北である。 『古都』では、千重子が父母と訪れ、<御室 の有明ざくら、八重の桜は、町なかの桜とし ては、おそ咲きで、京の花のなごりであらう か。仁和寺の山門をはひつた、左手の桜の林、 (あるいはさくら畑)は、たわわにあふれて ゐる>と描いている。
芥川は、大正十一年四月に、仁和寺を訪れ 、〈御室仁和寺〉と詞書きして〈花散るや牛 の額の土埃〉と吟じている。
高雄方面には御室仁和寺前からバスに乗る ことになる。『古都』の「北山杉」の章で千 重子は神護寺、高山寺を訪れる。<高山寺で は、石水院の広縁から、向かひの山の姿を眺 めるのが、千重子は好きであつた>と書く。 表参道脇には、<ひぐらしやここにいませし 茶の聖>と彫った水原秋桜子の句碑がある。
京都西北郊では、大正十一年四月、仁和寺 を訪れている。四月五日付け佐佐木茂索宛絵 葉書で〈御室仁和寺〉と詞書きして〈花散る や牛の額の土埃〉と吟じている。
与謝野晶子と京都
直指庵 直指庵の庵に向かって右へ三十
mほど行った左の山裾に碑がある。<夕ぐれ
を花にかくるる小狐のにこ毛にひびく北嵯峨
の鐘>と彫ってある。
嵯峨清滝 渡猿橋の北詰め、上流側清滝 岸壁に金文字で<ほととぎす嵯峨へは一里京 へ三里水の清滝世のあけやすき>と晶子の歌 が浮きだしてある。碑文の右に四角い副碑が ある。橋の北詰め空き地には、徳富蘆花の 「自然と人生」の碑がある。橋を渡って道を 五十mも行った右手、道脇には寛の歌碑があ る。<かわらけを山に投ぐるもつぎつぎに遠 くいたるは己が飛ぶに似る>渡猿橋の下流右 手の旅館「ますや」には、歌会が催された離 れが残されている。