渡部芳紀
栄浜
〈「何の用でここへ来たの、何かしらべに来たの、何かしらべに来たの。」
西の山地から吹いて来たまだ少しつめたい風が私の見すぼらしい黄いろの上着をぱたぱたかすめながら何べんも何べんも通って行きました。
(中略)
オホーツク海のなぎさに座って乾いて飛んで来る砂やはまなすのいい匂を送って来る風のきれぎれのものがたりを聴いているとほんとうに不思議な気持がするのでした。それも風が私にはなしたのか私が風にはなしたのかあとはもうさっぱりわかりません。またそれらのはなしが金字の厚い何冊もの百科辞典にあるようなしっかりしたつかまえどこのあるものかそれとも風や波といっしょに次から次と移って消えて行くものかそれも私にはわかりません。ただそこから風や草穂のいい性質があなたがたのこころにうつって見えるならどんなにうれしいかしれません。〉
「サガレンと八月」にこのように書かれたサハリンの海辺にいつか立ってみたいというのは、私の長年の夢であった。
昨年の夏、栄浜を訪ねた。長年の夢がかなったのである。
以下、その時の様子を報告したい。今後訪れる人たちの便を考え具体的に旅の様子を写してみた。何かの参考になれば幸いである。
昨年の夏休み前、ある旅行社からサハリンに行きませんかという案内がメールで来た。私の、宮沢賢治資料館というホームページを見て誘いを掛けてきたのであった。宮沢賢治に関するホームページを作っている人々に案内を出したと記されていた。もともと、行きたい気持ちがあり、誘われたきっかけもあり、ミレニアム記念を兼ねて行ってみようと思った。一人十四万円くらいの料金も魅力だった。たまたま、あるカルチャーで教えていたので誘ってみたが応じる人もなく夫婦だけで出かけることにした。旅行社に申し込みをし、ビザ習得のため、パスポートのコピーと戸籍抄本、手数料など送った。しばらくしてビザがとれたこと、いずれ計算書を送ることなどの連絡が来た。
その間、インターネットでサハリン情報を集めたが、集めれば集めるほど、何か大変な旅になりそうだなと怖じ気付いてきた。なにせ国文を専攻しているので余り必要性が無くて海外体験が少なく、不安が募った。バスの栓がないことがあるからゴルフボールを持って行くと良いとか、トイレのペーパーは無かったりあっても流せないから日本から持参すると良いとか、トイレそのものが少ないからホテルで用を足し、外出の際はあまり水分をとらないようにとか、タクシーには乗るなとか、まあ、不安を募らせる情報が多かった。全ての手続きが終わり旅行も近づいて請求書が送られてきた。三十八万八千円。色々、情報集めている内、ホテルのランクを上げて貰ったり、フェリーも一等座席に変えたりしたので額は初めの予定よりかなり増えた。安心できる旅をするためには仕方ない。お金を払い込む段になって考えた。私が依頼しているところはどれだけ信頼できるかということを。よく、お金を払い込んで旅行に行けなかった等と聞くのでどんなものかと振り返ったのだ。考えてみると依頼先には一度も会ってない。全てのやりとりをメールですませてきた。全く顔を見てないのである。電話さえもしていない。果たして信頼して四十万円近い金を振り込んで良いものか。ちょっと気になって相手先のホームページを覗いてみた。有名な漫画家もその旅行社の扱いでサハリンを訪れ、探訪記を雑誌に載せていると載っている。公のものに紹介されたなら大丈夫だろう。大体、今までのメールのやりとりで相手の誠実さは感じていたので思い切って送金した。直ちに送金受け取ったというメールがはいった。やはり信頼できる相手だと思う。その返事に対し一度お会いして細かい注意点を聞きたいとメールをうった。すぐ返事が来て新宿で会うことになりコーヒーのみながら税関の書類の書き方など教わる。渡航に必要な全書類も受け取った。その中に、ロシア政府観光局というパンフレットが入っていて、それを読んでまた怖じ気付いた。ホテルに電話がかかってきても受けてはいけない。ホテルのドアが叩かれてもあけてはいけないとある。どんなところなんだろう。大丈夫かとまた心配がつのる。それでも、日数はすぎ、いよいよ、八月七日の出発も近づく。
余裕を持って五日(土)に飛行機で稚内に行き、当日は礼文島に泊まる。六日(日)は、レンタカーで礼文島を見て回り、夕刻、稚内のホテルに入った。あらかじめ礼文島で乗船の前、トイレットペーパー四巻とティッシュを沢山買い込んで置いた。翌朝早いので早めに休む。
八月七日(月)
七時四十五分頃チェックアウト。タクシーでフェリー埠頭に向かう。まだ窓口は空いていず、建物の前で待つ。八時半には窓口が空いたが手続きが始まるまでずっと待つ。脇にはおじいさんと中年の婦人と若い母親と小学校四、五年生くらいの男の子の一家がいる。その後、ロシアの少女達のグループが来る。お土産を沢山もってすごい勢い。稚内へ親善に来て帰るところらしく見送りも多い。税関の申告書類が今月より変更になったとかで新しい書類を貰い書き込む。日本語に成っていてわかりやすい。二通書く。手続きが始まり列をなして入関。二手に分かれ手続き。いよいよ出国だ。その先に長い通路。重い荷物を運ぶ。わきには荷物運搬のベルトコンベアーも動いている。それが終わり船に乗る。
ロビーに行くと船側ではまだ予想外だったらしく慌てている。切符を受け取る人がいなかったらしい。ちょっと止められ許可になって入船。我々は一等椅子席で二階に上がる。えんじ色の絨毯がひいてある。靴を脱ぎ左後ろの席につく。だれもきていず、貸し切りかなと思った頃他のグループが乗ってくる。夏は混んでいて二等では大変という情報だったので一等にしたのだがそれほど心配することも無かったようだ。出発は十時半なので船内見学。デッキから後ろに行ってみる。ロシアの子供達が集まって見送りの人たちに歌を歌っている。上手いし、かわいいし、良い場面。波止場にも多くの人が見送っている。ホームステイかなにかで世話をした人々だろうか可成りの人がいた。部屋に戻り家内にも教えてやる。良い光景だよと。自分もデッキに戻る。脇で見ていてほほえましい。写真とったりする。
稚内
十時半出発。子供達は涙を流しながら見送りの人々に手を振り歌を歌い答えている。稚内は次第に遠ざかる。私は、バチバチ写真をとる。船はどんどん離れ船尾で稚内を去りがたいというように眺めているロシア人もいる。いよいよロシアにしゅっぱつなのだという感慨が湧いてくる。船はどんどん進み、宗谷岬沖にたっする。宮沢賢治の「宗谷岬」という詩を思い描きながら、双眼鏡、カメラ、ビデオを持って宗谷岬を写す。近くでさっきの子供連れの奥さんが宗谷岬をとっている。双眼鏡を貸して宗谷岬の説明をする。お父さんが並川の出身で墓参りに行かれるとか。

宗谷岬
席に戻り、戦前の真岡の地図や豊原の地図のコピーを家内に持たせ二等船室の志村さんに持っていかせる。家内の聞いてきた話では、お母さんは真岡(ホルムスク)の生まれとか。一等船室では隣のグループが集まりを始め写真を頼まれ撮る。そのあと、勉強会をやっている。企業の社長さんたちが、サハリンで事業を起こす視察に行くようだ。十五人くらいのグループでみな頭の良さそうな人たち。本気で一生懸命話し合いをやっていた。その間、若い船員が弁当を配る。旅行社から昼食は船側から指示があると聞いていたのは弁当が配られると言うことだったのだ。朝食ぬきだった我々はすぐ食べ始める。例によって揚げ物中心だが結構美味しく食べる。勉強会の人々は食事もせず勉強会を続けている。出発して二時間もたつと左前方にサハリンが見え始める。
サハリン島の西南端の岬クリリオン岬だ。双眼鏡で見るとレーダーサイトがある。日本に向けての基地なのだ。側で見ると、人家らしい物はほとんどなく、基地に附属した住居など基地関係の建物だけみたい。その後、普通の民家は現れず、コルサコフ(大泊)まで町や集落は見えなかった。レーダー基地だけがぽつんと築かれているのだった。岬は緩やかな傾斜の岡で礼文島を思わせる光景。日本の続きと言う感じだった。すると突然海霧が湧いてくる。この辺は霧の多いところらしい。しばらく霧の中を進む。船も余り多くなくそれほど心配はないようだ。そのうち霧も晴れ静かな海が続く。左にはずっとサハリンの島影が続いているが何の変化も無いので見る気もおきない。ロシアに近づいたので時計を二時間進める一時を三時に変えるのだ。サハリン島自身は日本と同じ時間で良いのだがサハリン州全体では日本より東に広い分そういうことになるらしい。東を見るとこちらにも陸が見える。阿庭湾の奥深く入って来たのだ。そしていよいよ前方に湾の最奥の港コルサコフが遠く町の姿を表す。
クリリオン岬
青い平たい風景の中に一カ所青くない、黄色、灰色の人口の部分が見えてくる。それがどんどん近づく。賢治が訪れたのは大正十二(一九二三)年八月三日の朝、七十七年後、願いがかなって私もサハリンに近づいたのだ。乗船している人々も前方に注意を払い始める。何故か皆、甲板の前方から眺めている。一歩でも近いところでという感覚なのだろうか。私は、双眼鏡で早めにコルサコフをみる、左に丘、右に町並み。その右の丘の上にマンションが沢山続いている。近くの七〇才くらいのグループが一生懸命前方見ている。どこがどうだとか発言が具体的。大泊出身の人々なのだ。船はどんどん近づき下船も近い。港に着いて波止場に着くのに方向転換。船尾から接岸。コルサコフの町を角度を変えて見られる。どんどん写真を撮る。いよいよ桟橋に着く。出迎えの人々が手を振っている。子供達が懐かしそうに手を振って答えている。親や親類の人々なのだろう。近づくとお年寄りが多かったので勤めている親に変わって祖父母が多く出迎えていたようだ。
コルサコフ(旧大泊)東域
いよいよ、下船。荷物を持って車の甲板に下り、歩いて前方に。車が下りる出口からまず人々が出る。前方にバスが待っている。皆荷物をバスの横腹に入れている。あずけなくても良いという声がどこからか聞こえたので我々は荷物を持ったままバスに乗り込む。左がわの前方に近く座る。志村さんは次ぎのバスになったようだ。
バスが出て、百五十メートルほどの桟橋を行く。渡り終わり左に曲がり建物の裏に着く。皆降りて荷物を出したりしている。私は、引き込み線の線路に気づき、荷物を建物の入り口に近く置いたまま、バスの後方の線路を港に向かい写真に撮る。旧連絡船の鉄路が利用もされずそのまま残っているのだ。建物の入り口を軍服着た青年の許可のもと入ると入国管理室。パスポートとビザを見せ通過、そのまま列は続いて税関の検査へ。左右にある通関の窓口のうち右が空いていたので右に着く。順番に進み書類を渡し通過。予想に反し書類に目を通しただけで極めて簡単。そのまま、出口を出る。そこは、ロビーになっていて、大勢の人が出迎えている。WATABEとローマ字で書いた紙を持った女性が居たので名乗る。通訳のターニャさんだ。家内を探したがいない。先に出たはずなのにと思いつつ戻りかけると、出口から出てきた。前の人が通関に時間かかって遅くなったとか。持ち物や帰国入国でスピードが違うようだ。家内を紹介し外に出る。今回の旅行日程の書き込まれたバウチャーを渡す。前の道路にワゴン車が止まっていて、運転手のコスチャさんがいる。名刺を渡して挨拶。すぐ、荷物を車の後ろにいれる。では、ホテルに向かいますと言われ、コルサコフの公園の展望台へとは言えなかった。はい、よろしくということで直ちに出発。埃っぽい泥で汚れたような町を車は左に向かって走り出す。途中、右に曲がるかと思ったがそのまま左左と進んでいく。登りたかった公園の崖を右上に見て車は左へと進む。結局、海岸に沿って進んでいるのだ。考えてみればユジノサハリンスクへの道はまずは海岸を通りその先で鈴谷川に沿って北上することになる。
町を抜け、左に海を見ながら行く。だんだん、自然が豊かになり、広々とした展望が開けた辺りから道は内陸に入る。左に鈴谷川沿いの平野が広々と展開している。景色の良いところだ。あとは、広い道をひたすら北に向かって走る。時速は平均七十キロくらい。私は、きょろきょろ辺りを見ている。牧場、畑、民家、北海道に近い風景が続く。道沿いの植物も、ななかまど、アカシア、いたどり、ところどころにヤナギランと日本とあまり違わない。緩い起伏の中を道は真っ直ぐ進んでいく。舗装の良くない高速道路といった趣き。信号もなく、舗装が余り良くないといっても、予想よりはいい道だ。ときどき工事現場があり道ががたがたになる。あと、所々検問みたいなところがある。ライトがついていたとかで止められたりする。一時間も走ると村のようになりさらに人家が増えてユジノサハリンスク(旧豊原)の町に入って行く。ちょうど、仕事が終わった頃でまだ明るい町を人々が帰り始めている。車も多く、下りはやや渋滞気味。殆どは日本車。農協とか、クリーニングとか日本で走っていた車をそのまま使っているので右側通行以外は日本の道を走っているよう。私の乗っているワゴン車もトヨタの車だ。アパートのような建物が沢山続き、何でも写真に撮る。信号もあり、交差点も幾度か曲がる。人々はどんどん車の道に入ってきて渡るのか止まるのか解らない。やはり異国では車に乗れないなと思う。突然、右の歩道に乗り上げとある白い建物に着ける。ホテルサハリンサッポロに到着。
サハリンサッポロホテル
荷物を受け取り小さな入り口から中に入る。右手のフロントにターニャさんの案会で進む。ターニャさんがバウチャーを渡し、我々はパスポートとビザを渡す。両替を頼んだがやっていないという。背の高いホテルの男の人が荷物を持ってくれて4階の部屋に。ターニャさん付いてきてくれる。エレベータ下り右手に進み角をさらに右に折れて進んだ左の部屋。四四三号室。背の高い男の人はさっと去っていく。チップをと思ったが拒否するような早さだった。ターニャさんはではこれでと別れの挨拶。夕食の場に案内してくれるかと思ったがそうでないよう。明朝、八時半というのを9時にロビーと言うことにして分かれる。夕方7時で予定通りであった。
部屋は予想よりちゃんとしていた。スリッパもあり、ゆかたまである。トイレには、トイレットペーパーはもちろん、ティッシュまである。タオルや手拭いもあり、無いかもと聞いていた風呂の栓もちゃんと付いている。栓が無いときに備えて持って行ったゴルフボールを捨てた。
ひと休みした後、町に出る。豊原という日本料理店に行ってみようとしたのだ。ホテル出て、まずはレーニン通りを右(北)に行く。通勤帰りの人々が歩いている。なにか恥ずかしいような感じで歩く。すぐ、レーニン広場の前の交差点に達する。写真を撮る。向かいに渡りレーニンの像を眺めたが前に少年達がたむろしていたので近づかない。数日前にNHKのニュースでサハリンのストリートチルドレンが紹介されていたのだ。通りを戻りレーニン通りの西側の歩道を南へ歩く。人々とすれ違う。並木の道だ。最初の道を右に曲がれば豊原があるはずなのだが、どれが道か解らない。たんなる引き込みの道か正式の道か。何度かそれらしき所に入っては捜したが店らしきものもなく、もとの道に戻る。かなりでたりはいったりして南へ進んだが見つからないので、歩道を東側に渡り戻る。夕日はまだ高く、あたりは完全に昼間。どしどし歩いていると、脇のアパートの窓から親子が顔を出している。通り過ぎると上から声が聞こえ後ろの家内が何か言っている。振り向くと上の親子が話しかけていたのでこちらもこんにちはと会釈する。すぐホテルだ。
ホテルに戻りあると聞いていた和食のレストランを探すがない。ホテル内の上も下も探したがないので仕方なしに一階のレストランに行き、オンリードルと言ったら、ノープロブレムというので入る。タバコ飲まないと言うと禁煙席に案内される。シックな静かな部屋。我々だけが客だ。メニューは英語だった。前菜からスープ、メインにビーフカレー、パンにアイス等頼む。最初に北海しまえびの大きいようなのが沢山並んで来る。これだけでもすごいボリュームだ。メインのビーフカレーは大きな皿に大きなビーフの塊が沢山入ったカレーだった。食べるのが大変。パンも美味しかった。
冷房のきいたレストランから冷房の無い部屋に戻ると暑さがこたえた。窓を開け外の空気を入れると少し凌ぎやすい。日本から持ってきた電圧変えるコンセントを装着し持参の蚊取りマットを炊く。お陰で、蚊の心配もなく本見たりテレビ見たり。テレビは有線で日本の放送をそのままやっているのが多い。プロ野球も日本語でやっている。家内が風呂に入った後自分も入る。やや大きめのバス。底が丸みを帯びているのが落ち着かない。湯はちゃんと出る。窓を開けて寝たので車の音がうるさく夜中、片方閉める。
ハ
八月八日(火)
六時起床。髭剃り、風呂に入り、七時半朝食。バイキング形式。ジャガイモサラダ、チーズ、ハムが美味しい。コーヒーのカップの大きいこと。普通の倍ある。トマト、サラダ、スパゲッティ。
九時前ロビーに。通訳、運転手とツーリストの幹部社員と打ち合わせ中。終って、九時過ぎ出発。
小雨の中まず、王子製紙工場跡を訪ねる。大正十二年(一九二三)八月三日、賢治が教え子の就職を依頼に訪れた所だ。運転手のコスチャさんは工場はもうないと消極的だったが、跡だけでいいからと案内を頼む。一方通行の道を迂回し、工場に近づく。工場は王子製紙の建物をそのまま使って稼動していた。今は、製紙工場でなく鉄鋼関係の工場とか。雨の中撮影する。南隣の社宅のあたりの写真も撮る。建物は新しくなっているがこの場所にあった王子製紙の社宅に賢治も泊まっている。
旧王子製紙工場
いよいよ、ホルムスク(真岡)に向かう。賢治とは直接は関係ないがサハリンの主要なとし、日本統治時代の代表的な都市なので当時の雰囲気を知るにも訪れてみよう。
サハリンデパートの前を通り、自由市場を左に見て、踏み切り渡り南へ、途中から東へ進み真岡に向かう。
展望が開け、左に広大な原野が広がる。後から考えると鈴谷平原だ。右手は低い山が続く。間は牧草地。時々、牛が遊んでいる。川を渡る。ガイドのターニャさんが説明する。地図を見て似た名の留多加川の名をあげると、間違えましたルタカ川だと訂正する。鈴谷川もそうだが、地名にはまだ残っているものもある。もともと現地語だった地名を使ったものはロシアになっても同じような地名になっているのだろうか。
道はだんだん山岳地帯に入っていく。といっても、緩やかな山の間を進んでいく。景色に変化が無くなり同じような景色が続く。道端には大きないたどりと太い蕗が続いている。樺太を訪れた白秋の歌にも出てくる大きな蕗だ。帰りに写真を撮ろうと思う。木々は相変わらず、ナナカマド、落葉松など。集落もなくただ、同じ山の景色。たまに集落があると何で生活しているか興味あるがガイドのターニャさんはそこまではわからないよう。鉱石を採っているとか、川を使って何かの産業があるとか。途中小さな家が点点とある地域を過ぎ、別荘かなと思う。後で聞くとやはり別荘で、ホルムスクで集合住宅に住む人で余裕がある人たちは別荘を持ち畠を作ったり、魚を釣ったり自然と触ているようだ。ホルムスクに近づくと一ヶ所舗装していないところに来る。工事中で、道はでこぼこ。昔、仙台から山形へ作並峠を越えたときを思い出す。40年前のことだ。
ロシアは四十年遅れているということか?
舗装工事現場が過ぎ、ホルムスクも近づく。家内がトイレに行きたいと言い出し急いでフェリーターミナルに行ってもらうよう言う。家が次第に増え町に近づいたことを感じさせる。道は下りになり、急に前方に海が見え出す。ホッとする。踏み切りを渡り大通りを左に曲がって進む。埃っぽい道。ポプラ並木を行く。木の下1メートルくらいが白く塗られている。虫除けだそうな。ビルが多くなり賑やかな町並みに出る。右手にフェリー乗り場がある。駐車場に停めフェリー乗り場のロビーに入り、早速トイレに。3つほどのへこみがありそこがトイレ。ドアもない。いわゆる大便所らしきものはない。この凹みでやるということなのだろうか?
ロビーに出てコスチャさんと女性陣を待つ。しばらくして戻る。心配していたがターニャさんが次に控えて鍵のないドアを守っていてくれたとか。コスチャさんの案内でフェリー乗り場を見て回る。切符売り場。二階に上がり税関の入り口?大陸に渡るフェリーのターミナルなのだがあまりそういう大きなターミナルという感じはない。
屋上に出てあたりをみる。外に出てフェリーの係留地点に行く。線路の残ったフェリー乗り場。右脇からフェリーに近づき見送った気分。フェリーから車に戻ると警官が来てコスチャさんに何か言っている。ターニャさんに聞くと駐車違反で罰金を取られるとか。トイレに急がしたので違反の地域に止めてしまったのだろう。聞くと二ドルくらいとのことなので二ドル代わりに払う。
道を戻り両替の為銀行に行く。両替は家内に任せ、私は銀行や左隣の郵便局の写真を撮る。三人出て来て出発。並木道を北へ緩やかな坂を登り突き当たりの空地に駐車。
道を戻り海の博物館(海軍記念館)を見学。緩やかな斜面の手前に大砲が展示してある。更に登り建物に入る。暗い館内。ホールみたいなものを見る。何が何だかわからないうちに出てくる。駐車場に戻り目の前の階段を登る。お寺の跡だという。後で真岡神社の跡と分かる。ターニャさんにはお寺と神社が区分けできないのだろう。かなり急な昔の神社の階段を登る。両側に二列に並行して階段がある。真中をセメントで埋め、てすりをつけたのか。
旧真岡神社階段登ったところには今はコンピュータセンターがある。その前は船員クラブだったとか。墓地らしき所を探したがない。神社だったのだから当然。見晴らしもいいはずだが木が大きくなってそれ程でもない。車に戻り神社の右手の坂を登る。神社の上のほうに行く。後で聞くとコスチャさんはこゝの海員学校を出たとかで詳しいのだ。アパートの後ろに来る。アパートの前の道から港を見下ろす。左下にフェリー乗り場、前に港。岡の下に町は左右に広がっている。向かいの海は韃靼海峡。安西冬衛に〈てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた〉(「春」)と歌われた青い海が広がっている。写真をばちばち撮る。家内は犬を連れた子供達と遊んでいる。
港を見下ろした後、昔の燈台の建物のようなところを下り左へと岡の上を進む。広い広場に来て突き当たりのサッカー場の前に駐車。サッカー場を覗く。丁度通りかかったロシア人と話す。ロシアのサッカー選手が日本に行っているとべらべらしゃべっている。日本に興味を持っているようだ。挨拶したり握手したり一緒に写真を撮ったりする。車は少し移動し広場のまん前に止まる。後にはレーニン像。その後は市役所。前は花壇を持った広場に搭が立っていてそれに木を挿して飾りにするとか。左手は郵便局、右手は映画館。
まずは、眺望を見に郵便局の裏に。眼下は駅。左手に元の製紙工場。港の写真をとる。
郵便局はあの最後の通信を送ったところ?いやそれは下の町のなかにあったようだ。
更に南へ進みアパートの前にある自由市場を見学。アイスを買う。5ルーブル。トマト40ルーブルやグミ8ルーブルを買う。アパートの一階の店を覗く、パン屋さん、化粧品屋さん、洗剤もある。肉屋もある。店内は暗い。二階にも店がある。
丘を降り、先ほどの並木道に戻る。レストランくしろにつける。有名なレストラン。入ると、受付が在る。メニューのウインドウ。左に橋をかたどった階段。その下にトイレ。中の小便用は普通。大便用はドアが壊れ空きっぱなし。便座もない。
二階に上がり席に着く。水が大きなグラスに。おシボリ。最初サラダ。次にトマトときゅうりの切って並べたの。スープは、ごった煮風。野菜やベーコンの刻んだものが入っている。メインはラッパ虫のてんぷら? つぶ貝ようなもの天ぷらだが硬くて衣ばかり目立つ。全く不味い。別席に船で一緒だった志村さんがきている。挨拶して店を出る。
港に行き車を手前に停めてコスチャさんが(日本人とわからないよう)黙ってといって船員手帳見せて普通は入れない港に入る。貨車の脇、石炭を積むクレーンの下を越え、材木を積み上げた脇を進み港の岸壁に出る。岸壁には昆布が沢山ついて波に揺れている。港から見渡したホルムスクの町は西洋の明るい港町の姿である。
港を出て、別の高台から港の北部を撮る。コスチャさんも私がどんな旅をしようとしているか分かってきたようだ。
ホルムスクを去り、ユジノサハリンスクに向かう。帰途、海が見えるところで止まり、水の飲めるところで止まる。熊笹峠を下から撮っていると上の峠の記念碑の所に行ってくれる。真岡の海が見える。記念碑は慰霊碑にもなっている。丁度五十三年前、日本人達がソ連軍に追われて多くの犠牲者を出した熊笹峠だ。慰霊の意もこめて花束が捧げられている。日本人として犠牲になった人々に黙礼する。
舗装道路を下りもとの道に。さっきの未舗装の道路になる。いったん行き過ぎて思い出したように戻って左の小道に入る。コスチャさんの友人の別荘を訪ねる。大きな蕗が入り口付近にあり写真をとる。友人も出てきて話す。家は川のほとり、魚もとれるとか。
国道に戻り舗装のないガタガタ道を行く。舗装道路に戻り山の中を行く。途中、小さな村で右折し細道を入る。川に出ようとする。結局、水溜りで車が進めなくなりあきらめる。このへん、コスチャさんの気分が乗ってきてあちこち案内したい気持ちが伝わってくる。元に戻りだんだん平地に近づき展望も開けてくる。
今度は、右手に鈴谷川の平野が広がる。時々、車を停めて写真撮る。遠くにユジノサハリンスクが見え出し。背後の山も見える。
明日、展望台に行きたいと言うと行ってくれるという。右手の山の中腹にあるスキー場の所らしい。右に曲がり畠の中を行き橋を渡る。鈴谷川を見せてくれるという。車をおり橋の下を過ぎるがうまく見えない。結局橋を渡り川と山の取り合わせで写真撮る。
あとは、ユジノサハリンスクに一気に入る。昨日着いたときと同じような雰囲気。渋滞が始まり会社の帰宅時間を感じさせる。派手で綺麗な通勤帰りの女性達。汚れた町並みと対照的。六時、サハリンサッポロホテル着。
家内は、風呂と洗濯。私は、散歩に出る。
まだ明るいので安心感がある。カメラを二台首にぶら下げ、手にはデジタルビデオ。腹にウエストバッグのいでたち。胸張って早足で歩く。ホテルの裏に抜け、更に市役所の東に出る。東に向かう。サハリン州行政府、チェーホフ劇場、サハリン大学東洋学部、サハリンエナジー、そして博物館。日本時代の樺太博物館だ。博物館前には数人の女性や子供がいたが写真をとる。大砲なども庭に展示している。旧樺太神社の狛犬は玄関の前に。
将校会館の角を向うに渡りガガーリン公園(旧豊原公園)の一角にあるロシア正教会に。次々と女性が訪れている。ロシアの女性は敬虔深いことと感じる。
ロシア正教会
教会前を左(北)へ行く。ガガーリン公園の入り口。中に入るとガガーリンの銅像が在る。
ガガーリン銅像
八月九日(水)快晴
九時、ターニャさん、コスチャさんが来る。出発。今日は、今回のサハリン訪問の一番の目的地栄浜に向かう。
まず、ユジノサハリンスクの東に接する山の旭展望台に行く。冬はスキー場になるところで未舗装のガタガタ道を車でゆっくり登っていく。本当に穴だらけの道でコスチャさんは慎重に歩くようなスピードでゆるゆる登っていく。やっと山の中腹の展望台に到着。冬は、スキー場の駐車場になるようなところのようだ。山側にはジャンプ台やリフトの施設もみえる。宿泊施設らしきものもあるが、ここ数年は経済力の低下で使われてないとか。西側は見事な展望が開ける。向かいの西の山並みも南北に長く続いている。
眼下にはユジノサハリンスクの町が広がっている。意外にも夏だというのにスモッグのような黒い靄に覆われている。町の西の郊外の工場から黒い煙が出つづけている。その煙や町が出すガスがスモッグとなって町を覆っているのだ。町にいる時は気が付かなかったがやや離れてみるとサハリンでさえ空気が汚染されている事を残念に思う。かすんだ靄の下に碁盤の目のような道路で整然と区切られた町が広がっている。町の南北には広い平原が広がっている。鈴谷平原だ。向かいの山並みはなだらかに南北に長く続いている。有名な鈴谷岳は自分のいる側に南北に連なる山脈の北(右手)にあると教えられる。散々写真を撮り下山する。
ユジノサハリンスク(旧豊原)
山を下りて町に入ると南へ行き町の東のはずれにある勝利の広場に行く。大砲が台の上に据えられ、西の空を指している。前には警察か軍隊だか、制服を着た人々が出入りする大きな施設がある。広場では朝の通勤の人々が待ち合わせている。バスが迎えにくるのだ。ここから北に戻ってガガーリン公園(旧樺太公園)の西南の隅にあるロシア正教会へ。家内はスカーフつけ私は帽子を脱いで聖堂内部へ。写真を撮ってもいいということで撮影。丁度洗礼を受けている女の子がいて、普段は閉じている祭壇が開帳される。教会の壁面にはイコンが沢山飾られている。独特の雰囲気である。
教会堂内
町を抜けいよいよ北に向かう。しばらくして国道は郊外を抜けのびのびした牧場に出る。道はまっすぐ北に伸び、左右は広大な牧野である。コスチャさんがあらかじめ頼んでいた鈴谷岳を教えてくれる。ユジノサハリンスクの東に南北に連なる鈴谷山脈の中心のやまだ。今はチェホフ岳というという。後で地図で見ると、実際の最高峰はプーシキンスカヤ岳と名付けられているが登山としてはその隣りのチェホフ岳が人気があるらしい。予想していたよりなだらかな女性的な印象を与える山。サハリンには屹立するような角張った山はないようだ。賢治は、鈴谷平原を散策し、標本など集めたようである。「樺太鉄道」では、〈鈴谷山脈は光霧か雲かわからない〉と雲にかすんだ山脈の様子を写している。今日は、麗しい空に静かなシルエットを連ねている。
国道を更に北に進み鈴谷平原の広さを写真に撮る。後は広々した原野の中を走る。ドリンスク(旧落合)に近づくと道の両側の牧草地が消え林が増えてくる。
ユジノサハリンスクあたりの木は、楊、落葉松、ナナカマドなどが多かったのに対し、このあたりは、白樺が増え、落葉松に対しとど松が多くなる。南北の移動なので植生がはっきり変わるのがわかる。
宮沢賢治は、このあたりの白樺を〈崖にならぶものは聖白樺/(中略)(樺の微動のうつくしさ)(中略) (こゝいらの樺の木は/焼けた野原から生えたので/みんな大乗風の考をもつてゐる)(「樺太鉄道」)と神聖な感じにとらえている。
落合の旧製紙工場を左に見て更に北へ。海が近づいたのだろうか右手奥の丘の上にレーダサイトが見える。
更に進むと道がやや下り坂になり前方に海が見えて来る。スタルドブスコエ(栄浜)の海だ。人家が増え始め、線路を渡る。車を停め私は線路の写真を撮る。他の皆は右手の建物へ道を聞きに行く。建物は何でも屋のような店だったようだ。
旧栄浜駅の位置を聞いてきた。ユジノサハリンスクからまっすぐ北へ北へと五十キロ続いて来た道はこゝで尽きている。突き当たった道は東西の道に変わり海岸の方へは舗装のなくなった細道が入り込んでいる。海岸には後で行く事にして、旧栄浜駅を目指し今まできた方向から左手(西)に行く。馬が放されて道にたたずんでいる。右手には甍を越して海が見える。別の線路を渡り戻って車を停める。線路を南に辿る。ポイント切り替えのところに来る。終点の証拠。あたりに駅跡を示す土台が残っている。コスチャさんがあたりの人に聞いてくれる。近くの家の老人が出てきていろいろ教えてくれる。何年か前に日本人が訪ねて来たという。俳優の奥田瑛二がテレビ番組の取材で来たのをさしているのであろう。
栄浜駅跡、宮沢賢治が大正十二年八月四日、降り立った駅の跡だ。私は、線路や、線路脇のハマナスや駅の土台跡を写真に撮る。線路は赤くさびながらも撤去される事もなく南へ続き、また、北の海岸へと続いている。昔はニシン漁で栄え、それを運ぶために線路も海岸へと延びていたのだろう。栄浜の名も、ニシン漁で栄えた様子をあらわしているという。家内やターニャさんが老農夫の家のトイレを借りる。旧駅舎のものだそうな。老農夫と写真を撮ろうと言うとこんな服装でと恥ずかしがる。ズボンのジッパーが壊れているのを示す。お礼に四色ボールペンを差し出す。家内は何もお礼の品が無いので家の子供に柔らかい日本のティッシュをやったとか。
いよいよ、栄浜に向かう。道を東へ戻り、ユジノサハリンスクから来た道が未舗装になったところから北へ入り、浜への道をたどる。目の前に長年夢に見た栄浜の海が広がっている。
栄浜
戻ってもっと西に行きたいというと車で出かける。何か勘違いしていたようで元の道に戻り、海岸の道をずっと西へ行き川だか残留湖みたいなところに出る。そこはそこで魅力的な所で写真撮り元の海岸に戻る。
同じ浜を車でいける所まで西に行き、自動車止め、更に私は歩いて西の牛の集まっているところに向かう。海岸で牛が四,五十頭遊んでいる。海水浴をしている。長閑なものだ。人々も特に意識もしていない。一緒に海水浴している。私は背後の草の土手へ行き写真撮る。ハマナス、釣鐘人参。しかし賢治が「サガレンと八月」で一面に咲いていると描いているヤナギランはない。ただ弘法麦が砂から顔を出しているのには感動した。芥川龍之介の「海のほとり」に描かれていて、舞台の上総一ノ宮で散々探して見つからなかった草だ。九十九里浜からは姿を消してしまった海浜の草にサハリンで出会うことができた。戦車みたいなものの残骸も草の中にあった。日本軍のものかロシアのものか。
弘法麦
海岸に戻り牛の遊ぶのを家内たちと見る。オスがメスにのしかかったりもしている。長閑なものである。さんざん蚊に食われ海岸を退散。干していた昆布を集める。近くの魚をとっていた人たちが私に魚をくれるという。鱒だろうかかなり大きな魚だ。私は、旅行中なので通訳の人にやってと言い、ターニャさんが貰う。バケツに二十匹もいただろうか。三匹貰っていた。
賢治は、「オホーツク挽歌」で、この海の様子を
海面は朝の炭酸のためにすつかり銹びた
緑青のとこもあれば藍銅鉱のとこもある
むかふの波のちゞれたあたりはずゐぶんひどい瑠璃液だ
チモシイ(注―牧草)の穂がこんなにみぢかくなつて
かはるがはるかぜにふかれてゐる
と、海辺の様子を描き、
朝顔よりはむしろ牡丹のやうにみえる
おほきなはまばらの花だ
まつ赤な朝のはまなすの花です
(中略)
波できれいにみがかれた
ひときれの貝殻を口に含み
わたくしはしばらくねむらうとおもふ
なぜならさつきあの熟した黒い実のついた
まつ青なこけももの上等の敷物と
おほきな赤いはまばらの花と
不思議な釣鐘草とのなかで
サガレンの朝の妖精にやつた
透明なわたくしのエネルギーを
いまこれらの濤のおとや
しめつたにほひのいい風や
雲のひかりから恢復しなければならないから
と歩きつかれて浜の草の上で休む事を思い、また、前年の十一月失った、最愛の妹としを思って
わたくしが樺太のひとのない海岸を
ひとり歩いたり疲れて睡つたりしてゐるとき
とし子はあの青いところのはてにゐて
なにをしてゐるのかわからない
と、あの世のとしと魂の交感が出来ないかと思いを馳せる。
ハ
とゞ松やえぞ松の荒さんだ幹や枝が
ごちやごちや漂ひ置かれたその向ふで
波はなんべんも巻いてゐる
その巻くために砂が湧き
潮水はさびしく濁つてゐる
(十一時十五分、その蒼じろく光る盤面)
ロシア語の地名スタルドブスコエは古木の意であるとか。流木の流れ着く海岸であるらしい。賢治が歩いていたのは、十一時十五分頃、ロシア時間の午後、一時過ぎであるようだ。それに近い時間に栄浜を歩いたのだ。
次に、白鳥湖に向かう。賢治の「銀河鉄道の夜」を書くきっかけになった湖というところだ。作品が北の十字架白鳥座から南十字星への旅であるところからの連想である。
道を北西に取る。栄浜を抜けると海岸に沿っていい道が続いている。海岸は湿地帯風になり素晴らしい風景が続く。池ありとど松の林ありその先に青い海が続いている。白鳥湖から川が出るところの橋の袂で写真をとる。白鳥湖は内側の彼方に広がっている。湿地に囲まれて近くには近づけないのだ。更に北西に進み道路をはずれ海岸に出る。砂浜に車を留め、昼食。お弁当を食べる。車の左右では泳いだり日光浴をしたりしている。左には砂浜の中にプールのような水溜りがあり子ども達が泳いでいる。
昼食後、浜の波打ち際に向かう。私は、穴のあいた貝殻を拾う。乾いた砂浜に穴のあいた白い貝殻が点点と落ちている。賢治の「サガレンと八月」に出てくるツメタガイにやられた貝殻だ。このあたりの海岸は、「サガレンと八月」の長閑な海岸を彷彿とさせる。賢治が風と語り、波と言葉を交わした様子が浮んでくる。他の三人も海岸で何か拾い始める。琥珀を拾っているのだ。私も探すとそここゝに点点と転がっている。小さなものだがおかしいくらい続いている。浜は汚れも無く賢治がきた頃の栄浜はかくやと思われた。
オホーツクの海辺
しばらく遊んだ後浜を去る。帰りは、ヤナギランを求めて行く。所々の川に風情がある。途中、湿地帯の中に入りヤナギランを探す。川が黒くにごっているのは石油を含むからとか。農家に入ってしまったりして戻る。白鳥湖から海に流れ出る川に掛かった橋の所で土手を降り期待ほどではないが程ほどに密集したヤナギランを撮る。家内は花の中に入ってトイレする。車に戻り栄浜に戻る。
栄浜に戻ったとき、向うからデモ隊が来たと思った。車は道の右脇に止まった。前の車も止まっている。お葬式とターニャさんがつぶやく。花を道の左右に撒きながら道の真中を若い女性の写真を前に抱えた女性たちが歩いてくる。その脇や後に二十人位の若い女性が続く。皆晴れ着を着てカラフルなのでデモかと思ってしまったのだ。友人たちなのであろう。若くして亡くなったのだなと思う。その後にトラックが一台ゆっくりと続く。荷台には中央の棺を、お母さんだろうか姉妹だろうか、何人かの人が悲しげに覗き込んでいる。その後に三々五々色とりどりの衣装に身をつつんで大勢の人たちがゆっくりと歩いてくる。さらに後には、たまたま通りかかった車が何台もゆっくりと続いている。葬列が通り過ぎて車はまた走り出す。道には花がずっと撒かれていて葬列の行跡を示していた。宮沢賢治はこの葬列を見たろうかとふと思う。当時は日本統治の時代であったが、ロシア人も混在して住んでいたらしいのでもしかしてこういう葬列を見たとしたら、「銀河鉄道の夜」のヒントはこゝにあったのかもしれないと思いは馳せる。死者に付き添って送っていく。なるべく明るい装いで。賢治は、花で葬列の周りを飾る代わりに星と銀河で飾り立てたのではなかったか。栄浜での妹のとしへの思い、白鳥湖といい、こういった葬列といい「銀河鉄道の夜」を思わせるさまざまなヒントがサハリンには多いのである。
葬列に別れ、道を南に取り帰路に着く。
帰りは、一気に走る。落合では製紙工場を眺め、後は、とど松、白樺の林を行く。
途中、ヤナギランの多いところでコスチャさんが止めてくれる。草原に入り写真を撮る。賢治の来た頃は辺り一面ヤナギランが咲いていて風景がピンク色に染まっていたようだが今は、一生懸命捜さなければまとまった花は見られなくなってしまったようだ。ぱらぱらなら、道端のどこにでも咲いているのだが。
更に豊原に近く戻り、道脇の牧場で、チェホフ山の写真を撮る。西の広大な原を鈴谷平原の一部として写真に撮る。
その後は一気に戻りユジノサハリンスク市内へ。自由市場の近くに車を置き、本屋へ行きサハリンの地図を買う。冊子の詳しい良い地図が手に入った。ソ連時代には考えられない事だろう。お金払おうとすると、ターニャさんが、お土産にくれるという。
ガガーリン公園の手前のペトリューシュカ専門の売り場に行く。絵葉書やペトリューシュカを買う。ホテルに。五時十五分頃。七時にレストランへ来てもらう約束で分かれる。
ホテルで一息つき、家内と二人で散歩に出る。歩いて五分ほどのユジノサハリンスク駅に行く。駅近くにある小さなホテルの前を通り駅へ。駅入り口の階段の上から駅前広場の写真を撮る。駅構内へ。売店がある。家内はガムを買う。駅舎の北に接する駅の経営するユーラシアホテル前を通り、駅前広場の北を東へ戻る。レーニン像の前で写真撮る。昨日のホルムスクでもそうだが、サハリンではレーニン像が残されている。ロシアの他の地域では倒されてしまったはずなのに不思議に思う。アジアに属する地域の島で、住民が穏健だからだろうか。一説には片付ける金が無いからだともいうが。ホテルに戻り、一休みし、七時にロビーに。二人とも来ている。レストランに行き会食。今回の訪問でお世話になったお礼の食事会。メニューを見て高値に遠慮してターニャさんはあまり頼んでくれない。コスチャさんはウヲッカにポークステーキ、コーヒー。地図に二人のサインをしてもらう。コスチャさんはロシア語で書いてくれ、ターニャさんが訳してくれる。〈サハリンの旅行について記念にコスチャ海員からサインを書きます〉の意だそうな。
最後ボーイさんに四人の写真を撮ってもらう。九時二十分まで楽しく歓談する。最後の夜を過ごす。
コスチャさんとターニャさん
八月十日(木)うす晴れ
朝、六時起床。髭剃り、シャワー浴び、朝食はとらず、出発に備える。七時四十五分頃ロビーに。フロントに行きチェックアウト。フロントの女性は計算機やパソコンを使って何度も何度も計算している。なにかこちらの助けを求めているみたいな感じ。頼りないことおびただしい。結局、食事代を払い百六十六ドル。宿泊費は既に日本で払ってあるのだ。払いが終った頃ターニャさんも来る。
いよいよ、出発。来た道を戻る。朝の通勤ラッシュで上りが渋滞している。天気は曇り。昨日がいかにいい天気だったか分かる。神様か賢治が私の意を汲んでよい天気をお恵みくださったのだろう。右手に鈴谷平原の広大な風景を見ながら帰る。海が見え出しコルサコフに。税関の建物に着く。ベンチに座っていると日本語話せる女性がいて如何でしたかと話し掛けてくる。ボランティアの女性のようだ。出国手続きには百五ルーブル払わなければいけないとか。あわてて手続きする。ターニャさんにルーブルやトイレットペーパーやってしまった後なので慌てたがターニャさんが払ってくれ、変わりにドルを十ドル渡す。
あとは、ベンチで待つ。コスチャさんも来て記念撮影。いよいよ出国。別れを告げ握手して出る。まずは税関。マトリューリュカはないかといわれワイフといったらそれで通過。思ったより簡単だった。ターニャさんに手を振って別れを告げる。出国窓口では女性の係員にパスポート示し最後のスパシーボ(ありがとう)。中に入りベンチに場所とっていたら後ろの家内があわてたそぶり。側に行ったら私のパスポートを持っている。さっきの手続きのとき入れ違えたのだ。よく私が出国できたもの。再度示してやっと出国手続き終了。後は、ベンチでバスを待つ。隣に釧路から来たと言う人がいて話を聞く。姉妹都市なので何度も来ているとか。四、五年前はサハリンを旅するのは大変だったらしい。今は、随分良くなったとか。船に向かうバスに乗る。やっと落ち着く。バスが出て桟橋を船に。バス降り日本人の船員に迎えられて船内に。一等座席室に。本当は右に座りたかったが来るときと同じ所に。例の実業家のグループも一緒なので別の席には座りにくい。
出航は、十時。帰途、実業家のグループの人たちともしゃべる。渋田さんという人は、紋別でタグボートの会社経営したり、レストランしていたり、幅広く事業をしていて、今回、サハリンで港の仕事ができるか視察に来たらしい。団長は、紋別にある東京農大の美甘先生。一緒に写真撮ったりする。
天気も次第に良くなり、青い海に航跡を残して南へと進む。宗谷岬が見えて来た。賢治は、樺太からの帰り夜明けの様子を詩「宗谷二」に描いている。午後二時稚内着。長年の夢だったサハリン探訪の旅も無事終わった。満足な思いに浸りながら港の道を歩いた。
人目の訪問者です。